濃姫は正室の座を全うしたのか 

 
 濃姫。

 斎藤道三の娘、帰蝶。 織田信長に嫁ぎ正室となった女性である。

 この濃姫も未だ不明な点を多く残し、後世の歴史家・歴史愛好家が様々な推理を巡らしてきた。

 なぜなら、信長の正室でありながら文献等に登場する機会が滅多にない。

 信長の生きた其の時代、出来事、事件。

 それらが起きたときに生きているのか死んでいるのか。

 側にいたのかいないのかがはっきり解らない。

 それが様々な憶測をよぶはめになった。

 

 本編では、濃姫自身の生涯の紹介よりも彼女を巡る一番の謎 「道三の死後どうなったか」 に焦点をあてて考えてみたい。

   (濃姫自身についてはマイナー武将列伝番外・女性編 濃姫 を参照されたし。
    とはいうもの、かなり重複している記述も多いと思います。 赦されたし。)

 

 実は濃姫の立場、行動についてはいろいろ評価が分かれるところである。

 この婚姻は政略結婚であり、道三は尾張へのスパイとして娘を送った。

 一方、織田氏は勢力拡大の後ろ盾として道三の影響力を利用しただけにすぎない。

 従って、二人の仲は良いはずもなく、また道三の死後、濃姫は追放され(または殺され)たてしまった。

 −−−という見解。

 政略結婚であることには違いないが、妻としての立場をわきまえて信長を支え信長もそれを評価していた。

 −−−と言う見解。

 さらに、入輿直後のことしか文献にあがってこないことから、すぐに病死してしまったという見解。

 あるいは、婚約はしたが入輿は未だしないまま道三が死に自然解消されてしまった見解。

 

 一般的に「文献などで見られない」ということから、濃姫は道三死後、少なくとも信長の岐阜入城の頃には 生死は別にして信長の側にはいなかったという意見がかなり強いように思える。

 では、どうなったのか?

 

   1.病死した。

   2.殺された。

   3.美濃に送り返された。(斎藤氏の元へ)

   4.美濃に送り返されたが斎藤氏には戻らず。(明智氏等の元へ)

 

 1.の「病死した」はともかく「殺された」はありうるか?

 「美濃に送り返される」ことはありうるか?

 美濃に帰ると言う場合、実家に戻るということに繋がる。

 実家は斎藤氏ということになるが、既にこの時期の斎藤氏は実家の斎藤氏とイコールでありえたか?

 濃姫は斎藤道三の小見の方との間に生まれたと伝わる。

 小見の方は東濃に拠点を置く明智光継の娘である。

   (余談ではあるが明智光秀はこの明智一族の遺児であり濃姫の甥にあたるとも伝わる。
    しかし、事実かどうか? 疑問点も多い。
    明智氏の支流の出ぐらいに考えたほうがよいかも。)

 斎藤道三を下した道三の子義龍はの実父は美濃守護土岐頼芸である。

 事実かどうかは別にして、義龍は「自分はの本当の父は土岐頼芸であり、道三ではない。

父頼芸から簒奪した美濃を奪回するため道三を討ち、道三の子を殺した。」と信じている。

 また、それゆえ父親殺しの汚名を免れている。

 ならば濃姫は義龍から妹として受け入れられるであろうか?

 まして明智氏は義龍のクーデターをよしと思わず抗したため、義龍によって滅ぼされている。

 義龍は濃姫にとって異母兄弟(もしくは義理の兄弟)であると同時に実父と母方の実家の仇である。

 もし、尾張から濃姫が送り返されてきたとしても 義龍は素直に受け止めえたであろうか。

 信長の命を受け美濃の内情を探りに来た受け止められるのが落ちではなかろうか。

 また、濃姫の心情としても義龍のもとで暮らす気になりうるであろうか?

 

 そんなことから濃姫は母の実家の縁故を頼り、明智の庄もしくはその近隣で生涯を過ごしたともいわれる。

 濃姫の墓が見あたらない。(後注)

 尾張で病死若しくは殺されたなら尾張に墓ぐらいはあろう。

 斎藤氏のもとで過ごしたなら美濃近隣に墓があろう。

 だが、尾張にも美濃にもない。

 それは明智の庄に帰ったから見あたらないのだ。

 明智氏は滅びたため縁故と言っても、半農生活であったり商人に姿を変えたりしていたのかもしれない。

 それゆえ、墓は東濃にあるけれども農民商人として葬られた為、今に伝わらない。

 そう言った意見も頷ける。

 

 しかし、もうひとつ疑問を投げかけてみたい。

 墓が見つからないということはその地域で死んでいないということであろうか?

 文献に名がでてこないのは死んでしまったからであろうか?

 そこにいないと断言できるものなのだろうか?

 

 歴史という者はほとんど男中心で語られてきた。

 事実、女性に関する文献や資料は男のそれほど多くはない。

 いかに高貴な女性でも、有力武将の母や娘、妻であっても、その生い立ちは不明であることが多い。

 生年や両親の名前、いや本人の実名さえわからないということが、ごく当たり前なのである。

 文献に名がでてこなくとも当たり前ともいえる。

 それが今までの歴史の現実である。

 『信長公記』に登場する女性は何人いるのだろうか?

