これは短編小説です。舞台の設定、登場人物は架空の者です。
行動の形成


平成22年3月某日、「こんな金でやっとられるかえ、わしに感謝せい、感謝が足らん、感謝や、感謝」
理事長のS氏は震えながら怒鳴り散らした。

S氏は血色の良い初老の無職である。世間ではこれよりずっと年かさの人が第一線で働いているのに比べて少し奇異であったが、
数年前このマンションに住み始めてから間もなく、管理組合の理事長に就任し、その仕事に意欲をむき出しにしている。
ここでは理事長の事を会長と呼んでおり、S氏も会長と呼ばれるのが好きだった。
初めのうちは適当に過ごしていれば役員報酬も小遣いになるし、どうせぶらぶらしているのだから損にはならないと思っていたのだが、
ここの住人の中には何でもかんでも好き勝手な注文を押し付けて来る者も居る。

そういう身勝手な住人の世話をしているうち、自分も過剰サービスの面白さを感じる様になって来た。
個人ではとても負担できない工事費も、管理費から支出するのだから何百万円もの工事がいとも簡単に出来る。
工事をすればする程、業者から多少の潤いも得られるし、周りからは感謝されている様に感じられ、自身も小さな国王にでもなった
気分が味わえる。
S氏はこの仕事に生きがいを感じる様になって来た。

近頃、通路で出会う住人から「会長さん、会長さん」と呼ばれていい気分である。
もし一戸建てに住んだら、とても維持費に耐えられないのに、中古車並みのこのマンションなら、思う存分改良費をかけても
自分の腹は痛まないどころか小遣いまで入ってくるのであるから全く愉快である。
S氏は道を歩いていても、近所のスナックに行っても「わしは管理組合の会長や」と宣伝する事を常とした。

しかし、近頃自尊心が疼く事が有る。このマンションの住人に、S氏の言う事を聞かない者が出てきたのである。

そいつは近所迷惑な行動をやめないし忠告も聞かない。他の住人から「何とかしてくれ」とS氏に苦情が持ち込まれる。
実は、問題の輩は部屋の所有者から借りて入居した奴なのである。

中古車並みとは言えS氏は持ち家の身分である。借家人に振り回されるとは言語道断である。しかも家主は家賃で儲けている筈である。
家主の儲けの為にどうして自分が労力を費やせねばならないのか。これはS氏に対する許しがたい侮辱である。
わしが一国一城の主として悦に入っているのに、家主は菓子でも買うようにマンションを買い、家賃でぼろ儲けしながら自宅は何千万円
もする豪邸に住んで、貸家のごたごたは人ごとみたいに思っている。くやしーい。
S氏はほぞを噛んだ。

一時は、こんな役員の仕事なんか投げ出してやろうか、とも思ったが、会う人毎に「わしは管理組合の会長や」と宣伝してきた自身が
消えてゆく様に思われる。
ここで踏ん張れば晴れ間も見えよう。

S氏は晩酌のビールを飲みながら考えた。妻も自分の夫が会長だという事で世間に優越を感じている。他に心の支えは無かった。
二人は策を練った。
策と言っても所詮金の事に尽きる。

何とかして役員報酬を引き上げる手はないものか。管理費を引き上げるとなると大ごとで有る。普段から細々要求してくる住人に
限って出すものは出さない。管理費の引き上げ等言い出したら一転悪者に転げ落ちる破目になる。それとなく住人らに値上げの話を
匂わせた結果はやはり想像していた通りであった。

しかし、試しに動いてみただけの収穫は有った。住人の中に、家主に対して強烈なねたみを持つものが居たのだ。
S氏とその住人は家主連中への恨みつらみならぬ、ねたみつらみをぶちまけ合った。
そんな同志の声を聞いてS氏は勇気凛凛、昨日までの雪雲がパッと晴れて初夏の力強い日差しに包まれた気分になった。




S氏の田植え


S氏は早速、明くる日から行動に移った。
目標が立つと元気百倍ルンルン気分で足取り軽く、丸でキント雲に乗った様である。
これまでもS氏は「会長の仕事は大変だ、大変だ」と吹聴を怠らなかったが、今日からは大変な原因は家主と借家人が作っていると
みんなの頭に刷り込まなければならない。以前印刷屋に務めた経験から、刷り込みは慣れている。

