異界その一(第六頁)


表紙へ
目次に
異界二
異界三
此岸
あかずの間

本所七不思議(「両国・錦糸町むかし話」より) 平成12年5月

 昔話はなにも田舎だけのものではない。好きな方ならご存知の通り、都市にもある。都市に生まれた民間説話の一型が都市伝説である。本所七不思議譚を紹介しながら、都市民間説話を考察してみようと思う。

1.以下は岡崎柾男「両国・錦糸町むかし話」にある本所七不思議である。
 第一番はおなじみの「おいてけ堀」、春夏秋冬の季節にあわせて四話を挙げる。いづれも暗い夜道、堀を通りかかった人に「おいてけ」と不気味な声をあびせる。三話までが奪われるのが魚である。声の主は狸と河童の二通りがあり、地元の論争になっているらしい。これとよく似た話が牛久・若柴のHPにある「置いてけ沼」。こちらの妖怪の正体は河童となっている。
 二番「狸ばやし」、稲穂が重く垂れる頃、夜風にのってお囃しが聞こえてくる。珍しいと音に誘われて出かけるが、いくら捜してもお囃子の主が見つからない。これは怪しいと眉に唾をつけたところ、狸が腹鼓を打っている姿が見えたという。牛久・若柴HPにも「河童囃子」がある。夏の夜更け、どこからともなく聞こえてくるが、いくら捜しても見つからない。それは「河童囃子」である。風のない夜、温度に差のある空気の層ができ、遠い村のお囃しが聞こえてきたのかもしれない。
 三番「送りちょうちん」、おぼろ月夜の道で灯りは不用と歩いていたら月が隠れて真っ暗になった。困っていると前方にちょうちんが一つ、点いたり消えたり。「これは送りちょうちんだ」と気付いた。どういうわけか、牛久・若柴HPに「河童の送り提灯」があった。提灯の主はやはり河童で内容は同じであった。
 四番は二話ある。「葉の落ちないシイの木」だけ紹介。むかし大川沿いに「シイの木屋敷」があった。ところが「実の落ちることはあっても葉の落ちるのを見た事がない」と評判になった。あるいは掃除に励む下男がいたのかも知れない。
 五番は「片葉のアシ」、ならず者の留蔵が器量よしのお駒に横恋慕した。いかにしてもなびかぬお駒に、留蔵はあいくちで切りつけ殺してしまった。死体が放り込まれた堀はその後片葉のアシばかりが育つようになった。この話の前半は江戸っ子好みの人情沙汰の芝居じみている。片葉のアシは「片目の鮒」「片目の鹿」と同類の昔話が別個にあったのではないか。水死など珍しくもなかったから、訳ありの死人でも出れば噂はあっというまに広がった。こうした二つの話をうまくくっつけたように思える。
 六番は「明りなしソバ」、息も凍る寒い夜、行く手には明りも点けぬ二八そばの屋台があった。客も店主もいないので、あんどんに火を点けるがすぐ消えてしまう。こんな屋台に出会った人は悪い事が起こるそうだ。この話はこれだけで終るのだが、どうも小泉八雲の「むじな」を思い出してしまう。屋台のそばを喰おうとしたら店主がノッペラボーだったという例の怪談だ。八雲が「明りなしソバ」を題材に使った可能性は大いにある。
 七番は「足洗い屋敷」、本所旗本屋敷では草木も眠る丑三つ時になると家中ががたがたと揺れ出す。やがて天井を破って血まみれの巨大な足が突出された。「足を洗え」という。これが毎晩続くので奉公人が怖がって出て行ってしまう。困った主人は友達に屋敷を取り替えようと申し出た。ポルターガイストまがいのこの話、番町の旗本屋敷を舞台に同じ話が伝わっており、多分そちらの方が先に成立したと思われる。有名な「番町皿屋敷」も出入りの仲間や行商人たちが広めたのであろう。

