会報4号の原稿内容


(注意)
会報は縦書きの為に数字は漢数字になっています。


佐藤会長の挨拶文

◎外部評価委員になって

学校に外部評価委員というのがあるのをご存じでしょうか。地域の人が第三者の立場から学校改善の推進と教職員の資質の向上を図り、地域に開かれた学校づくりをするのが目的です。
このたび、同窓会会長という立場で、品川区教育委員会から城南中学の外部評価委員を委嘱されました。学校を評価するなどおこがましいのですが、時々、学校へ行って授業や部活動、児童の姿、教職員の対応などを参観しています。挨拶や礼儀作法、言葉使い、施設や設備などの環境、教職員の熱意や指導の姿勢など、これまで気にもとめなかったことが評価の対象になると思うと責任を感じます。やがて、この生徒たちが同窓会の会員として私たちの仲間になります。できるだけ真摯な評価をして母校の発展に寄与したいと思っています。
 小中一貫教育、外部評価委員の導入など教育の現場は日進月歩で変化しています。同窓会報では、このような教育の現状なども取り上げて会員のみなさんと考えていきたいと思います。母校及び同窓会の発展のために会員の皆様のご協力をお願い致します。


校外授業

◎こんな授業もしています (この題名は引野が付けました)

平成十四年二月一日、母校の二年生が職場体験学習をしました。
この試みは職業の現場を体験することにより、将来に対する意識を高め、体験を通して社会のマナーを学び、今後の学校生活をよりよいものにするのが目的で、今年で三回目になります。当日、二年生一二三名が学区内の商店や飲食店、会社、児童館、図書館、郵便局、保育園など六十五の事業所にそれぞれ分かれて、朝一〇時から午後二時三十分まで「働く」現場を体験しました。生徒たちは緊張しながらも、実際の職場で働くことを体験して、仕事のおもしろさや苦労、接客の仕方などを学び、貴重な経験をしました。受け入れた商店の方たちも快く協力してくれ、中学生との接触の機会ができて良かったとか、地域の人たちのコミュニケーションのためにも良い試みであると好評でした。
この様に母校ではさまざまな教育がなされています。


品川宿の史跡と由来

 一期生の吉野様に会報三号に引き続き品川宿について語ってもらいました。

▽東海道品川宿

 月日はまだはっきり確定していないが平成十五年(2003)の秋頃には東海道山陽新幹線、品川駅の開業が予定されています。
 花のお江戸の日本橋から京の三条大橋までの東海道百二十六里余りの五十三次が完成したのは寛永元年(1624)。徳川家康が東海道に伝馬(てんま)制を制定してから二十三年後のことです。伝馬・宿駅制は公用の旅行者に伝馬と宿を提供する制度です。その任務は人馬の継立、休泊施設の提供・飛脚による逓信業務です。品川宿が提供する人馬は一日百人・百疋で、それ以上必要な場合は助郷(すれごう)という指定された村から召集されました。
 次の宿まで荷物を運ぶ馬(伝馬)と人(人足)を用意していました。人馬の継立の仕事を行ったのが問屋場(といやば)で、そこには問屋(宿場の長)・それを助ける年寄・人馬の出入を記す帳付(ちょうづけ)・人馬に荷物を振り分ける馬指し(うまさし)という宿役人が詰めていました。一般庶民や商人は、この問屋場で人馬を交渉で賃銭を決めて調達していました。また、庶民の旅行では問屋場へかからず、宿場や道端にいる駕籠かきや馬子に直接交渉したり彼等にすすめうれて利用していました。
 品川宿の問屋場は宿が南北に分かれたため、二箇所ありました。文政六年(1823)品川宿の大火で南北の両問屋が焼失してからは南品川宿の一箇所となりました。
 宿駅で大名や公家が泊まるのが本陣・脇本陣で、どちらも問屋・名主といった土地の有力者が務めていました。普通の旅人や遊山客は旅籠屋に泊まったり、茶店で休憩していました。
 東海道の最初の品川宿は江戸の玄関口でもあり、江戸を出る人、帰ってきた人、また、その見送り、出迎えに来る人達の別れと再会の場でありました。江戸の郊外として遊びに来る人、見送りに来た人達の遊興地でもありました。
 軒を並べる旅籠屋(はたごや)や水茶屋は旅人を宿泊させるだけでなく近郊の寺社への参詣人の休憩・宿泊場所として利用していました。
 遊興に来る客を接待する女性飯盛女(めしもりおんな)目当ての客で賑わい遊女は三千六百人とも言われていました。
 御殿山の桜、海晏寺の紅葉、品川浦の潮干狩りなど、品川は行楽の地でもありました。