しかしネタが無ければ作業が出来ない。無い時は無いものである。早く欲しいと焦れば焦るほど見つからない。
こうなったらどんなネタでも良かった。
とうとう、廊下に落ちている僅かなゴミでも水滴でも見つけては、何度も他の役員らを呼びつけて、その発見を手柄として強調する
ようになった。
こんな事でしょっちゅう駆り立てられたら住人らもうんざりであるが、S氏に共感の態度を見せておけば、ひとまず安心の
生活が送れる。

そんな頃S氏は小躍りせずにはいられない新聞記事を見つけ出した。
「最高裁環境協力金2500円を認める」
ヤッター、こーれで決まりだ、
S氏は新聞に頬ずりした。この日、晩酌のビールは高級ブランデーの味がした。
その夜S氏は新聞記事を切り抜いて枕元に置き供えたが、高い枕がS氏の猪首を心地よく伸ばしてくれたので、久しぶりにぐーっすりと
寝息をかいた。さぞ甘い夢を見た事であろう。

さてあくる日、伝家の宝刀新聞の切り抜きを懐刀に、十分に種を撒いたと思ったS氏は腹心の住人らに切り出した。
「我々で環境委員会を作り上げて費用を家主共に負担させよう」

S氏の晴れがましい表情に対して、話し相手の住人らの表情は曇って見えたのが意外であった。
またもやS氏のから騒ぎに巻き込まれるのがうんざりという様子である。
S氏は鼻白んだが、何の障害も感じなかった。それ程意気高揚していたのだ。
S氏の構想の詳細は誰にも打ち明けていなかったのだから無理もない事に気付いたのだ。

今日のS氏はいつもと違ってそれなりに頭の血のめぐりが良かったので、すぐに付け加えた。
「Tさん、Nさん、Uさんと、他にも役員になって貰う。なに、何もせんでもかまへんのや、
ちゃんと報酬は払うで。わしに任しといて」

この言葉を聞いて相手の住人たちは瞬時に顔色を取り戻した。打てば響く、アウンの呼吸というものである。

かれらの中には金などあてにしていない人も居たが、兎に角、何もしないで良いのならと目顔で頷いた。




いよいよ奇襲、
    トラトラトラ か、


かくて待ちに待った総会の日がやってきた。
腹心の部下たちは絶対S氏に服従すると、S氏は確信していた。
委任状もS氏を代理人にする形式にして送りつけてあったし、怪しい者にはS氏に委任するよう電話できつく言ってある。
S氏以外に委任した者には電話でこっぴどく抗議したが、それでも欠席者の全員がS氏に委任した訳では無い。
おまけにいつもS氏に郵送されてくるはずの数通の委任状が届いていないのはS氏に楯突く誰かに委任している疑いがある。

それでもS氏はさほど心配していなかった。
日ごろ「大変だ大変だ」と吹聴し、広報誌にも大変の原因は家主だけにあるような記事を載せて来たから種は十分撒くだけ撒いたし、
十分水も肥料もやってきた。
新聞記事を懐刀に、平然としておれば難なく賛成票は取れるであろう。だいいち、出席者のほとんどは
気心の知れた居住組だし、彼らにも分け前を与えると言ってあるのだから、自分の損になる事を言うはずもなし。

S氏は総会の案内状には虎の子の、この議題を表記しなかった。
念には念を入れ、である。
知らぬ間に総会で決まって、こう決まったから金を払えと議事録に記載して撒けば、自動的に金は入ってくる。
一旦やってしまえば誰も文句は言わないだろう。

誰が払って誰が払わないか、誰がどれだけ儲けたかは伏せておけば良い。
そうすれば、請求された者は払うのが当然だと思うだろう。みんなそうしていると思うだろう。
会計報告書など細かく詮索する者等居ないだろうし、もし居たところで非居住者同志横の繋がりは無いに決まってる。
今までも金の事で責められた事は無いのだ。何を恐れる事があろうか。万が万一廃案になっても、損ではない。取り損ねるだけである。
もし没になったら、適当に他の役職をこじつけて若干の小遣いは取れるし、来年出直せば良い。

とは言うものの、頭の中では既に金は動いているから、没になる事は自分の財産を没収させるに等しい。
結局内心不安は有ったのである。
どんな横槍が入るか分かったものでは無い。自分では用意周到に育てて来たのに、あと一歩のところで実を台風に吹き飛ばされたく
無かった。

