畑ノ原を発掘した頃 金沢大学文学部教授 佐々木達夫SASAKI TATSUO
ハタノハラと言えぱ、「ああハサミね、アリタの隣の」という。焼き物聞係者の
間では、とにかくどちらも有名だ。イマリやアリタではなく、ハサミを知ってる
ことか、焼き物通だった。むろん、今は達う。誰でも知ってるから、通ぶりを誇
れない。しかも、今年は波佐見窯業400年祭という記念すぺき年だ。
「波佐見には若い一瀬さんという熱心な方がいるから、訪ねたらいい。」今から
30年ほど前、有田で窯跡を発掘してた頃、紹介されて波佐見に何った。当時
の一瀬信雄さんは二十代前半の好青年だった。

前列中央が佐々木達夫氏
今は社会教育課長を経て理事となり、町文化財の重鎮である。その一瀬さんの
お世話になりながら、三上次男先生の指導の下に、町内の古窯跡を調査した。
どの地区もそれぞれに思い出深いが、四百年祭といえぱ、やはり畑ノ原か。文緑
・慶長の役後、波佐見で陶石が発見され朝鮮の陶工や土地の人々によって、陶
磁器が作られた。以来、400年か経ったという。畑ノ原に陶工李祐慶が慶長4年
(1599)に窯を築いたという伝承である。当時の歴史的事実は、今はやや曖昧
になったけれども、歴史と伝統に支えられ、生活に密着した日用食器を連綿と作
り続けている。このように発展した影には、無名の多くの陶工の足跡が残る。波佐
見焼創業当時の様子を残す畑ノ原窯跡の保護は、町内古窯跡分布調査と並び
まっさきに取り組む仕事だった。
昭和56年暮、町教育委員会から三上次男先生が調査を委託され、金沢大学考
古学が保存整備の資料を収集した。その年は、珍しく大雪となった。山の斜面を
登る白化粧した窯跡が、紅葉に映える姿はたいへん美しかっだ。江戸時代初期
ではわが国最大級の連房式登窯で、陶器から磁器に移行する段階の重要な史
跡だと判明した。保存整備や発掘に係わった当時の人々を忘れられない。福田
寛吾町長や奥川光義教育長、山田富士夫社会教育課長をはじめ一瀬信雄、平
野英延、山口靖子、田中寿美子、太田芳秋、町から発掘に参加した山下倉蔵、
橋口佐登司、長崎県教育委員会の正林護さん達。三上先生の下に金沢大学から
佐々木、花塚信雄、牧田直己、田中哲朗が、青山学院から岡野智彦、東京大学
から野口祐嗣も参加した。調査当時の日詩も懐かしい。
11月25日、公民館で打ち合わせして、午後に窯跡を詰ね、グリッドの杭打ち
を始めた。すぐに降雨が激しくなり、表面採集品を洗浄。26日、杭打ち、地形の
測量開始。下方の窯室第5〜7室の発掘。27日小雨のなかを窯室内の発掘と地
形測量を並行する。28日は第18〜23室を発掘、第21室まで床面を清掃。29
日、最終室の第24室まで発掘が進む。4日間で窯室内の発掘と、地形測童を終
えた。30日は周辺調査に入る。最終室の外側溝や、窯跡外の階段を発掘。12
月1日は物原の発掘。2日は午前中、雪。3日は窯室平面、トレンチ、物原の実測
。写真撮影終了。4日、窯室半面の実測終了5日、第19室、20室の窯道具や陶
器を実測。6日、階段部分の実測。窯室の平面実測図点検、窯室断面図作成。7
日すぺての実測終了。物原トレンチ、窯跡外側階段の溝部分を拡張。12月8日、
機材撤収と現地見学会。出土品は現地で水洗いと分類整理を終え夜は出土品を
実測。一本の綱の上を落ちずに走り遇ぎた感じだった。
発掘後、出土品の整理と実測、撮影を昭和61年3月に8日間、昭和62年3月に
13日間、朝から晩まで陶芸の館で行った。当時の関係者も忘れられない。田崎
恒夫教育長、林田朝夫社会教育課長、一瀬信雄主事、陶芸の館の浦郷忠勇館長
と池田雅秋、長崎県窯業試験場の関秀哉武内浩一、都築宏、井関信さん達。金沢
大学から佐々木、東喜代秀、児玉剛山下平重、中村哲也、野上建紀が参加した。
こうして、畑ノ原の公開展示が始まった。当初の保存構想は、発掘報告書『畑ノ原
窯跡』で、一瀬さんが熱く語る。その後の経緯を経て、保存の現状は現地の窯跡が
語る。
今は、一瀬さんを支える中野雄二、直美の二人が町にいて、窯跡を発掘している。
二人とも金沢大学の考古学卒業で、町内に住む有田町歴史民俗資料館の野上建
紀の後輩だ。彼らは一瀬さんや私が昔語り見た夢を、現実のものとしている。日本
最大の磁器産地、波佐見。畑ノ原窯跡が長崎県の史跡指定を受けてから40年近く
経った。さらに、町内各地の古窯跡が国指定史跡として保存整備される日も近い。
世界遺産として古窯跡群を保存した町となり世界の人々が訪ねてほしい場所である。