なにか恐ろしいことがおきつつある
   (経済大循環と世界大戦)
            河井洋
 (中国の正体見たり)
尖閣諸島での衝突で、日本人の多くは、中国の正体を見てしまったと思っているだろう。隣国を恫喝などして恥ずかしくないのだろうか。ようは、そういう国であると。
しかしながら、是非は別として、これで、中国に道徳的に優位に立ったなどとは、日本人はこれっぽっちも思っていない。それが証拠に、ここに至っても、憲法を改正しようという声は大きくなっていない。

(二度と真の好景気はやってこない)
いまや、画期的な技術革新でも無い限り、先進国経済に成長の余地は全くない。政府の財政赤字がなければ、国民経済はその分縮減するだけである。この条件下で成長が有るとすれば、それはバブルである。
もし巧くいっている国があるとしたら、近隣窮乏策を採っている、ならず者の国か、後進国に他ならない。後進国は、キャッチアップ分だけ成長の余地が残されている。成長してあたりまえなのである。
なにか隣国から、「日本は死んだ」などと言う声が聞こえてくるが、その死んだ国に追いつくのだって容易ではなかろう。まあ百年はかかると思ってよい。この日本にしてもストック面では西欧諸国の足元にもおよばないのである。
かようなことを前提にしない発言は、一見 どんなに立派でもヨタでしかない。

(簡単にできることはなに一つ無い)
日本の場合、成長ゼロでも、今より少しだけ分配を公平にすれば個人の経済的苦境など、かんたんに解決できるのである。
そんなことをすれば、企業の国際競争力がなくなり、海外に脱出してしまうなどと言うむきがあるが、なにも金持ちや、輸出企業だけに負担しろと言うのではない。
役所と大会社の正規雇用者の賃金を何割かカットし、そのぶんを非正規雇用者に回すとか、国会と地方議会の定員を八割カットし、その分を保育園の増加に当てるとか、老人の豊な層の租税負担率を壮年層より高くするとか、相続税率を三十年前に戻すとかである。
いよいよとなれば、金持ちはいざしらず、なに、貧乏人こそ悲壮な覚悟で負担してくれる国民と思っている。
だれも政府は無策とノノシルが、与野党こぞって賛成できる施策など存在しないのである。
よく「日本って、なんでこんなに声が届かない国なんでしょう」などという怨嗟の声を聞くが、この日本が、どれだけましな国か、よくかんがえてみるとよい。中国などに生まれれば、戦車に踏み潰されるだけである。アメリカで、そこそこの暮らしができる能力が日本人の大半にあるとはとても思えない。

(経済大循環と世界大戦)
多くの本を拾い読みすると、現代史は、
@民間バブルの発生と崩壊、
A民間バブルを国家の財政バブルで代替すること(=ケインズ経済ないし国家社会主義)と近隣窮乏策の平価切り下げ競争・ブロック経済(植民地の囲い込み)を経て、
Bバブル破綻解消の最終局面=世界大戦、への突入。の三つの段階に大別される。と読める。
バブルとその崩壊は、資本主義経済自身の「超自我的行動」であって、人智では避け難く、またその痛手からの回復は困難極まる。
それを我勝ちに克服しようとして世界大戦まで行き着いてしまったと言うのである。
日本は、バブル崩壊以来、「失われた二十年」などと揶揄されているが、歴代政府のとってきたイジマシイほどの小出しの対策は、結果的に最良なものだったと歴史は評価するかもしれない。
今、世界経済はAの段階の後半にさしかかっているのではないか、「ブロック経済」の時代に、である。
GAT(貿易と為替に関する一般協定)による交渉が進展せず、FTA(自由貿易協定)や、RTA(地域貿易協定)に走っている。
マスコミは、「平価切下げ戦争」が始ったなどと、「戦争」の二文字を平気で使いだした。
なにしろこの戦争の正面敵は大得意先の米・中なのである。戦わずして敗戦必至なのである。
しかし、案外、この敗戦の後にこそ、なにか開けるかもしれないと思うのである。
(2010・10・28)