藁を掴んで走馬灯
 「溺れる者は藁をも掴む」「死ぬ前には、今までの人生が走馬灯のように浮ぶ」本当であった。 私が小学校の中学年位の時、兄弟、近所の悪童(年上もいた)達と海水浴に行った。トラックのタ イヤのチューブを浮き輪代わりにして、皆が周囲に掴まって足をバタバタさせながら、沖合いに向 かった。私は怖くなったので(以下、故郷の方言)「もう、ええでないか」と言ったが、皆は、私 にとってはかなり深い沖合いまで出た。  その内に、一人ずつ浮き輪から離れて、海岸の方へ泳ぎ始めた。私は海岸まで泳ぎきる自信が無 かったが、仕方無く浮き輪から離れて泳ぎ始めた。「もう、足が下に着くやろ」と思って泳ぎを止 め、その場に立とうとした。それが間違いだった。全く着かなかった。私は焦り、必死で泳ごうと したが、パニックに陥り、海水を飲み、顔(視線)は海面を上下した。  海面に何かが見えたので、必死にそれを掴んだが、藁屑のようなものであった。10年程度しか 生きていないので、人生を語るには短すぎる。走馬灯という言葉も物自体も、当時は知らなかった。 しかし、私の頭の中には、今までの人生が回り灯籠のように浮かんできた。と言うより、灯籠の中 に頭を突っ込んでいるかのように、今までの短い人生のシーンが一齣ずつ回っていた。  「ああ、これで終わりなんかな」子供心に直感した。しかし、必死でもがいて進んでいると、大 人が立っているのが見えた。私は必死でその大人を掴んだ。「深い所へ行ったらいかんで」と、そ の大人は言ってくれ、波打ち際まで連れて行ってくれた。今から考えると、足が着く所まで自分で 来ていたのかもしれないが、パニックのために全く分からなかった。  「溺れる者は藁をも掴む」とか、「死ぬ前には、今までの人生が走馬灯のように浮ぶ」という言 葉が理解できる年齢になって、「ああ、本当にそうなんだな」「昔も今も同じなんだな」と思った。 普通の人より早く体験できた割には、臨死体験?による超能力を身に着けた等の変化は無い。反対 に、海に行っても、足の届かない深い所へ行くのが怖くなってしまった。  私の今後の人生においては、海で溺れるようなことはしないと思うが、死は誰にも確実に訪れる。 その時は私も、小学生の時に見た走馬灯のシーンよりも、もっと沢山の様々なシーンを見るであろ う。人生70〜80年、長いような短いような、楽しいような悲しいような、複雑な心境である。                                         以上