日本外交史 レポート
ワシントン会議とロンドン会議における海軍軍縮の比較検討 1914年(大正 3年)にヨーロッパで勃発し、世界を巻き込んだ第一次大戦により、ヨーロッパや 極東における列強のバランスは大きく変化した。ドイツは崩壊したが、日本は大戦を契機として力 を大きく伸ばし、英米の不安をヨーロッパから極東へと移らせた。アメリカは、日本の中国侵略を 押さえ、海軍をさらに強化して日本に対抗しようとした。イギリスは、他国に対する海軍力優越の 伝統を維持すべく、海軍拡張で対抗しようとしたが、第一次大戦による経済的打撃により、アメリ カとの建艦競争は不可能な状態であった。 日本の軍事費の総歳出・国民所得に対する割合は、イギリスやアメリカと比較してはるかに大き く、英米に対抗して建艦を計画した。国際収支悪化と財政混乱の中にあった日本は、軍備制限によ る国内財政の安定化が急務であった。英米日を中心とした建艦競争や無制限な海軍拡張を終わらせ て海軍の軍備制限をし、日本のアジア進出・膨張抑制問題(太平洋・極東問題)を討議するため、 アメリカは1921年(大正10年) 7月にワシントンでの会議開催を非公式に提議した。会議開催には、 帝国主義の絶頂にあり、日英同盟を持っていた日本勢力の伸張に対して、アメリカが警戒・対抗姿 勢をとった背景があった。 同年11月から開催されたワシントン会議において、アメリカ全権は英米日の主力艦保有比率を五・ 五・三、即ち日本の対英米六割を提案した。日本は当初、対英米七割を主張したが、英米の戦力は 日本に勝利するには不十分であり、フィリピンとグァムのアメリカ軍港不拡大を誓約させることに より、主力艦保有比率の対英米六割提案を受諾した。この結果、日本は西太平洋・極東において軍 事的に優位することになり、アメリカ単独での極東介入は不可能になった。 イギリスはロシアとの対抗上、極東上の日本との同盟を結んでいたが、革命によって解体した ロシアは軍事的脅威を失っていた。ドイツの脅威も消失しており、イギリスにとって日英同盟の存 在理由は薄れていた。アメリカは巧みな外交でイギリスに擦り寄り、日本の支柱である日英同盟の 廃棄をイギリスに踏み切らせた。ワシントン会議の意義の一つとして、アメリカも太平洋を守備範 疇とする、太平洋と極東の総体的安定化の基礎が作られたことが挙げられる。 ただ、ワシントン会議における海軍軍縮条約は、主力艦の保有比率についてのみ協定を成立させ、 補助艦についての制限が無かった。このことが、各国の補助艦建艦競争の原因となり、対英米六割 の主力艦保有比率に大きな不満を持つ日本海軍は、補助艦整備等によって主力艦の量的劣性を補お うとした。また、押しつけられた六割の劣等比率の意識は、日本海軍内に反英米感情を生み出した。 主力艦の保有比率についてのみ協定したワシントン会議の実効性に各国は不安を感じ、1927年 (昭和 2年) 6月にジュネーブで英米日の海軍軍縮会議が開催されたが、英米の対立で会議は決裂 して閉会した。1929(昭和 4年)年10月、ニューヨーク株式暴落により始まった世界恐慌は、各国 の軍縮気運を再び高めることになった。フーヴァー米大統領は補助艦建艦競争に歯止めをかけるべ く、ロンドンでの補助艦建艦制限会議を提案し、日本も会議参加を受諾した。浜口内閣は、日本国 内の財政健全化と協調外交のためにも、軍縮の実現を強く望んだ。ロンドン会議における日本海軍 の三大原則は、補助艦総括保有量の対米七割維持、大型巡洋艦保有量の対米七割確保、潜水艦現有 勢力の維持であった。 1930年(昭和 5年) 1月に開催されたロンドン会議において、日本全権は日本海軍の要請である 補助艦の対英米七割を主張したが、英米はワシントン会議の主力艦保有比率と同じく、補助艦につ いても対英米六割を強硬に主張した。軍事面から保有比率を考える日本海軍と、緊縮財政と国際協 調を重視する日本政府との間には、ロンドン軍縮条約以前より対立があった。