波佐見焼のあけぼの

織田信長や豊臣秀吉が天下統一へのラストスパートをかけ、戦国の世がまさに終てわろうとしていた天正年間(1571〜1591)の頃、肥前(現在の佐賀県・長崎県の一部)で初めてやきもの陶器か焼かれます。その後、16世紀末から17世紀の初めにかけて、陶器生産は肥前一帯へ広まりを見せ、肥前産の陶器唐津焼は、瀬戸・美濃産陶器と国内市場を二分するまでに急成長を遂げていきます。波佐見の地に初めて窯が築かれ、陶器の生産が開始されたのもちようどこの頃です。平成5年(1993)、稗木場地区に所在する下稗木場跡の発掘調査は、波佐見焼の歴史に新たな1ぺージを加えることになりました。物原の調査によって出土やきものは全て陶器で、皿、碗、船徳利、壺、大型の甕などが発見されています。これら出土品の中には、従来まで波佐見最初の窯とされてきた畑ノ原窯跡のものよりもさかのぽりも、さらに時代が遡る様々な特徴が見られ、下稗木場窯跡は町内最古の登窯であることが明らかになりました。同時に、窯体も調査しましたが、1室の大きさは、幅2.3m、奥行1.9mほど、窯の全長は22m以内、部屋数も12室以内に収まる小規模な登窯であったことが判明しています。下稗本場窯跡が営まれていた年代は、製品や窯の特徴から1590〜1610年代頃と考えられます。ほぽ400年前、波佐見窯業は下稗木場窯跡の陶器生産で幕を開けたのでした。一つの小さな窯でスタートした渡佐見焼ですが、その後、国内外のやきものの歴史に巨大な足跡を残すことになります。
下稗木場窯跡窯室
同 出土品前列左から絵唐津文皿・鉄釉碗・絵唐津草文皿・後列左から鉄泥釉壷・鉄泥釉舟徳利
質問6 登窯はどのようなものか
江戸時代の肥前の窯は、一般に、一つ一つの部屋がおわんを伏せたような形でつながり、階段状に登っていく「階段状連房式登窯」と呼ばれるつくりをしていました。火力をあげやすく、また一度に大量のやきものを焼ける利点をもちます。16世紀末頃、朝鮮半島か中国から導入されたと考えられていますが、この点は明らかではありません。江戸時代以降、昭和時代のはじめ頃まで盛んに使われていました。焼き方は、最初に胴木間で火を起こし、窯全体の湿度を取り温度をあげていきます(ねらし焚き)。約1000度程に温度があがったら、今度は窯の横の焚口から薪を連続投入し、一気に1300度まで温度をあげます(攻め焚き)。1室か焼きあがったら、次の上の部屋へと焼きあげていきます。なお、薪には火持ちの良い松が使用されていました。