2.「七不思議」というタイプの民間説話は明らかに昔話とは違っている。昔話の鉄則は「むかしむかし、あるところに」であり、「先日、おいてけ堀で大工の留さんがね」という世間話とは性格を異にする。前節の紹介でいくつかコメントしたような合理的解釈さえ可能な「生々しさ」が世間話の本質である。著者の岡崎氏は本書の冒頭に両国〜錦糸町の地図を載せ、「七不思議」の候補地を一つ一つ示している。例えば、四番のシイの木は大川(隅田川下流)端にあった松浦静山の屋敷のものだとされている。割愛したが四番の二「津軽太鼓」は本所にあった津軽越中守の屋敷で打ちならされた太鼓である。七番の「足洗い」は本所三笠町の味野岌之助(あじのきゅうのすけ)という旗本の屋敷となっている(この話は番町七不思議にもあり、やはり旗本屋敷である)。
 これらの話は何時ごろ、どんな人たちが生み出したのだろう。「おいてけ堀」の狸や河童は昔からのキャラクタのように見えるが、登場人物は釣の浪人(生業ではなく趣味)、酔っ払い、おかみさん、魚屋さんであり、どう見ても町の風情だ。「片葉のアシ」は前述した通り江戸っ子好みの筋立て。「明りなしそば」はまごうことなき町の商売である。こうしてみると、「七不思議」の主人公は町人・侍(大名や旗本)で舞台は大都市江戸の外縁あたり。大名・旗本の屋敷が並び、一般商工人の長屋、商業地、市場、遊廓、寺社をはじめ全国から集まってくる遊民・流民などで人口と宅地が増加した。すなわち、著者は「明暦三年(1657)の振袖火事による大被害の結果、幕府は下町行政の抜本的改革を迫られた。その一つに本所の開発がある」と解説する。本所の道路や用水路が碁盤目状に並ぶのはその計画的な開発のためである。鳥獣虫魚の楽園であった広大な湿地帯は地を固められ、多くの生き物が追い立てられた。時代はまもなく元禄を迎え、大発展のエネルギーに満ち満ちていた。

3.ここで、牛久・若柴のHPに掲載された伝説に触れておく。七不思議1・2・3番の話が牛久にも伝わっており、かつ妖怪の正体が河童とされていることである。
 前田氏(HP主宰者)の紹介によれば、牛久沼は「むかし沼の水源である東谷田川と西谷田川は合流して旧鬼怒川へ流れていたと言われている。それより下流の低湿地から逆流が活発化し、旧鬼怒川との合流地点に土砂が堆積してせき止められ」形成された。また「永禄年間から天正年間にかけて(中略)、領民は競って開墾に勤めた。そしてこの地方の収穫高は年々増えていった」「やがてこの地方は関東有数の穀倉地帯になったのである」「古くから牛久沼では漁業が盛んであった」とあり、江戸時代の初期から霞ケ浦を含むこの東関東地域は大都市江戸の食糧を供給してきたといえる。土浦から牛久、取手、柏を経由し、大量の米俵が隅田川を降ってきた事だろう。米と魚貝類を扱う商人たちが往還し、中継の宿場町がにぎわい、芸人・僧・巫女・小商人たちが押し掛けた。そして彼等が江戸の文化を伝えたに違いない。ファッションや流行歌、はやりの神仏、下町小話、うわさ話など何でも歓迎されたであろう。その事情は八王子市が中継の宿場町として発展したのと同じである。「八王子の昔話」で紹介した「もんじゃの吉」というシリーズものの笑い話は恐らく江戸下町で語られた話が八王子に伝わったのだ。本所や番町の七不思議譚もこうして牛久市に伝播していったと考えておかしくはない。
 一つ異なるのは七不思議1・2・3番に登場する妖怪が本所では正体不明(もしくは伏せられた)であったのに比べ、牛久では「河童である」と明言されていることだ。本所にも河童説はあるのだが、地元商業振興(カッパ市)のため宣伝された面もあり、といって狸と決めつけるには堀とあわないからあいまいなのである。この疑問の答えはやはり前田氏のHPのなかにある。明治〜大正にかけて活躍した小川芋銭の存在がそれである。再び前田氏のHPから、芋銭は「慶応四年、江戸赤坂の牛久藩大目付小川伝右衛門賢勝の長男として生まれた。幼名は不動太郎」、長じて「スケッチ漫画を新聞に発表。俳雑「ホトトギス」などに挿絵や表紙を描くことによって有名になった」「河童の絵は特に有名で著書に「河童百図」などがある」「昭和13年永眠、享年七十歳、牛久城中の得月院に眠る」とある。大野圭は著書「河童の研究」の中で「それまで本草学者の研究材料であったり、妖怪味をもった画題にすぎなかった河童を、芋銭は、生きものとして山河に還し、自由気ままに水中で泳がせ、自然の一部として振舞わせた」と評価する。江戸時代以来、河童は鳥山石燕、葛飾北斎、川鍋暁斎らに描かれてきたが、博物的対象から徐々に戯画化し、人間化してきた。芋銭はそれを本来の自然に帰したのだという。しかしこの頃、すでに河童は大衆の人気者−アイドルに変身していたと言っていいだろう。
 江戸の七不思議が伝えられた時正体不明だった妖怪が、実は河童であったと、牛久の人々が考えたのはむしろ自然な成り行きなのだろうと、私は推測する。