無職のS氏の胸算用ではかなりな金額である。それが全く不労所得である。S氏の未来予想では自分が死ぬまで会長を続けるという
絵を描いていた。
27件から月額2500円取れば年間81万円、20年会長を務めれば1620万円である。
妻にも贅沢させてやれる。カラオケにも好きなだけ行けるし、来年は海外旅行に行こう。夢は膨らむ一方で有る。




総員突撃せよ



と言う訳でいよいよ猪首を長くして待った管理組合総会が開かれたのである。
まず、会計報告も無難にすまして、S氏はここ大一番に乗り出した。

例の大変大変の掛け声で自ら鼓舞し、S氏は家主連中がいかに悪者かを滔々と並べたて、懐刀の切り抜き記事を高々と掲げて、
「最高裁で、不在所有者から1軒当たり月額2500円をとっても構わんという判決が出たんや」
と、落ち着きはらった態度に務めながら、有無を言わさない発言をした。

出席者の中には、感服して頷く者も有ったが、どうもこれは少々まずかった。

不在所有者の反感を買ったのである。
しかも、出席した不在所有者の中には既にこの判決内容に関する専門家の解説を読み、内容を客観的に解析した者もいたのである。
S氏にしてみれば、自分よりこの問題に知識の有る者など居るとは全く考えていなかった。
この切り抜きを突き付ければ、いとも簡単に自分の構想が成り立つと早合点し、水戸黄門の最後の場面を自画像に嵌めこんでいた。




意外な伏兵


会場から即座に異議が出た。
記事と本件は全く違った環境だから、当て嵌まらない、との指摘である。
しかもそれ以前に、議題から隠して、有耶無耶のうちに電光石火で決める事はご法度である。

予期せぬ反論に、といっても普通なら混乱を予想するのが常識であるし、こんなやり方はしないものであるが、
S氏は出鼻をくじかれた。
しかしS氏はまだこの段階では大揉めになるとは感じていなかった。

論理的で当たり前の反論と、非常識だが信念だけ固いS氏との攻防は平行線ならぬネジレ線での応酬となった。


S氏は議長の立場もわきまえず、といっても元々資質が足りないので仕方ないが、悪口発言に終始し、反対意見にののしる事しきり。
ついに冒頭の、「こんな金でやっとられるかえ、わしに感謝せい、感謝が足らん、感謝や、感謝」
と怒鳴り散らす事になった次第である。


「こんな金でやっとられるかえ、あいつらは金持ちや、金持ちは金にきたないんや、あいつらは金が惜しいんや」
と言いだした。

だが、S氏はこんなチグハグな事も同時に言いだしたのである。
「住みよい環境作りに、住んどる人の協力が居るんや」とか、
「管理費が足らんのや」
とまで言い出したのだ。

管理費が足らないのなら自分の取り分を減らせば良いのであるし、新たに住人を担ぎ出して、これに費用を費やす事をほのめかす
この発言がチグハグである事にS氏は気付かず、蛸の様な頭に血が上りっ放しのまま、思うに任せて口を突いて出たのである。

またS氏は同調しない出席者達に、こうも叫んだ。
「こんな事なら総会に出てくれん方が良かったんや、殴ってやりたい」
この時点からS氏の心境は、悲痛さを感じ出したと言えよう。

「こんな金でやっとられるかえ、わしに感謝せい、感謝が足らん、感謝や、感謝」
S氏は自分の理事長続投が動かぬ前提として、余分に金をくれなければ今後理事長職は務めない、というわけである。
管理組合の理事長ほか役員は通常1年乃至2年で交代する輪番制であるが、進んで役員になろうとする者は滅多に居ないのが
世間一般である。

ここの組合も同様で、S氏以外進んで引き受ける者はいない。文句は言っても、いや文句が多い者ほど組合に協力等しない。
S氏はお山の大将で、とても付き合いきれない性格の持ち主なので友人は皆無である。
しかし当人はこれを心得ていて、人に嫌われる事に全く鈍感なのである。
その反面、S氏に感謝しろとか、S氏の手柄を宣伝してくれないのはどういう事だ、等としきりにあちこちで不満を撒き散らすのは
どういう頭の作りだろうと首をかしげたくなる。

