正論じゃろん?(C) 28
コミュニケイション コミュニケイションは、全ての動物にとって必要不可欠なものであろう。人間は、会話、表情、 身振り手振り、等、色々なコミュニケイション手段を持っている。他の動物はどうなのだろう。植 物はコミュニケイションをしているのだろうか。 我々は皆、様々な状況の下で生活をしている。どこにでも色々な人がいるし、人間を長くやって いれば、穏やかな日々ばかりではない。斯(か)くいう私は口が重く、俗に言うネクラであり、人 当たりも良いほうではない。無理して明るく振舞おうとも思わないが、そこそこの人付合い位はで きなければ、とも思っている。 さて、卒業を目指して慶應の学問を始めた以上、最後の難関である卒論指導は、指導教授と塾生 との最大のコミュニケイションであると思う。私は体系的な勉強もせず、レポート、科目試験、ス クーリングに合格して、単位を貯め込んできた。合格といっても、たまたま運良く受かっただけで、 実力があるとは毛頭思っていない。本当は自信を持って、胸を張って、科目を修めたと言いたいの だが、現実は誠に恥ずかしいかぎりである。 私の卒業論文個別指導が始まる。指導して頂く先生は、大分慶友会の講師派遣行事(別府)にも お越し頂いた、皆さん御存知の、日本国憲法の小林節教授である。現在の心境?、極めて不安であ る。今の私では、先生と真面にコミュニケイションできる訳がない。私が今後いくら勉強しても、 足元にも及ばない。 今、卒業論文の草案をあれこれと考えている。これが、「下手の考え休むに似たり」である。私 なりに文献を買い込み、近所の図書館にも時々通って、構想を練っている。テーマをここで公表す ることはできないが、殆どの社会人に共通する問題であると思っている。 世の中には色々なコミュニケイションがあるが、学問に関しても、ある程度のレヴェル(の一致) が無ければ、コミュニケイションは成立しないと思う。教えを乞う側が、底抜けの笊(ザル)では 話(コミュニケイション)にならない。滝の下でバケツを抱え込んでいても、底が抜けていては、 水(知恵・知識)は貯まらないのである。 少しでも効率の良い指導が受けられるよう、下書きらしきものも準備しているのであるが、先生 の研究室に入るのが恐い。小心者の私は、特に恐い。しかし、先生と直にお話しをさせて頂くのが 楽しみでもある。慶應義塾塾生としての、私のラスト・コミュニケイションが始まろうとしている。 以上