日本政治史 レポート
近現代日本における議会政治の発展について  近現代日本政治の出発点は明治維新である。維新政府の当面の課題は、あらゆる面で欧米先進 諸国に追いつくことであった。維新政府は大変革の意義を内外に宣揚し、公議輿論の尊重を政治 方針の一つとするため、慶應 4年(1868年) 3月に五箇条の御誓文を発布した。諸侯の意見を聴 く公議輿論の必要性は、幕末頃より多くなってきていた。  続いて政体書を公布し、太政官による三権分立を行った。また、古代天皇制復活、開国和親政 策を新政の方向とした。新政の基礎が確立するに伴い、全国の土地人民を朝廷の支配下に属させ るため、明治 2年(1869年) 6月に版籍奉還を断行した。明治天皇を中心とする中央集権を強化 する必要から、明治 4年(1871年) 7月には廃藩置県を断行した。  廃藩置県後、政府の専制的色彩は強くなり、藩閥的傾向が強化した。明治維新は主に薩長土肥 四藩にて推進されたので、当初より藩閥的性格を帯びており、特に薩長の影響が強かった。この 藩閥的傾向は以後も長く尾を引くことになり、公論政治が軽視され、軍事・警察力による不平分 子の威圧に繋がった。政府の行なった大改革と専制化に対し、欧米の自由主義思想を学んだ人達 は、政府への批判を強めた。彼らは、政府の施政に不満な士族や農民達の反政府的気運を背景と して、政府への攻撃を強め、全国的運動に発展させようとした。これが、自由民権運動である。  自由民権運動は後に、急進派と漸進派に分裂することになった。板垣退助を中心とする急進的 な自由党と、大隈重信を中心とする穏健で漸進的な立憲改進党は、共に自由民権を唱えた。しか し、これを弾圧しようとする政府に対して、言論では効果が無いとする自由党左派は、日本各地 で直接行動に出て事件を起こした。自由民権運動は、一時は下火になったものの、藩閥専制政治 に対しての民主化を求める主張、政府への攻撃、公選による議会開設の声は全国的に高まり、自 由民権が益々唱えられるようになった。この自由民権運動が、後の国会開設、大日本帝国憲法発 布、帝国議会開設という近代議会政治へとつながったのである。  政府は、従来の権力確保を求めつつ国会開設準備に取り組み、明治18年(1885年)12月に内閣 制度が確立した。伊藤初代内閣は、薩長藩閥出身者が中心であった。ドイツ憲法を学んできた伊 藤博文は憲法草案を作成し、枢密院の審議を経て、明治22年(1889年) 2月に大日本帝国憲法が 発布された。大日本帝国憲法は欽定憲法であり、天皇の統治権が絶大で、民主主義の観点からは 必ずしも十分な内容ではなかった。特に、陸海軍は統帥権の独立の下に暴走し、後の政治の実権 を握るようになった。  明治23年(1890年) 7月に第一回衆議院議員総選挙が実施され、同年11月には第一回帝国議会 が開かれた。貴族院が封建的で強く、衆議院議員選挙権に納税額・年齢・性別の制限がある等の 問題があったが、ここに我が国の議会政治は始まったわけである。  幕末に締結した諸外国との不平等条約を改正し、対等の外交関係を樹立することは、日本にと って大きな問題であった。諸外国と条約改正交渉を繰り返した日本外交は成功し、立憲政体確立、 諸法典整備、軍備充実等、日本の近代国家としての体裁が整えられた。しかし、世界の資本主義 諸国家に遅れて仲間入りした日本は、大陸進出政策展開により、欧米列強に追いつこうとした。 明治27年(1894年)の朝鮮支配権を巡る日清戦争、明治37年(1904年)の朝鮮・満州支配権を巡 る日露戦争、大正 3年(1914年)の第一次世界大戦はその現れであった。日清戦争、日露戦争、 第一次世界大戦での日本の勝利は、後の軍部の政治への影響力を強くする原因となった。  国民軽視の政治に対し、大正時代には民主的風潮が広まった。尾崎行雄らは閥族打破・憲政擁 護をスローガンに、第一次護憲運動を起こした。立憲政友会の原敬が暗殺された後は、軍人・官 僚が再び内閣の中心であり、護憲各派は第二次護憲運動を起こした。