住人らにとって、こんなS氏でも役員続投してくれるのはあり難い。万一S氏が役員を降りると自分達の中から役員を出さねばならず、
居住組にとって役員に当たる確率が非常に大きいのである。総会に出席している居住組の数は僅かであるし、非居住組の出席者はもっと
少ない。

欠席者を役員に選出した場合、嫌々でも引き受ける顔色が確認出来ないので、役を放置される可能性が高い。
S氏が役員を進んで引き受ける事は居住組の誰しも見抜いている。
兎に角S氏に理事長を押し付けておれば、楽である。表向きS氏に迎合しておけば火の粉が掛かる事はない。
居住組にしてみれば、S氏に要求通りの金を与えて役員を続投させるのが一番楽な毎日が送れる方法だし、S氏も満足するという事を
知っている。しかもその金は自分達以外から徴収し、その一部が戴けるというのは何とも有り難い事ではないか。
こういう居住組の心理を作ったS氏は非居住組の心理も読んでいた。

つまり、ここに住んでいないお前らは役員等引き受ける筈が無いのだ、わしが降りたら困るだろう。どうせわしを理事長にせざるを
得ないのだから、余分に金を出せ、と言いはれば目論見通りになるだろう。
という読みであった。

S氏は毎年の総会で「わしはもう会長を辞める。二度とせん。会長何か絶対にせん。」
と繰り返して来たが、今日の総会でもやはり同じ題目を唱えていた。
「わしはもう絶対に会長何かせん」
断固とした態度でこう言うのであるが、
「こんな金でやっとられるかえ、わしに感謝せい、感謝が足らん、感謝や、感謝」
の発言が一番多く繰り返され、S氏の一番お気に入りの御題目だと分かる次第である。



援軍ばあちゃん部隊


「こんな金でやっとられるかえ、わしに感謝せい、感謝が足らん、感謝や、感謝」
またもやS氏が総会を盛り上げる。
すると、居住組の何人かから「Sさん辞めんといて、どうぞお願いします。会長さんを続けて下さい」
と合いの手が入る。

S氏は「いや、絶対にわしはもうせん」
と言って眼だけがずるく周囲の様子を窺う。
こんな猿芝居を何度も繰り返した。

S氏はここ数年理事長を続投しているのだから、どうしても役員を引き受けたくないのなら本当に辞めれば済む事である。
どうやら周囲の出席者からS氏続投を懇願されてS氏自身板挟みになって困惑している。
というところを、これ見よがしに演出している様である。但しS氏一人悦にいっているかも知れないが。

それにしても、「Sさん辞めんといて、どうぞお願いします。会長さんを続けて下さい」
の合いの手まで打ち合わせしたのかどうかは分からないが、そこは気心の知れた腹心同志、即興でもS氏の意図を汲み取れる。
汲み取って間髪入れず役割を果たさなければ自分達に火の粉が落ちて来る。

文句だけは言いたい放題しているが、出すものはびた一文出したくないのが言わずと知れた彼ら共通の常識心理である。
ここはS氏に恩を売った様に振舞って、他の奴らから巻き上げた金をS氏の戦利としてやろう。そうすれば自分達にもお裾わけが
回ってくる。

そんなものだから、腹心達も俄然力瘤が出る訳であるが、とばっちりを食って、たん瘤にならなければ良いがと心配してやるのは
普通の世間の人々で有って、世間を狭めても意に介す神経など持ち合わせているとは思えない連中なのである。

S氏一族の様子を観察していた非居住組からすれば、S氏の「わしはもう絶対に会長何かせん」との態度も、使途不明な金の負担を
非居住組にだけ押し付けようとの悲願むきだしの態度と抱き合わせのS氏の姿勢では、茶番劇見え見えである。

言葉通り、すんなり理事長を降りれば、無理な金のオネダリで長時間総会を引っ張り回す必要など無いのに、尚金だけに執着して
離れないのは、S氏が理事長続投を前提にしている証拠である。

延々続きそうな総会から既に2人退席してしまった。これ以上粘っても賛成票は固められないのに、尚S氏は粘っている。



心強い援軍


総会が長時間に亘っているにも関わらず、S氏側近の居住組ばあさん連中は、どうした訳か中座しないでS氏の傍に張り付いている。
これよりずっと若い出席者が辛抱堪らず何人か退席しているのに比べ、誠に奇妙である。