4.本題に戻ろう。ここで本題とするのは、本所や番町に七不思議譚が生まれた由縁である。結論から言って、私はこれら七不思議譚を日本における都市伝説のはしりであろうと考えている。
 先日亡くなられた宮田登氏は論文「都市伝説に潜むもの」の中で、1959年アメリカのR.ドルソンがモダンフォークロアとして大都市の民俗現象を取り上げる必要性を説いたとし、ドルソンの事例は「日本の伝統的な城下町が内包しているフォークロアとよく似ている」と指摘した。氏は「江戸の都市伝説は、18世紀後半より大量に語られ、記録化された。そこには人間の文明化に不可欠の都市化を伴う地域開発の軌跡があり、都市民の心意の自己表現を見ることができる」と主張する。
 1950年代、車社会として急速に発展したアメリカの都市内部から生まれた伝説には、ハイウエイで乗せた女の幽霊とか落下したエレベーターなど有名な(日本でもまったく同じ話がまことしやかに語られた)話がある。軍隊という特殊な集団にもそれは存在する。かつての農村社会という地縁血縁共同体とは異なり、都市社会には職業、職場、軍隊、学校、宗教団体、クラブ等、独自の文化集団が存在し、そこに都市のフォークロアが伴う、と宮田登は説いている。
 1600年、関ケ原の戦いに勝利し、江戸は事実上日本の政治・文化の中心地として踏み出す。徳川氏が全国の大名屋敷を江戸に集中させた結果、侍だけではなく種々の人々の流入で人口が膨れ上がり、江戸市街の果てしないスプロール化(無秩序な開発発展)が始まる。その第一が恐らく麹町の番町である。
 日本にはもともと地神地霊の信仰があり、神仏のほかに、いわくつきの橋、道、石木、祠などがむかしから数知れず存在する。そこへ新たな移住者が彼等の神仏、信仰習慣を持って入り込んでくるのである。そして誰かが死ねば、あるいは奇妙なことが起これば、旧住民から霊による「祟り」であるとされるのだ。「おいてけ堀」はもしかするとむやみに魚を捕ってはいけない聖地だったかもしれない。無知な侍・町人がこのタブーを犯すとやがて祟りが起こるのである。屋敷ががたがたと揺れれば、以前住んでいた狸狐の仕業とされるのである。
 ひとたび都市が成立すると、そこに住む都市民は「外の存在」である田舎や山を異界として意識する。都市と田舎が接する周辺部は異界との接点である。町に借家する人々がマイホームを求めて周辺部に家を新築する際、必ず地鎮祭を施行する。橋や道路を造る時も同じだ。まして多摩ニュータウンのごとき大規模な山地を開発すれば、先住民たる狸たちが祟りをなすのは当然のことであり、アニメ「平成狸合戦ぽんぽこ」はすぐれて民俗学的な事情を反映していると納得できる。さらに都市が成熟し、異界としての田舎との接点があいまいになってくると(田舎も都市化してしまった)、都市民は自らの内部に「異界」を造りだそうとする。高い塀に囲まれた工場、夜の学校(トイレ)、デパートの試着室、事故の多い高速道路、取り残された古い墓地など都市伝説を生み出す舞台はいくらでも見つかるのである。

<参考図書>
両国・錦糸町むかし話 岡崎柾男  下町タイムス社 1983年
江戸の小さな神々   宮田 登  青土社     1997年
都市伝説に潜むもの  宮田 登  東京都研修所  1997年
河童の研究      大野 桂  三一書房    1994年
http://www3.justnet.ne.jp/~ushikunuma/   前田享史氏ホームページ


表紙へ

目次に

異界二

異界三

此岸

あかずの間