おだ ながます |
生没年 | 1547〜1621 | 信長の弟 |
幼名・別名・官職名 | 幼名=源五。 有楽斎如庵。 従五位下侍従。 | 生母 |
織田信秀の十一男。 天正九年(1581)の正月の左義長馬の参列では一門衆として登場。 順序は信雄、信包、信孝に次いで登場。 (その次ぎが信澄) この順序の先頭に信忠を加えたものが、この当時の一門衆の順列であろうか。 ただ、2月の馬揃えでは信忠、信雄、信包、信孝、信澄、長益・・・・という順である。 天正十年(1582)の甲斐武田攻めや慶長五年の関ヶ原の戦いなどにも出陣しているが、 この人の場合、武将としての功績よりも茶人としての名声の方が高いのであろう。 実際、戦功も挙げているのだが茶人としては千利休の弟子として利休七哲にも名を連ねている。 また有楽斎如庵と名乗り、織田長益という名よりも織田有楽斎といった名のほうが知られている。 この有楽斎の江戸での屋敷があった場所を有楽町と名付けられたことでも知られる。 茶人として一派を立て、有楽流として伝わる。 天正十年の本能寺の変に際しては信忠とともに二条御所に立て籠もるが無事脱出している。 ただ単に幸運だったのか。 一部、信忠の命を受け脱出したとか、他の武将達を偽って逃げ出したとかともいわれている。 事実はどうだったのか? 本人のみが知るのであろう。 関ヶ原の戦いでは東軍に属していたが、信長の弟である長益は淀君の叔父でもある。 大坂方の中において重きをなし大坂の陣(冬)では城内にいたが、その実は家康に通じていたという。 ほとんどの武将が討死した二条御所からの脱出、家康への内通という事実が、長益のダークな面を 醸し出している。 彼の将としての器を謀るに意見の分かれるところであろう。 彼も信長の子弟の中で最後まで戦国を生き抜いた人でもあり、大名としての人生を全うした数少ない男である。 関ヶ原の戦いの功績により長益は摂津島下郡味舌(ました)3万石を賜う。 また嫡男長孝は美濃国野村1万石を賜っている。 大坂夏の陣の直前に城を出て隠棲。 元和元年(1615)年、所領を分割して四男長政、五男尚長に1万石づつ分与し、 1万石は自らの隠居領とした。 元和七年(1621)年、死去。 隠居領であった所領は収公された。 長孝の美濃国野村1万石はその子長則(長次)の時に後嗣なく断絶。(寛永八年) 四男長政に分与された大和国戒重1万石は居所を芝村に移したのち明治を迎え廃藩置県まで存続。 五男尚長に分与された大和国柳本1万石も変わることなく廃藩置県まで存続した。 |