しかし、日本政府の 強い決意と英米日の妥協により、1930年(昭和 5年) 4月、補助艦保有量総括平均六割九分七厘に てロンドン海軍軍縮条約が締結された。 ワシントン会議からロンドン会議に至る期間は、海軍軍縮による国際平和の時代であった。しか し、ワシントン会議での主力艦の建艦制限、ロンドン会議での補助艦の建艦制限は各国の軍備を精 鋭化させ、日本海軍と米海軍の敵対意識を増幅させる結果となった。主力艦の保有比率しか定めな かったワシントン会議は、各国を補助艦建艦競争に走らせるという大きな問題を残した。補助艦建 艦競争問題を解決すべく開催されたロンドン会議での英米日の協定結果は、日本海軍が以後の政治 に波乱を起こす大きな原因となった。 ロンドン会議は統制された日本海軍を分裂させ、元来は合理主義であった日本海軍を、猛訓練や 造船技術常識を越えた過重武装という精神主義へと変化させていった。明治初期建軍の日本海軍は、 海軍大臣の下によく統制され、海軍軍人は軍艦を操作する技術者として育成され、合理的・計量的・ 工学的な思考力を持っていた。しかし、ワシントン軍縮条約での主力艦保有比率対英米七割主張に 対して六割を押しつけられたことと、ロンドン軍縮条約で再び補助艦保有比率対英米七割主張が阻 止されたことが、日本海軍にいくつかの大きな影響を残した。それは、海軍の伝統的結束崩壊によ る条約派と反条約派(艦隊派)の対立、軍政に対する軍令優位の確立、反英米感情と精神主義の浸 透、要人襲撃事件等の下剋上の活発化となって現われた。 ワシントン会議以来の劣等比率の不満が爆発し、政党と軍部の対立を生み、政党政治党略と絡ん だ大きな問題である統帥権干犯論争へと発展した原因は、ロンドン会議における海軍軍縮条約受諾 であった。大日本帝国憲法第一一条では、天皇の陸海軍の統帥権が規定されていたが、軍令部は第 五八特別議会の前後から、政府が軍令部長の同意を得ないで回訓を決定したのは統帥権干犯である として態度を硬化した。そこには、条約反対派を操って、統帥権干犯問題を倒閣手段に利用しよう とした政友会の策動があった。統帥権干犯問題は、右翼団体や政友会の兵力量不足誇張による国防 危機感醸成に利用され、軍部や民間の急進派に緊迫感を抱かせることになった。 ワシントン会議とロンドン会議における海軍軍縮を比較検討する時、その対象は主力艦建艦制限 と補助艦建艦制限であると考えられがちである。しかし、両会議開催時の世界情勢と日本国内情勢 は、以上述べたように異なっていた。ワシントン会議で作られた諸条約や協定によるワシントン体 制は、日本外交の新方向を示し、政治・軍事・経済の有機的繋がりを回復した。しかし、ワシント ン体制は各国間の調和・平和を前提にしたものであったため、新思想による政府外交と、これに反 対する軍部(軍事)方針との相違が各国で拡大した。 日本においては、ワシントン会議で押しつけられた対英米六割劣等比率が、日本海軍の極めて大 きな憤懣の原因となって鬱積した。ロンドン会議で対英米七割主張が再び阻止された時に、ワシン トン会議以来の日本海軍の憤懣が遂に爆発してしまい、統帥権干犯紛争へと発展したことは、両会 議を比較した場合に特筆される事項である。その後の対英米関係の悪化、英米への宣戦布告と日本 を引きずり込む原因となった日本海軍の爆発を招いたのはロンドン会議であった。日本海軍にとっ ては、ワシントン会議は悲劇であった。しかし、ロンドン会議はそれ以上の悲劇であったと思う。 以上 参考文献 池田清『海軍と日本』(中央公論社、1997年) 入江昭『日本の外交』(中央公論社、1998年) 内山正熊『西洋外交史』(慶應義塾大学出版、1995年) 中村菊男『日本政治史』(慶應義塾大学出版、1995年) 勉強と復習の記憶に基づいてレポートを作成。直接引用文は特に無し。 以上