大正14年(1925年) 4月に は、25歳以上の全ての男子に選挙権を与える普通選挙法が成立した。大正デモクラシーである。  大正12年(1923年) 9月の関東大震災は日本経済界に大打撃を与えた。震災の処理不手際が原 因となって、昭和 2年(1927年) 4月には金融恐慌を迎えた。経済は行き詰まり、財閥と政党が 結びついた政党政治の腐敗が目立ち始め、軍部が力をつけてきた。昭和 5年(1930年) 4月のロ ンドン軍縮条約で、政府が軍令部長の同意を得ないで回訓を決定したのは統帥権干犯であるとし て、ワシントン会議以来の憤懣が爆発した軍部は態度を硬化して政府を攻撃し、軍部の考えで政 治を動かす風潮をますます強くした。  政党政治と民主主義の精神はこの頃より、さらに衰えていった。昭和 7年(1932年)の5.15事 件、昭和11年(1936年)の2.26事件にみられる暴力による政治への直接行動は、民主主義精神と 政党政治の後退・終焉であった。軍部は日華事変に乗じて政治を動かす力をほぼ完全に獲得し、 政党は無力となり、議会も有名無実の存在になった。軍部の暴走は全体主義につながり、後の悲 劇の第二次世界大戦へとつながったのである。  第二次世界大戦に敗れた日本における連合国側の占領政策は、非軍事化と民主主義の復活強化 であった。昭和21年(1946年)11月 3日に公布され、昭和22年(1947年) 5月 3日に施行された 日本国憲法は、国民主権、象徴天皇制、平和主義、基本的人権の尊重を謳ったものであり、これ は大日本帝国憲法の改正というよりも新憲法の制定であった。昭和20年(1945年)12月には新選 挙法が公布され、初めて婦人参政権が実現された。日本国憲法により、主権者である国民の意思 によって行なわれる民主政治、納税額や性別に差別の無い国民が選んだ議員を通して、国家意思 形成に参加する現代議会政治が確立した。戦時中に消滅状態になった政党も、相次いで復活して きた。現代議会政治の幕開けである。  現代国家の多くは、国民が選んだ議員を通して国家意思形成に参加する間接民主性(代表民主 性)の議会政治を採用している。日本においては明治初年から今日に至るまで、政党は離合集散 を繰り返している。最近の政党は特に、主権者である国民が不在としか思えないような、節操の 無い党利党略、派利派略に走っているように感じる。政権についた途端に、基本政策を変える政 党もあった。野合、変節は現実政治の常道かもしれないが、真の議会政治の観点からは許される ものではない。  一方、国民の議会政治に対する意識はどうかと言えば、必ずしも高いとは言い難いように感じ る。政治に対する無関心、無力感、失望感も指摘されている。この原因としては、現代社会の複 雑さ、マスコミによる文化の画一化や情報独占による大衆操作の危険、大衆社会における個人の 疎外感等が考えられる。無党派層の存在も、大きな問題である。  議会政治は多数決によって、多数派集団の意思が議会意思となる形骸化の問題、行政拡大に伴 う議会審議不十分等の問題がある。政治的無関心の蔓延、識見の高い少数意見の排除(多数決の 暴力)、頭数(数合わせ)だけの政治は衆愚政治につながる恐れがある。国民は世論を政治に反 映させる努力を続けなければならないし、議会・議員は国民の真の要求を汲み取って、国民と政 治の結びつきをさらに強める努力を続ける必要がある。特に、公僕である議員にあっては、私利 私欲を捨てて公に生ききる覚悟が必要である。これらのことは、今後の日本の更なる健全な議会 政治発展には不可欠である、と私は思う。                                        以上 参考文献 中村菊男『政治学』(慶應義塾大学出版会、1993年) 中村勝範『正論自由』第十巻 (慶應義塾大学出版会、1996年) 中村勝範『正論自由』第十一巻(慶應義塾大学出版会、1995年) 中村勝範『正論自由』第十二巻(慶應義塾大学出版会、1997年) 補記 勉強の記憶に基づいてレポートを作成。直接引用文は特に無し。