法哲学 レポート 正論じゃろん? 09
自然法と実定法 法にはさまざまな分類(法の種類の区分)の仕方がある。公法と私法、普通法と特別法、実体法 と手続法等はその一例であるが、それらは実際に成文化されて定められた成文法である場合が多い。 即ち、人間の定立(判断、主張)という作為による法である。現在行われ、過去に実際に行われた 法であるので、実定法でもある。 現実の実定法は、さまざまな判断・主張の妥協と、調整の結果ともいえる側面を持っている場合 がある。また、万能の神ではない不完全な人間が今日作り、誰も見聞できない明日以降の将来の出 来事に適用されるものでもある。当然、これらの実定法には内容不備による改正(内容の変動)等、 問題が発生する可能性がある。人間がすることに完全無欠は無い。それ故に、これらの実定法を超 越・補充した法の存在を信じ、あるいは信じたくなる人が存在しても何ら不思議ではない。実定法 と、これを超越・補充した法という、相対する法分類の考え方は、法を考える上で最も基本的で重 要であると思う。 ここで、自然法と実定法の定義の例を挙げる。自然法の定義は次のようなものである。自然界の 一切の事物を支配するとみられる理法。人間の自然(本性)に基づく法。歴史的な実定法に対する ものとして、永久不変なものと考えられている法。定立という作為によらない法。すべての時代、 すべての場所に適用される永久不変の法。実定法の上にあるもの、または実定法を補充し、あるい は実定法の指針となる法(1)(2)。一方、実定法の定義は次のようなものである。定立された法。狭 義では人間が定立した法(人定法)即ち制定法、慣習法、判例法等。現に行われている法(現行法)、 または過去に現実に行われた法(1)(2)。 自然法の存否、自然法思想等について考える前に、実定法の問題について考える。実定法は人間 の判断・主張という作為による法である。それらの殆どは、立法機関による手続きによって作られ た法である。我が国のような代表制民主政治においては、必ずしも民意が政治に反映されるとは限 らない。現実の政治は様々なしがらみで動くものでもあり、政治の結果は実定法に密接に関連して いる。政治は良くも悪くも、成りつつある実定法であり、実定法は実現された政治であるともいえ る。 実定法は改正によってその内容が変動し、廃止によって効力が無くなる。実定法は国家によって 承認された規範でもある。規範とは自己を抑えて他に従うことでもあると考えられるので、従うべ き法の内容(体系)が変動的で不安定であれば問題であり、困る場合が生じる。法内容の変動性、 不安定さは法に対する不信、不満等の原因になる。まして、たびたび改正されたり、廃止されたり、 どのようにも解釈できるような法であるならば、それは実質を失っている(実質が無い)に等しい といえる。 実定法の中には、社会的合理性を持たないと思われる法が存在する可能性もある。しかし、法治 国家においては、社会的合理性を持たないと思われる法であっても、国民はそれに従わなければな らない。また、法研究者にあっては、それを研究対象として扱わねばならない。 問題を抱えていると思われる実定法の一例として、日本国憲法(以下「憲法」という。)と自衛 隊問題を例に挙げて考える。自衛隊の人的物的組織力の現状から判断すると、自衛隊は憲法第九条 第二項にいう戦力に該当すると思う。自衛隊の存在は、戦力を保持しないという規定から逸脱して おり、憲法第九条に関していえば、自衛隊は違憲の疑いが濃厚であると思う。 一方、憲法第九八条第二項では、日本国が締結した条約の遵守義務が規定されている。日米安全 保障条約では、武力攻撃に抵抗する能力の維持発展、共通の危険に対処することが規定されている。 これを受けて、自衛隊法には武力攻撃に際しての防衛出動、武器保有、防衛出動時の武力行使が規 定されている。憲法第九八条第二項に関していえば、自衛隊は必ずしも違憲とはいえないと思う。 自衛隊に関しては、憲法第九条と憲法第九八条第二項との間に、整合性が乏しいように思う。国 家の存亡にかかわるような重大な問題に対する日本国の最高実定法、最高法規である憲法が、ある べき筋道(論理の一貫性)にかなっておらず、社会的合理性が乏しいように思うのである。およそ、 国家公務員が憲法第九条に違反するような条約(日米安全保障条約)を結ぶべきではないと思うが、 高度な政治判断、憲法第九八条第二項との絡みで、問題が複雑化するのである。 このように、問題・論点が存在する憲法ではあるが、勿論のこと、国民、公務員は憲法に従わな ければならない。また、憲法学者等にあっては、憲法を研究対象として扱わねばならない。今挙げ た憲法問題の一例に限らず、下位規程である法律等にも、不完全性等の問題が包含されている可能 性はあると思う。 通常の人間は、その人なりの価値観、善悪の判断基準(倫理・道徳基準)、規範(行動基準)等 を持っている。しかし、それらはどの人も同じであるとは限らないし、異なる場合もある。これら の相違、現実の社会の法に対する要請等も、実定法の変動性、不安定性の一因になっているように 思う。このような、実定法の不完全性、変動性等に対する不満が、永久不変とされる自然法への欲 求の原因になるのではないかと考えられる。永久不変なものに憧れたり、欲求を持つのは人間の性 であり、法の世界においても例外ではないと思う。 自然法が存在するかどうかについては、学者によって意見が分かれ、自然法があるという考えは 古今を通じて存在するようである。また、自然法思想は法の姿を永遠化しようとする思想であり、 いつの時代においても、法学の中心問題とされているようである。私は、自然法とは一種の観念的 な法であると思う。 人間の定立(判断・主張)という作為による実定法は、人間そのものが不完全で恣意的な存在で ある以上、内容の非合理性、不安定性等の問題を抱える可能性を持つ。もっと永久不変な規範、道 徳原理があるのではないか、あるはずだという、自らの力ではどうにもできない、湧き出て来るよ うな追求心が人間には生れつき備わっているのだと思う。 この永久不変な規範、道徳原理とも考えられるものが自然法であると思う。物理的な自然法則の ように、自然法の存在を客観的、科学的に証明することはできない。しかし、人間の天性の性質と して、自然法は、それを求める人の心の中に存在すると思う。 以上 参考文献 (1) 新村出編『広辞苑 第四版第二刷』(岩波書店、1992年) (2) 『図解による法律用語辞典』(自由国民社、1996年) 峯村光朗、田中実補訂『法学(憲法を含む)』(慶應義塾大学出版会、平成5年)