同期会について

1期生のです

▽これからの一期生

子どもの時代こそ「ふるさと」である。私達城南中一期生(昭和二十三年・1948入学)は、あの権現山を切りくずして建てた木造校舎が「ふるさと」である。「ふるさと」にはクワガタもカブトムシも生きていた。夏の夕方にはヤンマの群の堂々とした風翔がみられたものでだ。あの頃からすでに五十年という歳月が流れた。宇宙的にみればほんの瞬きにすぎないが、人間にとっては一生に等しい。昭和二十六年(1951)卒業時一九五名であった一期生のうち、知れる者だけですでに十八名が鬼籍に入っている。その間に転居先不明者が六十三名をかぞえる。
 平成十三年(2001)卒業五十年と六十五歳を迎える記念として温泉一泊旅行をやろうという話が実を結んで、信州上田の田沢温泉で同期会をすることに決まった。住所の判明している者百十四名のうち七十六名から返信があった。三十八名は音沙汰無し。遠方での開催にもかかわらず十六名の参加者があり、九月三十日(日)午前九時東京駅に集合、自家用車三台に分乗して信州へ向かった。上田城や別所温泉に立ち寄りながら夕方には田沢温泉富士やホテルに到着、ゆっくり温泉に入って午後六時から賑やかな宴が始まり、飲むほど酔うほどにお定まりのカラオケとなった。これが六十五歳かとは思えない程の若さぶりであった。昔がえりという言葉があるが、中学時代へ逆もどりしてしまったような雰囲気での宴の盛り上がりといったらなかった。
 結果、一年おきに温泉一泊旅行同期会を開催することに衆議一決した次第。
 健康第一であるが、治療中の友もいる。ご両親の面倒をみている友もいる。九十歳になられた名医が、人生の味わいは七十五歳からにあるとTVで逝っておられた。私達一期生、まだ六十五歳。これからがある。


3期生です

▽卒業以来の同期会

 平成十三年十一月四日、大森東急インに於て卒業以来実に四十九年ぶりに三期生の同期会が開催されました。学年全体に呼びかけを行い同期会を開くのは卒業以来初めてのことです。いつかは同期会を開きたい、そんな願いはいつも持っていたのですが、クラス相互の交流がまったく無く、なかなかその機会がありませんでしたが、平成十年十一月に城南中学校創立五十周年の記念祝賀会が開催され三期生も大勢出席しましたが、それを契機にクラス相互の交流が盛んになり今回初めての同期会開催の運びとなりました。
 さて、当日は三十八名の懐かしい同期生と再会することが出来ました。特に当日幹事や出席者を喜ばせたことは、恩師である先生方が大勢出席してくださったことです。一年次の担任であった中村敬先生、秋葉怜子(旧姓 川越)先生、遠藤孝一郎、秋葉健三先生、そして二年次担任の中村俊先生が御出席くださいましたが、B組の担任であった田中章先生が他界されたことはとても残念でした。会場ではクラス毎に語らいの輪が広がり、いつまでも話が尽きませんでした。過ぎ去った青春時代の思い出をいつまでも共有できる友達のいることがとても素晴らしく感じるそんな一日でした。先生方もそれぞれにお年をとられましたが、大変お元気で闊達(かったつ)とした日々をおくられておられるご様子に大変喜ばしく思いました。二次会はD組野口君の紹介で酒落たお店を貸切りカラオケやダンスで賑やかに楽しい時間を過ごしました。今回出席できなかった方も、次回は是非出席して頂けたらと思います。先生はじめ大勢の友達があなたの出席を心待ちしています。それでは次回の同期会開催を楽しみに。お元気でお過ごし下さい。


7期生です

▽時間を忘れて

平成十二年七月、城南中学校同窓会五十年の集いがあった。その時、同期会の話が持ち上がった。クラス幹事を任意に選出、準備に入り、平成十四年八月四日、五反田の「ゆうぽうと」で初めての(私の記憶では)同期会を開催した。遠藤先生、黒木先生のご出席を頂き我々同期は、五十三名の参加でした。遠藤先生からは「私は病気をして後三年位しか生きられないと、言われた。しかし、摂生に努めた結果、それから十五年が経ち、今なお、この通り元気です。皆さんも健康管理に努めなさい」との言葉を、黒木先生からは、「私は今でも、毎朝剣道の稽古をしている(剣道七段)、また、六十を過ぎてから、書道に励み結果を出している。皆さんもまた、やっと六十だ、人生はこれからだ」と活を入れられた。両恩師の活力ある挨拶に感じ入った。私にとってほんの一部の方を除き、殆どの方々とは、卒業以来の再会でした。しかし、同期と言う気安さと、酒の酔いに助けられ胸のネームカードを見ながら、特に女性達の輪に入って行き、記憶を辿りながら昔話に興じた。
何ヶ所かのグループと話をし、さて次はまだ話をしていない、あの女性の所へ行こうと行動を開始した時、無粋な幹事の声が聞こえたのです。「皆さん、宴、酣ですがお開きの時間が参りました・・」え! と思い時計を見たのです。私の体内時計では未だ二十〜四十分位しか経過していない筈なのに現実は既に二時間が経っていたのです。まだまだ話をしたい人がいるのに、との未練を残しながら、再開を約して閉会となりました。
人生の大台とも言うべき還暦を過ぎた今日これからの人生を豊かに送る為にも、四十五年振りでの旧友との再会は、意義のある事でした。「友有り、遠方より来る、又、楽しからず哉」


