ホームページへ移動する

バンドの歴史

イギリスの産業革命発祥の地として名高いマンチェスターで1955年に幼なじみ同士のGraham Nash(ボーカル、ギター)とAllan Clarke(ボーカル)が、Two Teensという名のボーカルデュオを結成します。その後スキッフルのブームに乗ってバンドを結成しますが、Everly Brothersを意識したコーラススタイルのRick & Dean Youngというデュオに戻ります。その後デュオはKirk Daniels & the Deltasに合流しますが、バンドのベーシストのEric Haydock(ベース)と共に、The Dominators of Rhythmを結成します。他のメンバーはDon Rathbone(ドラム)、Vic Farrell(ギター)です。そして、1962年の12月ににHolliesとバンド名を改めます。その後、プロになるオーディションを受けるにあたり、Vic FarrellTony Hicks(ギター)と交替します。

このHolliesの名前の由来に関しては有力な二つの説があります。一つは彼らのアイドルであるアメリカン人ロックンローラーのBuddy Hollyからとったということと、もう一つは、柊の葉からとったという説です(柊は英語では「holly」)。彼らの1stアルバムには後者の説が説明されていますし、彼らのオフィシャルサイトのロゴマークに柊の葉が使われていることから、公式見解としての由来は後者の方なのでしょう。

閑話休題。

オーディションによってバンドはイギリスのEMI傘下のParlophoneレーベルとレコーディング契約をし、翌年「(Ain't That)Just Like Me」でデビューします。続いて発売された「Searchin」でDon Rathboneが脱退し、バンドのマネージャーに転身します。代わりに昔Tony Hicksと同じバンドにいたBobby Elliot(ドラム)が加入し、発売された「Stay」がイギリスのチャートで8位と初のトップテン入りを果たし一躍トップバンドの仲間入りをします。続いて「Stay」のヒットを受けて制作された1stアルバム「Stay with the Hollies」もチャートの2位を記録し、1965年の夏に発売した「I'm Arive」や翌1966年の始めに発売した「I Can't Let Go」がチャートの1位を記録すなど(「I Can't Let Go」が1位になったのはローカルチャート)、名実ともに売れっ子バンドとなっていきます。また同じ1966年の夏にはそれまで苦戦していたアメリカでもようやく「Bus Stop」がビルボードのチャートの5位と上位に食い込みアメリカ発で日本など世界各国で名が知られるようになっていきます。

そのころアメリカではフォークロックブームが起き、少なからずイギリスのバンドにもこのブームは影響を与えていますが、その筆頭がHolliesです。結成以来、Buddy Hollyをはじめとするロックンロールの強烈なビートと、Everly Brothersばりのコーラスワークが混ざり合ったサウンドで人気を博していましたが、フォークロックの影響を受け始めたことによって、Holliesの中で強烈なビートの部分を担っていたEric Haydockの脱退を招くことになります。ちょうど「Bus Stop」の制作前です。「Bus Stop」はJack Bruceをゲストで招いて無事録音しましたが、後に正式にTony HicksBobby Elliotの昔のバンド仲間のBernie Calvert(ベース、キーボード)が加入することになります。このメンバーで制作され、1966年の秋に発売されたアルバム「For Certain Because」はフォークロック、ラガ、サイケなどの当時の音楽流行の最先端を取り入れたアルバになります。この音楽流行の最先端にメンバーの中ではGraham Nashが傾倒していくことになります。

翌1967年の空前のサイケブームの中、Holliesはシングルごとアルバムごと浮き沈みはあるもののサイケサウンドを身に纏い着実にヒットを重ねていきます。そして、その推進役であるGraham Nashが特異な音楽的成長をしていきます。しかし、このことが他のメンバー、特にTony Hicksとの不和を招きます。音楽的な対立ではなく、当時流行の「自分たちのメッセージ性」をサウンドの中に盛り込むかどうかで意見が分かれていきます。翌1968年にBob Dylanのカバー曲のみで構成するアルバムを録音するという企画が持ち上がった時にその意見対立は決定的になります。結果、他のメンバーはTony Hicksを支持し、Graham Nashはバンドを脱退することとなります。おりしも、1968年はイギリスのアルバムチャートで、Holliesのベストアルバムが1位を取り、前年の暮れに発売したオリジナルアルバム「Butterfly」がチャート入りすらしなかったということがありました。これは当時のホリーズの立ち位置と、Graham Nashが脱退した理由を考える上で興味深い事実であります。

HolliesGraham Nashの脱退が決定的となる中、Bob Dylanのカバー集の「Hollies Sing Dylan」の録音を進めます。そして、後任のメンバーをTerry Sylvesterに決め、彼の協力の下アルバムを完成させます。そして、Graham Nashは1968年末をもって脱退します。翌1969年の2月に発売された「Sorry Suzanne」は3位の大ヒットとなり、件の「Hollies Sing Dylan」もアルバムチャートの3位を記録し、さらに次のシングル「He Ain't Heavy, He's My Brother」も引き続き3位のヒットで(ローカルチャートでは1位)Graham Nashの脱退の影響を感じさせない人気振りを示しています。

