くらわんかの時代
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| 17世紀の末頃に中国の内乱かおさまると、中国のやきものは再び世界中へ輸出されることになります。質・量ともに肥前のやきものを上回る中国のやきものは、海外の市場を急速に奪い返していきました。その結果、肥前窯業界は、輸出品から国内向けのやきもの生産へと方向転換していきます。それは、赤穂浪士の討ち入りがあった元禄年間(1688〜1703)のことです。波佐見の窯も海外輸出品の生産をやめ、国内向けの磁器、とくに安い日用食器を生産するようになりました。ところで、表題にある「くらわんか」とはいったい何なのでしょうか。この言葉の由来や波佐見焼との関連をみていきましょう。江戸時代、大坂・京都間の重要な交通手段として、淀川を行き来する三十石船が利用されていました。この船に小舟で近づき、「あん餅くらわんか、酒くらわんか」とかけ声をかけながら、酒や食い物を器に盛って売る商いが繁盛していました。小舟はそのかけ声から「くらわんか舟」、使われた器は「くらわんか茶碗」と呼ぱれ、この器は、食ぺ飲みした後、淀川ヘポイと投げ捨てられていたそうです。その後、いつの頃にが、江戸時代の使い捨てされるぐらいの安い日用食器を総称して、「くらわんか手」と呼ぶようになったと言われています。元緑の頃から幕末まで、波佐見では安い日用食器、「くらわんか手」を大量に生産し続けました。後述する窯の数や大きさから考えれば、その生産量は全国一であったと考えられます。当時の波佐見は、まさに「くらわんか」の時代であったのです。 |
| 郷村記における波佐見皿山の状況・天保年間(1830〜1843) |
| 現在の窯跡名と窯全長は筆者の推定 |
| 地区(古文書) |
現在の窯跡名 |
窯室 |
窯全長 |
戸数 |
窯焼数 |
年間生産量 |
年間薪使用本数 |
唐臼数 |
| 三股 |
計68室 |
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108軒 |
26人 |
13230俵 |
1.378.000本 |
110丁 |
| 上登釜 |
三股上登窯跡 |
23 |
115m |
| 下登釜 |
三股本登窯跡 |
24 |
120m |
| 新登釜 |
三股新登窯跡 |
21 |
105m |
| 永尾地区 |
計29室 |
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44軒 |
10人 |
6620俵 |
627.000本 |
40丁 |
| 永尾皿山 |
永尾本登窯跡 |
29 |
155m |
| 中尾地区 |
計98室 |
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150軒 |
26人 |
21966俵 |
2.056.000本 |
150丁 |
| 上登釜 |
中尾上登窯跡 |
33 |
160m |
| 下登釜 |
中尾下登窯跡 |
26 |
120m |
| 大新登釜 |
大新窯跡 |
39 |
160m |
| 稗木場地区 |
計20室 |
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66軒 |
12人 |
6630俵 |
840.000本 |
27丁 |
| 稗木場皿山 |
皿山本登窯跡 |
20 |
100m |
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| 平成3年(1991)に中尾地区の中尾上登窯跡の発掘調査が行われましたが、窯の部屋数33室程、全長160mに及ぶ、世界最大規模の登窯であったことが判明しました。この部屋数は、天保年間(1830〜1843)頃にまとめられた『郷村記』の数値とほぽ一致をみています。『郷村記』によれば、天保年間頃、波佐見では全長100mを越える巨大登窯が8基存在し、全体で年間48,446俵のやきものを生産していたことがわかります。1俵当たり何個のやきものが積められていたかは定かではありまぜんが、膨大な量であったことは間違いありません。 |
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| 永尾本登窯跡2000年9月6日国指定史跡 |
| 平成四年(1993)に調査が行われています。その結果窯の部屋数29室、全長155mに及ぶ中尾山窯跡に次ぐ巨大な窯跡であったことがわかりました。1660年代から1950年代まで使用されていた窯で、中尾山窯跡と同様、主に「くらわんか椀」や「コンプラ瓶」が大量されていました。2000年9月6日国指定史跡 |