13期生です

十三期同期会は、八年前初めて盛大に開かれてから、毎年六月の恒例行事として定着して参りました。今年第九回同期会の幹事は十一組の当番でした。十三期というのは、中学卒業後四十年になろうとしているのですが、ベビーブームのピークで、卒業生約五百五十名、十一組まであったのです・・・。
さて、当日六月八日土曜日は、朝から天気に恵まれ、暑い日になりました。
場所は品川駅から徒歩一〇分程のところにある和彊館。参加者は三十六名と第一回を除いて毎回同じぐらいの人数に定着しつつあるようです。
毎回常連となったメンバーと、反対に、初めて消息が掴め出席する人がいます。
今年は先生の中でも小俣文男先生が初めてご連絡でき、出席くださいました。
他に、安藤定則先生、安永真澄先生、田中敏夫先生、伊藤始先生と、思いがけず多数の先生方に出席頂くことができました。
先生方の元気な姿を見られるのは同窓会の何よりの楽しみです。
ビュッフェスタイルの立食パーティでいろいろな人と話しながら和やかな雰囲気の中、先生方のスピーチ、クラスごとのスピーチ、庭に出ての記念撮影、ビンゴゲームで盛り上がり、更に長尾君のピアノ伴奏で『城南中学の校歌』、『若きいのち』を全員で唄い、気持ちはいつの間にか中学時代に戻ったりして、あっという間に三時間が過ぎてしまいました。
ほろ酔い気分のまま、品川神社のお祭りを見がてら、二次会に繰りだした人も多かったようです。次回は八組が幹事に決りました。
来年の再会を楽しみに、そして一人でも多くの同期会デビューする人がいます様に!!


25期生です

▽プロジェクトX
この話は突然降って沸いて起きた。なにせ城南中を卒業して二十七年間で初めて行う同期会なのだ。ことの始まりは地元に住む数人の、いわゆる飲み会が発端だった。いざ準備に入ることになったが、誰がどこに居るのか、誰が音頭をとるのかと手探り状態であった。やがて、有志が一人増え二人増えして三十数人の同期生が顔を連ねた。準備期間が六か月しかなく、なんとか事をすすめなくてはと十数回の会合や打ち合わせをもった。会を重ねるたびに同期生の所在が判明し、そのたびに歓喜の声があがり、次第に盛り上がってきた。卒業当時は約二七〇名だったが、なんと二十七年前のことなのに九割にあたる二四〇名の所在が明らかになった。同時進行で名簿の作成、案内状の宛名書き、名札作り、当日の進行等の準備など、役割分担を決めてスピーディに進められた。もう四十三歳のおじさん、おばさんの顔は皆輝いていた。あいつに会える、あの子の懐かしい顔が見られるとの一心の思いで!
六月二十九日(大安)当日。遂に、ここ御殿山ヒルズ・ラフォーレ東京にて二十七年ぶりの同期会が開催された。出席者は一〇九名である。実行委員及び幹事は十三時集合なのに、皆十二時前から集まりだす気合いの入れようだった。受付では「えー誰」「ウソー」「キャー久しぶり」などの声が宴会場ロビーを埋め尽くし歓喜が溢れた。一方、会場では司会の最終打ち合わせやリハーサルが緊張の面もちで行われていた。いよいよ開始。司会の第一声の盛り上がり、かつての生徒会長のユニークな挨拶、出席いただいた武内先生、柴田先生、菅野先生の懐かしいお言葉に耳を傾け、同窓会の佐藤会長のご挨拶に続いて乾杯となった。異例ともいえる女性副実行委員長による乾杯の音頭で幕は開いた。歓談の一時間二十分の間、誰もが中学時代にタイムスリップし、グラスをかたむけながら昔話は尽きなかった。クラスごとの記念撮影、ビデオ撮影と盛りだくさんの思い出に残るひとときだった。極めつけは「シがしにシらく品川の、八重の潮路のシかるとき」と、いまだに口ずさめるわが母校の校歌の大合唱で第一部の幕は閉じた。しかし、これで終わる二十五期生ではなかった。二次会の案内をしたところ、なんと九十九名が参加した。幹事冥利に尽きる!と感じた。二十七年ぶりの再会は三次会、四次会、五次会と夜明けまで続いた。別れ際、「三年後にまた会いましょう」を合言葉に同期会の幕は閉じた。やって良かった。少ない時間と少ない人数、苦労した準備の結果が実った。
心地よい疲労感を感じた一日であった。