しかし、脱退後アメリカに渡り、元ByrdsDavid Crosby、元Buffalo SpringfieldStephen Stillsと結成したCrosby, Stills & Nashと、そのグループに元Buffalo SpringfieldNeil Youngが加わったCrosby, Stills, Nash & Youngが時代の寵児となり、Hollies以上の成功を収めます。これの事実に今度はAllan Clarkeの脱退騒動が起きます。1971年にAllan Clarkeはバンドとソロ活動を平行して行うことを提案しますが(この提案には成功を収めたGraham Nashからの影響があるといわれています)、Tony Hicksをはじめとする他のメンバーに反対され、どちらかを取ること余儀なくされたAllan ClarkeHolliesを脱退してしまいます。

Everly Brothersばりのコーラスワークを担当していた二人共を失ったHolliesですが、新しいボーカルを補充してバンドを存続させる方向に動きます。最初、Allan Clarkeと似たタイプのボーカリストのCarl Wayne(元The Move)が加入するという噂が立ちましたが、最終的にはTony Hicksが気に入ったスウェーデン人ボーカリストのMikael Rickforsに決まりました。しかし、このボーカリスト起用は商業的には失敗に終わり(彼は非常に個性豊かで優れたボーカリストではありましたが、Allan Clarkeとイメージが違いすぎて、彼の曲が歌えないというのが致命的だったそうです)、1973年にはAllan Clarkeと和解して再びAllan Clarkeがボーカリストに戻ります。この要因としては1971年のアルバム「Distant Light」からシングルカットされた「Long Cool Woman In A Black Dress」がアメリカで2位の大ヒットを記録したことがあるとの説があります。

Mikael Rickforsを迎えた1972年のアルバム「Romany」から(正確にはその直前に発売されたシングル「The Baby」から)、レコード会社を移籍しPolydorから作品を発売するようになっています。最初のシングル「The Baby」と、Parlophoneでの最後のシングル「Long Cool Woman In A Black Dress」の発売がほぼ同じで、アメリカでは「Long Cool Woman In A Black Dress」がチャートの順位では勝ち、イギリスでは「The Baby」が勝つという面白い現象がおきています。

再び、閑話休題。

Allan Clarkeが復帰したHolliesは1974年になって再び大ヒット曲を出します。それが「The Air That I Breathe」イギリスのチャートでは1966年の「Stop! Stop! Stop!」以来久々の2位というビッグヒットとなります。アメリカでもヒットし久々の話題作となり、この曲を含む1974年のセルフタイトルのアルバムもチャートに顔を出します。

しかし、この後、全世界を襲ったオイルショックによる音楽業界の体質の変化と、パンクムーヴメントに徐々にHolliesはアルバムシングルともに売れなくなり、急速に人気を失っていきます。Bee Geesのようにディスコティックを取り入れ起死回生を図ろうとしましたがうまくいきませんでした。1977年にライヴアルバムが久々の大ヒットを記録しますが、内容がベストライヴとも言える内容であったため、1968年のベストアルバムがヒットしたときのHolliesの状態と何も変わっていないことが浮き彫りになっただけです。

1979年には再びAllan Clarkeが脱退します。その後元Procol HarumGary Brookerを迎えてアルバム「5317704」のレコーディングを開始しますがうまくいかず再びAllan Clarkeが戻ってきます。しかしながら状況は好転せず、1981年にTerry Sylvesterと、Bernie Calvertが相次いで脱退し、Polydorのと契約も切れ、活動休止状態になります。

しかし、1981年の暮れにシングルを制作するためにGraham NashEric Haydockが戻ってきてPolydorからの最後のシングル「Take My Love And Run」を発売しました。この曲はヒットには至らず、Polydorとの契約は切れましたが、このセッションを母体に約1年の休止期間を経てEric Haydockを除く4人と、新メンバーによって録音されたアルバム「What Goes Around」がWEAから発売されました。その後アメリカで大々的にツアーも行われ当時のGraham Nashの人気も手伝い、盛況のうちに終わりました。明るい兆しが見え始めたのもつかの間、Graham NashDavid Crosbyとの音楽活動に専念するために脱退してしまいます。これにより、WEAとの契約も切れ、レコーディングバンドとして、事実上リタイヤします。

その後も「What Goes Around」の録音メンバーを母体にバンドとしての形態を維持し、EMI/Clombiaと契約して新曲をシングルで発売しつつライヴバンドとして現在も活動中です。決してAllan ClarkeTony HicksBobby Elliotのトリオとバックバンドという形態にはならず、基本的に固定メンバーで6人組と編成は拡大していますがまとまってライヴバンドとして活動しています。1999年にAllan Clarkeが芸能界自体を引退してしまったため、翌2000年からは新たなボーカリストCarl Wayneを迎えています。これは一度あった話が28年の時を経て実現したという事です。

ホームページへ移動する


初版公開:2004年5月15日 Copyright ©2004 ばりぐあち All rights reserved. 電子メール:hryo@orange.ocn.ne.jp

Valid XHTML 1.1!