上の写真を見てくれ。
おれの生涯の中で今のところ最も大きな会場(400席)で、ワンマンショーを演じているところだ。
場所は多治見市文化センター。
かなりドメスティックなロケーションだ。
入り客数はわずか3人。
はっきり言ってスッタフの方が数が多かった。
「何の宣伝もしなかったとから・・・」と言い訳をしようと思えばできるけど、
まあ自己満足の世界でやってるので
これもちょっとした笑い話に済ませることにしよう。
さて、何故おれがギターを持つにいたったか。
よくある話に「女にモテたいから」というものがあるが、これはおれの動機ではない。
メジャーなシンガー・ソングライターはよくテレビ、雑誌でそうゆうことをいっているが、
やっぱりそれは本心から言っているのではないと思っている。
何故おれがギターを持つにいたったか。
おれはかつて詩人だった。(詳しくは「おれはなにものだ」を読んでくれ)
精神的にかなりワイルドであり、ポジティブなニヒリストだった。
質量をともなった芸術がいつも傍らにあり、
その先に抽象的な光に満ちた未来を見据えていた。
年を経ておれも職業を持つにいたった。
それはまさしく「現実」だった。
日々、仕事のことのみに没頭した暮らしをしていた。
(実際、仕事は面白いものだったのだが・・・)
やがておれの中のポジティブなニヒリストが飢え苦しんでいるのに気付いた。
おれの一部が死に直面していることに気付いたのである。
これが今のおれの起点である。
おれは無意識のうちに楽器屋に走っていた。
そして29800円の韓国製ギターを購入した。
なぜギターだったのか、という問いには答えることができない。
ギターなんて触ったこともなければ、実物を見たことすらなかった。
ギターをやっているという知人もいなかった。
(ギターを始めた後で「実は俺もやってんだよ」という知人がいることに気付いたが・・・)
How to本を買いあさり、おれの孤独な修業の日々が始まった。
弦の張り方、チューナーの使い方。
すべてが未知の世界。
そして演奏方法。
まさに無限の荒野に立った心境だった。
ダウンストロークからよりリズム感のある、(ジャン・ジャン・ジャカジャカという)アップダウンへ。
Am、Dm、E。
この3つのコードから始めた。
Am、Dm、E。これを繰り返すうちに、コード進行の中にメロディーが見えてきた。
そして初のオリジナル曲「オリゼメート’94」が完成した。
その後、3つのコードにCを加えて「俺の歌」など連発。
G、D、F、Em、Em7、Dm7、A7、G7などなど・・・
さまざまな色を持つコードを手中におさめる度に、
おれはひとつ、またひとつと、輝く宝石を手に入れてゆく心境だった。
さらに、コードストローク一辺倒だったおれもアルペジオ、そしてスリーフィンガーを会得。
自己満足的シンガー・ソングライターに成長してゆくのだった。
「練習は時間より集中力だ」とはエリック・クラプトンの言葉である。
きっと誰もがそうだろうが、一つのことに集中すると周囲の状況がわからなくなる。
夕方から深夜にかけて、打楽器的ギターサウンドが近隣の住人の迷惑となっていたらしい。
己の修業が他人の迷惑になることは面白くない。
ゆえに、おれは夜な夜な近くの公園(阿木川ダム)まで車を走らせ、そこで黙々と練習するのであった。
いつしか年下のスケボー少年が友となり、
また通りすがりの人が立ち寄っておれの演奏に耳を傾けてゆくことが快感となった。
まだ、「ストリートフォーク」という言葉が普通でない頃であり、
暗い夜の公園で黙々と練習するおれ自身の姿に奇異を感ずることもなくはなかった。
が、当時のおれの練習場所はそこしかなく、
あの公園がなければ今のおれはなかったかもしれない。
ギタリストを目指すおれにとって弱点があった。
左手の薬指が普通の人とは違うのだ。
幼い頃、旧型電動ミシンのベルトに指先をはさみ、1cmほど切断されていたのだ。
このことがさらにおれを奮い立たせる。
そう、既成のコードポジションがだめなら自分で作ればいいじゃないか。
おれのギターへの探究は音楽そのものへの探究へと変わっていったのである。
つづく・・・かもしれない。
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