| 17世紀の中頃、中国では明朝から清朝へと政権が交代しますが、清朝の支配に反対する人々が各地で内乱を起こします。その結果、多くの窯が壊され、また、他国との貿易を禁止してしまい、やきものの輸出は完全に途絶えてしまいました。それまで、中国のやきものを世界中に運んでいたオランダ東インド会社などの貿易商人達は、その代わりに、力をつけつつあった肥前のやきものに目をつけます。このようにして、肥前のやきものの海外輸出が始まりました。17世紀後半代の肥前窯業界は、輸出品の増大によって、これまでにない活気をみせることになります。波佐見でも、海外からの注文が殺到し生産が追いつかなくなったのでしょう、寛文年間(1661〜1673)を中心に、次々と新たな窯が開かれていきます。また、寛文6年(1666)、大村藩は三股(現永尾地区)に皿山役所を設け、やきもの生産の直接的な管理を行うようになります。波佐見で焼かれた海外輸出晶には、青磁の大皿と染付の大碗・鉢があります。青磁太皿は、主に、永尾地区の木場山窯跡で生産されていました。口径が30cm以上ある大きな皿であり、内側には草花などの模様が華麗に彫り出されています。また、代表的な染付には、雲竜荒磯文大碗・鉢があります。器の外側に雲と竜、内側には荒磯文と呼ばれる模様を描いたもので、肥前一帯で盛んに作られていました。これらの製品は、長崎出島を通じ、インドネシアなど、主に東南アジア諸国へ大量に運ばれて行ったと考えられています。波佐見焼が荒渡を越えて海外へ運ばれていた時代、海外輸出時代は、17世紀中頃から末頃まで、約40年問続きます。この時代、輸出景気の追い風にのり、大村藩の支援を受けることによって、波佐見は磁器の大生産地へと発展を遂げました。 |