明治大正時代
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明治3年(1870)、寛文6年(1666)から続いてきた皿山役所が閉鎖され、大村藩の支援がなくなると、巨大な登窯は生産を停止するか、または、分割され個人所有の小規模な窯へと転じました。明治時代の幕開けとともに、資本を失った波佐見窯業は存亡の危機を迎えます。しかし、陶工達は新たな技術の開発・導入を積極的に行い、窯の火を絶やさぬようと努めました。また、明治35年(1902)、陶磁器意匠伝習所を設立して優れた職人の育成を行い、明治38年(1905)には、上波佐見村陶磁器信用組合を結成し、業界の振興を図ります。波佐見窯業は自活の道を歩み出し、再び、江戸時代の活気を取り戻していきます。
明治時代の波佐見では、江戸時代に引き続き、日用食器を中心に生産していきます。明治8年(1875)頃に「型紙刷り」(カッパ刷り)、明治24年(1891)頃には「鋼版転写」が採り入れられ、湯呑みや碗に緻密な模様が刷られるようになります。この時代、最も盛んに生産されていたものは、徳利です。明治17年(1884)の記録によれば、波佐見全体で年間10万1376本の徳利が生産されていたことがわかります。また、明治中頃の最盛期には年間35万本も作られ、全国中へ運ばれていました。その他に、明治20年(1887)頃から、朝鮮半島への輸出用壺が作られ始めたと言われています。
大正7年(1918)、長崎県東彼杵郡陶磁器株式会社の設立によって、窯業界の土台は安定したものとなり、大正時代の末期には、「鋳こみ」や「石膏型」、「機械口クロ」の導入によって、多彩な製品が量産されるようになりました。また、大正14年(1925)に、石炭窯が渡佐見で初めて中尾地区に築かれ、以降、それまでの登窯にかわり、生産の主役となっていきます。明治から大正時代の波佐見窯業は、職人、企業人をはじめ、多くの人々の努力によって好不況の波をのりこえ、近代的な産業へとたくましく成長していったのです。 |
| 明治時代の波佐見皿山の状況 |
| 地区 |
明治3年頃『大村藩史』 |
明治23年頃『陶器窯台帳』 |
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窯室数 |
戸数 |
年間やきもの生産量 |
登窯数 |
窯室数 |
窯焼数 |
| 三股 |
43室 |
99戸 |
約9000俵 |
10基 |
75室 |
36人 |
| 永尾 |
24室 |
50戸 |
〃5000俵 |
4基 |
37室 |
18人 |
| 中尾 |
48室 |
145戸 |
〃9700俵 |
10基 |
60室 |
26人 |
| 稗木場 |
12室 |
65戸 |
〃3500俵 |
5基ほど |
40室ほど |
不明 |
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| 明治時代の新たな技術 |
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江戸時代 |
明治時代 |
導入期間 |
開発者 |
| 絵の具 |
天然呉須(中国産) |
コバルト(製造品) |
明治始め頃 |
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| 陶土 |
主に地元産の三股陶石 |
熊本の天草陶石 |
明治14年頃 |
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| 製土法 |
唐臼 |
水車唐臼 |
明治16年頃 |
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| 窯づめ |
天秤づみ |
棚板づみ |
明治19年頃発明 |
馬場亦一(中尾) |
| 明治37年頃改良 |
田中宇太郎(中尾) |
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| 明治時代の碗・杯左から染付草文筒碗 染付型紙刷り鹿の子文碗 染付銅版転写窓絵鳥文碗 |
| 染付銅版転写城郭文杯 釉下彩朝顔文杯 |
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| 染付笹絵徳利 染付牡丹徳利 |
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染付笹文二口燗徳利 銘燗徳利 ハイラル |
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| 挑戦半島輸出用壷・染付牡丹文壷 |