大人に対する不信感は根強いものがあったのですが、それと同時に、個人的には大人に対する信頼感も存在したのです。
私は当時、子供なりに考えました。
人間の本質とは、ちょっとした事で簡単に判別が付くものなんだなぁと。
また、信頼に足る人間と、信用に値しない人間との差は何かということを。
良い方向への本質が他人にすぐ判ってもらえるのは良しとして、子供の目から見てさえも、簡単にマイナス面の本質を見透かされる程度の、底の浅い人間にはなりたくないと思いました。
だから、私は絶対に不良になんかなるものか、意地でも真面目に生きてやる!と考え、それを実行してきました。
もちろん子供のことですから、その年齢なりにイタズラや悪さをする事はありましたけど、そういう表面的なことではなく、あくまでも本質面での話です。
最近(私が34歳)になって、母親の口から思い出話として次の話を聞かされました。
私が小学生時代、母親が学校の先生と話する機会があったらしく、その時、「どうして私は○○君(私の事ね)の事をもっと解ってあげなかったのだろう?」と涙ながらに語ったというのです。
さらに先生は、「他の子は掃除の時に、私や他の先生の目が届かない所では途端にさぼったりするけど、やはり大人の目から見れば、小学生の動作はよく解ります。でも、○○君は、先生が見ていようがいまいが関係なく、それこそ夏には玉のような汗をかきながら一生懸命掃除しているのです。○○君の表裏のない誠実さを、どうして今まで解ってあげられなかったのだろう」と話を続けたのです。
欲を言えば、これは小学校卒業までに聞きたかった話ではありますけどね(笑)
基本的人格形成後の34歳になってから話を聞かされても、「既に遅いわい!」と言いたいところですが、聞かされないよりは比べようも無いほど良い事です。
ちなみにこの先生は、私にテストのことで的外れな非難をした先生なのです。
この話を聞いて、私は自分の人生の生き方(方針)が、決して間違ったものではなかったと確信を得ました。
人間とは、一旦マイナスの評価が与えられた場合、それをプラスに転じることは簡単なことではありません。
この先生からは、間違った評価であるにせよ、私は一旦、マイナスの評価を得ました。
それが、こういう言葉が聞けるほどまでに評価を変えることが出来たのです。
これは、ある意味で仕返しというか、復讐が達成されたことでもあると思うのです。
当時、大人(先生)に反感を持ち、グレて不良になっていたらこの言葉は絶対に聞くことが出来なかったでしょう。
あ、ここで念のために一旦断っておきますけど、ストーリーの展開上私は自分を「真面目」と表現しているだけであって、自画自賛的に「私は真面目だ!だから誉めてくれ!」とかほざいているつもりは毛頭ありません。
何より、別の意味では私は結構ふざけた人間ですから。
<このお話はあともう少しだけ続きます>