 武将を描いた資料は軍記ともいえるものがほとんどである。

 戦の勝ち負け戦死者などは克明に記載されるが女性の記述はほとんどない。

 濃姫はおろか母土田御前の信勝死後のことも、嫡男信忠の母吉乃の事も記載されているわけではない。

 信長の子らの生母がはっきりしているのも数人しかいない。

 はっきりしているといっても信孝の母は坂氏の娘という程度であったりする。

 『武功夜話』が公開されるまで吉乃の事も不明確であった。

 『武功夜話』の例にあるように文献が「存在しないのではなく見つかっていない」 のだという可能性も充分ありうる。

 道三死後、文献に記載されないのは美濃でも同じ事。

 生きている証が書かれていないのは、死亡した記事がかかれていないのと同じ事。

 墓がひとつも無いのと信長のようにあちこちに墓があるのとどれほど差があろうか。

 そこに「証拠(文献)がないからない(存在しない)

 というのは可能性として高い論拠となるかもしれない。

 でも「そこに証拠(文献)がない。 だから他のところにある(存在する)という証拠

 とはならないであろう。

 そこに「証拠(文献)がない」。

 ならばそれ以前の「証拠(文献)」が継続していると考えた方が確実ではないか。

 そう考えると先にあげた1〜4の論拠は揺らいでくるように思える。

 

 『信長公記』に正室の死が記載されていないのは、信長公記の最終記事時点で生きているから。

 と、考えればどうか。

 これは現に信長の弟や子の一部がそうであるから不自然ではなかろう。

 

 濃姫が信長の死(本能寺の変)時点で生きていたとして。

 道三の死後、一時的にしろ追放されたり正室の座から追われたり可能性はあろうか。

 これは否といいたい。

 

 吉乃に正室を奪われたという意見もあるが、これも同じく吉乃が正室になったという文献もない。

 ならば、そればでの「証拠(文献)が継続している」つまり正室が継続していると思ったほうが道理では。

 逆に、なにゆえ濃姫を追い返したりせねばならぬのか。

 

 この結婚は信長は勢力拡大の後ろ盾として道三の影響力を利用した政略結婚。

 また美濃からの脅威を取り除いていただけにすぎない。

 道三の影響力がなくなった今、濃姫の存在価値はない。

 あるいは、濃姫は道三のスパイとして送り込まれ、それを知りつつ渋々縁組をしていた。

 道三亡き今、遠慮することなく追放した。

 

 後者は信長本人や信長の父信秀のそれまでの行動や性格からみても一笑される。

 前者はどうか?

 これが政略結婚であるならば、なおのこと濃姫を手放すのは下策であろう。

 道三はその死に際して美濃国の譲り状を信長へ宛てたという。

 美濃は義龍に嗣がすつもりはなく、信長へ譲るというものである。

 愛娘帰蝶(濃姫)に宛てたともいうが、その真偽は別にしてこれは重要な大義名分ではなかろうか。

 

 先に「義龍は本当の父は土岐頼芸であり道三と信じ、父頼芸から簒奪した美濃を奪回するため道三を討った。」 と書いたが、ならば義龍は土岐氏の美濃を継承した事になる。

 土岐氏は前世代のこと。

 現在は斎藤氏の美濃国。

 斎藤道三を討ち滅ぼした土岐を称する義龍を、道三の娘と娘婿が仇を討つ。

 さらにそれを正当化する譲り状。

 

 単に義龍を倒すことが目的ではなく、美濃を併呑するつもりがあるのなら尚の事、 有効な切り札ではなかろうか。

 まして、義龍は土岐氏の子といいながらも斎藤姓を継承している。

 それだけ斎藤氏の継承権の正当性が美濃支配に必要と言えるのであろう。

 だが濃姫を追放なり謀殺してしまえば、その効力は半減してしまう。

 

 美濃を離反した武将も、併呑後の傘下に入った武将も同じ思いではないか。

 主君を裏切ったのではなく元の主君の譲り状に従ったと考えれば道理も立つ。

 

 私が信長の立場ならば絶対に濃姫を離さないのだが。

 こんな考えどういったものでしょう。

 

 

 本能寺の変の時には安土にいたという説は実際にあります。

 安土殿と呼ばれた人物が濃姫らしい。

 濃姫は実名ではなく「美濃から来た姫」という程度の意味。

 正室や側室の呼び名が途中で変わることはままあります。

 安土殿は信長の二男信雄により600貫文の知行を与えられて生涯を過ごしたそうです。

 この安土殿が濃姫であるならば、慶長十七年(1612)に亡くなられ大徳寺総見院に供養されているそうだ。

 

  尚、末の「私が信長の立場ならば」というのはなにも政略結婚を支持しているわけでも、私個人が女性を 利用しているわけでもありませんので。
  あくまでも、それが常套な婚姻方法であった時代に、乱世を生きる将に身を置き換えてという事です。
  ご了承のほど。。。

 
 
 
 

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