| 豊臣秀吉による朝鮮出兵、文緑・慶長の役(1592〜1598)の後、参加した九州各地の大名達は多くの朝鮮李朝の陶工を日本へ連れ帰りました。その陶工達によって、様々な新しい窯業技術が
肥前へもたらされます。中でも磁器生産の技術は、肥前窯業界を大きく進展させることになりました。以前まで輸入にたよる他なかった磁器は、李朝陶工のカ添えによって、初めて国内で、肥前で、生産できるようになったのです。当時、波佐見の地は大村氏が領有していましたが、領主である大村喜前公も、多くの李朝陶工を連れ帰りました。その一人である李祐慶によって、慶長4年(1599)に築かれたと言い伝えられている窯が、渡佐見にはあります。それが、村木地区に所在する畑ノ原窯跡です。畑ノ原窯跡は、昭和56年(1981)に発掘調査が行われ、窯の部屋数約24室、全長約55.4mを測り、当時としては巨大な規模を持つ窯であったことが判明しています。出上した製晶は、陶器(溝縁皿)を主体とするものの、僅かですが磁器も含まれ、陶器と磁器を同時に焼成していたことがわかりました。畑ノ原窯跡は、波佐見における磁器の誕生、さらには、国内磁器生産開始期の様相を知る上で、非常に重要な窯であると言えます。畑ノ原窯跡出土晶の様々な特徴から、李朝の陶工が深く係わっていたことは推測されますが、「李祐慶」という名前の人物が実在したかどうかはわかっていまぜん。また、操業年代は、これまでの多くの研究成果に基づくと、1610〜1630年代頃と考えられ、言い伝えどおり、度長4年(1599)に開窯を求めることは難しくなってきました。しかし、畑ノ原窯跡は、そのすぐ側にある古皿屋窯跡・山似田窯跡と同じく、波佐見の地で最初に磁器焼咸に成功した窯であることは間違いありません。波佐見では、以降、磁器生産を押し進めていきますが、その礎を築いたという点で、最も記念すぺき窯と言えるでしょう。2000年9月6日国指定史跡となる |