足助町香嵐渓に桃源郷を見た!

 〜愛知県の東に位置する足助町は、春は桜、夏は鮎、秋は紅葉と、いかにも純日本を思わせる地域だが、そこには何と中国人多数が営業する屋台村があった!〜

  愛知県東加茂郡足助町、ここは愛知県の北東の山間にある町である。古くは承久の乱の際に、京方についた足助一族の基盤地域である。足助重範は元弘元年(1331年)、後醍醐天皇が笠置山で立ち上がったときに参加、翌年、京都六条河原で
亡くなっている。後の時代にも、この地は、名古屋方面と西三河方面の通路が合流する地域であり、さらに信州方面への街道であったことから、山間交通の要所として非常ににぎわった。信州地方に入る塩は、ここで荷直しされるために、「足助塩」と呼ばれたそうである。このような活発な経済は、今で言う「住民パワー」を増長させ、天保7年(1836年)には、岡崎〜足助間の道筋が中心舞台となった河地方最大の百姓一揆が発生している。
 後の明治23年12月17日、この足助地方は町制施行により現在の足助町となったのである。
 この季節の足助町は、香嵐渓へ来る紅葉狩りの観光客でにぎわう。筆者が訪れたのは、11月1日で、時期的には紅葉していてもおかしくなさそうなのだが、残念ながら葉はまだ青々としていた。にもかかわらず来客は多く、大駐車場の手前約2キロくらいから渋滞(20分)を作っていた。
 途中、個人経営の駐車場がある。渋滞に負けそうになり、「ここに停めようか、いやもう一つ先に・・」と思いつつ、香嵐渓に最も近い町営の大駐車場に着く。結果的にその方が200円安かったのが不思議である。
 駐車場から市道を横切る。そこから巴川まで約50メートルの間、露天が並ぶ。通常の縁日と同じ様な光景で、お好み焼き、たこ焼き、焼き鳥などで、この地域特有のものは見当たらない。そう思って川沿いの道まで入ると、様子が一変する。木造の食べ物屋や旅館の軒先で、鮎の塩焼きや紅葉の天ぷらを揚げている。美味そうだったが、先に見える赤い橋(待月橋)が気になり、さらに歩く。
 岩場の河原には若いカップルが戯れる。歩道には「この先、三州足助屋敷」という看板がある。道なりに進むと、急に足場が開けて、ちょっとした広場にでた。まずは地元の手作りハムが売っており、その向かい側には、竹筒の器のそば屋がある。子供連れやカップルなど多くの人が休んでいる。いかにも日本の行楽地の休日であった。
 そして、その屋台はあった。仮設屋台といった感じだが、新しい木造の清潔感ある屋台である。上部には「山西省刀削面」や「中国点心」など4枚ほど毛筆書きの看板を掲げている。その中である者は、棒状の練り小麦を小刀で細長くカットして大鍋の熱湯の中へ落とす、ある者は小さな点心を捏ねている。まさに中華文化ここまで至れりである。
 しかし何故、こんな所に中国人の屋台があるのか?洗い場いた日本人に聞いてみた。この足助町は10年くらい前から、中国人留学生を招致していたが、その後、この山間の町に多くの工芸品を作る中国人が住むようになった、と言う。そういえば、この奥にある足助屋敷の中でも中国工芸人による中国品展というイベントをやっていた。こういった催しは毎年この時期に行われているそうである。
 陶淵明の桃花源は、始皇帝の暴政を逃れた人が人里離れた村に作った理想郷だという。故郷を離れてはるばるやって来た足助町の彼らは、日本美の中で満足のいく作品を作っているだろうか。

1998.11.10