会員からの一言(通信欄より)

会員からの伝言板


私も七十歳が過ぎこの様なお便りを見ると懐かしく何かほっとします。お世話をなさる方はさぞかし大変と思います。でも喜んでいるものもおります。少々ですが何かのお役に立てて下さい。感謝。
鈴木 道 先生

同窓会会報三号の記事非常に懐かしい思いで読みました。過日四十五年ぶりに品川駅〜八ツ山橋〜北品川商店通りを訪れて見ました。昔の面影がまだ残されている所も有り感激致しました。私自身はシニアのソフトボール全国大会出場を目標に頑張っています。過去の最高記録は県大会三位で目下停滞しています。最近はムリかなうと思っています。
三期生 野村武仁
懐かしい木造校舎の写真を拝見し、あの頃の若き自分と良き友を思い、一杯の紅茶を口に懐かしいひと時を過ごしました。
三期生 那須(加々美)嬉子

いつも会報有り難うございます。品川宿の歴史や現在の城南中の動きがわかり面白かったです。全国でも先駆的な品川の教育。「総合的学習」で何を学ぶのか。生徒はどう思っているのか興味があります。同窓会としても大いに協力できるのではないでしょうか。
三十四期生 河合健一郎

「むくの木」第三号楽しく読ませて頂きました。懐かしい木造校舎の写真に先生のお顔、クラスメートの顔が昨日のように思い浮かんできました。無邪気だった三年間はいつも心の中に温かくしまいこまれております。
七期生 鈴木(竹内)理慧
もと私が住んでいた所は北品川一丁目の中の八ツ山と呼ばれる所でした。顧問で一期生の吉野明さんのご解説を拝読し、その地名の由来がわかりました。その他吉野さんのお話は大変懐かしい地名ばかりで感激。八ツ山橋では特急つばめのもうもうたる煙と汽笛に驚いたものです。御殿山懐かしい。続編を楽しみにしています。
十二期生 渡邊欣雄

会報三号の昭和二十五年ごろの木造校舎の写真を懐かしく拝見しました。昭和二十七年疎開先の茨城から転向してきた私は中央階段を胸をドキドキ(不安一杯だった)させて上った事を思い出しました。あれから五十年無事に定年を迎え幸せな人生を送らせてもらっています。    四期生 安重 務

私の住んでいた北品川一丁目は歴史的に有名な所だったな〜と会報を見て改めて確認できました。あまり行く機会もなく転校生だったので知り合いもあまりいませんでした。仲の良かった方の消息もわかりませんが同窓会の世話人の方々にエールを送ります。
十四期生 松本(投山)涼子
先生方三期生の皆様お元気のことと何よりと存じます。東京港区で生まれ、小四から品川に住みました昔の東京の思い出は頭の中に沢山埋まっています。すっかり世代も移り大阪に四十年関西の事も数多く知る事も出来ました。本年は特に世界平和を祈る不安多き年になり残念で成りません。
三期生 井上(嶌崎)佐登子
私が入学した頃は木造校舎でした。トイレは水洗ではなかったでした。一年の途中から改築となり三年には鉄筋に移りました。
十八期生 佐野正己

会報有り難うございます。子供の頃遊んだひょうたん池、品川神社、権現山、お台場、沢庵和尚のお墓、何もかも会報を見て懐かしいです。今年は七期生還暦の年なんですヨ。次回の会報楽しみにしていますネ。
七期生 早川(川上)綾子

峰松啓子さんの消息をご存知の方是非ともお知らせ頂きたく存じます。 十期生 薄羽(藤村)光子

創立五十周年に参加させて頂き十一期生と再開致しました。「私たちより学校の方が若いね」と、話し合ったことを思い出します。十一期生の同期会が出来ればと願っております。城南中同窓会の発展をお祈りしております。
十一期生 北山(池田) 栄
品川の地を離れている為近くになかなか行く事も出来ません。会報の情報が楽しみです。維持会費を続ける事により少しでもお役に立てばと思っております。
十二期生 小島(大森)和子
会報を見るたびに忘れかけた中学生時代を思い出します。
十四期生 高井俊夫


以上です。