「彼岸花はいつの時代に日本に来たか」 まとめ

                              河井 洋

[結論] @帰化時期についての定説は無い。

A植物学のほうでは、縄文渡来説が有力。

B文献学の方からは、平安末期から室町期くらいではないかと言う説も有力。

C河井はBに組する

 

[解説]

@一番有力な説は「京大 中尾佐助」などによる縄文時代末期に稲作とともに中国から渡来したと云うものであるが、

A万葉集をはじめ、室町より古い古典に全くでてこない。

Bこれだけ目立つ花だから、全くでてこないと言うことは、縄文渡来説を疑ってかかる必要がある。

Cすくなくとも、古代に文字を操る人が良く知る花でなかったことは確かである。

<縄文渡来説の他には>

D中国は明朝の時代、本朝は室町期に、輸入の焼き物のクッション材に使われたものが広まったと云う説がある。

E彼岸花が、文献にいちじるしく登場するのは、江戸期に入ってからと云われる。

E原産地は中国中南部。 

中国においては「種」のなるものもあるが、日本に伝来したものは、全て「種」の実らないものであり、鱗茎(球根)によって増える。花の色は赤。白花もある。なお、シロ花は、種としては厳密には彼岸花と異なり、水仙にちかいものと言う。東南アジアには、野生種の黄花もあるとのこと。

F花、茎、葉、球根の全てに毒(アルカロイド)を持つ。但し、球根のでんぷんは何度も水晒しをすることによって、水溶性の毒は取り去ることができるので、救荒植物としたらしい。

G古典に全くでてこないと云うが、万葉集の下記の歌にある「いちし」が彼岸花だと云う説がある。

道の辺の壱師(いちし)の花の灼然(いちしろ)く人みな知りぬ我が恋妻は(11-2480

この歌にある、壱師(いちし)が彼岸花の中国の「一枝箭( いちしせん)」と言う呼び名に由来すると言う。

現在でも「いちしばな」とか「いちばな」と呼ぶ地方が山口県、北九州、そして和歌山県に存在するのだと言う。

Hヒガンバナの博物誌 著者 *栗田子郎著,発行 研成社 によれば、上記Gの説に懐疑的である。

中国名の「石蒜」が「イシシ」と読まれ「イチシ」とに訛化したのだと言う牧野説、「壱枝箭」を「イッシセン」と和訓され「イチシセン」を経て「イチシ」になったと言う松田説には無理があるという。

そもそも、「石蒜」が中国文献にでてくるのは、1063年の「図経本草」と言う本が最初であり、この本が早々に日本にきても、平安末期。「壱枝箭」が「石蒜」の別名であると云うことが最初に記載された本は、日本製の「本草網目」と言う室町末期から江戸期にかけて重版された本だといいます。つまり、タイムマシーンでも無い限り、彼岸花=「いちし」説は採りえないのではと言っている。

Iこの本は、ヒガンバナ日本登場の時期に関する諸説と各々の根拠を過不足なく、丁寧に紹介してあり、この一冊で、この論争のいきさつがわかるようになっている。

    栗田子郎 千葉大 生物学 教授 理学博士 1936年生

 

  2005/10/14 完