そんな側近組の一人から、非居住組に対して非難発言が出た。
「あんたらはSさんに感謝が足らない。もっと感謝せなあかんわ、感謝しなさい、感謝」

他の側近組がこれに参加する。
「ほんまや、あんたら、いっこも感謝してえへんやないの、感謝しなさい、感謝、感謝」

感謝感謝の合いの手に生気を取り戻したS氏も、ばあさん連中と一緒になって自ら感謝感謝を連発する。
自分で拍手する朝鮮中国式のアレである。

側近組の「あんたら、会長さんに、いっこも感謝してえへんやないの、感謝しなさい、感謝、感謝」
を一般語に翻訳すると、
「S会長が金を要求しているのだから、あなた方は言われた通りに出しなさい。私らは出すはず無いのだから、あなた方だけで
全額負担しなさい。金だ、金、金、出すと言え」

非居住組から出捐の言質を取って早く総会を終わりたい、との悲壮感が染み出ている。
側近組はS氏の要求を実現しなければ帰るに帰られない。
S氏からどんな逆恨みを買うか分かったものでは無い、と言うことか。




S氏危うし


しかし非居住組の一人がS氏の意表を突く意地の悪い発言をしたことから雲行きが怪しくなった。
非居住組のMからこんな意見が出て来たのだ。
「役員が居住組でないといけない理由は無い、手伝える範囲で出来るのだから、会計や副理事長なら多少遠方の者でも出来る筈だ。
なんなら私がどちらか引き受けようか。過去にも非居住者が役員をしていたではないか」

S氏は言葉を失った。まさかこいつが役員を引き受ける等と言い出すとは、全く予期していなかった。
Sの頭にはこいつらの1軒づつから月々2500円のみかじめ料を巻き上げる事しか無かったのだ。
S氏は頭の中が真っ白であった。このままでは夢が水泡に帰する。
S氏は慌てて考えた。予想外の展開に頭が着いて行けない。
しかし本当にS氏以外の者が理事を引き受ける等有り得ようか。

苦し紛れにSは叫んだ。軽薄な応戦であった。
「あんたには理事長になって貰う。会計も副理事長も許さん」
Sは勝負に出たのである。理事長を引き受ける筈は無いと睨んだのであるが甘かった。

Mの意地悪な反論に又もや頭を打たれた。
Mは理事長職を引き受けるのは所有者の義務だと思っている。誰でも務まる仕事である。
S氏は日頃より「大変大変」を吹聴して自分の値打ちを上げる事に熱心であったが住人の多くはS氏の前ではそれを認めてやっていた。
知らぬはS氏ばかりなり、である。

MはS理事長に大半の住人が満足しているのならSに花を持たせて置こうと思っていたが、ここまで猿芝居を見せつけられては
うんざりである。
「Sよ、あんたが勝手に決めるんじゃない。みんなの意見で決めるもんだ」

これに対してSは駄々っ子になって尚も抵抗した。M以外には理事長職は譲れないと駄々をこねたのである。

Sに駄々っ子発言を十分させてからMは追い打ちをかけた。
「皆さんが私を押すなら理事長も引き受けましょう。当然の義務ですから」
これにはSは泡を食った。
とんでもない爆弾を落とされたものだ。絶対に予期不能な攻撃である。
わしの年金が、カラオケが、海外旅行が、、、、、、
真っ白な脳味噌の中で夢が崩れてゆく。



S氏捨て身の特攻


泡を食ったS氏の口からとんでもない言葉が飛び出した。
「あんたが理事長になったら、夜中に電話で呼び出してやる。24時間警備しろ。朝から晩まで巡回しろ」

そしてSは自分の左右に座っている居住組に囁いた、興奮して声が時折上ずっていた。
「あんなやつに理事長なんか務まるかえ、絶対やれるわけ無い」
Sはなりふり構っていなかった。兎に角必死であった。冷静を装ってもおられなかった。

Sの心中察して腹心のばあさんがMに言った。Sへの援軍である。
「本業辞めて専属で24時間監視に回りなさい。それがあたりまえや」

ってな訳で、その後も延々低級な場が流れ、さらに一人二人と数人退席し、全く何も決まらないまま巻きずしを配って、
崩れる様に解散となったのである。

尚この間、Sは2500円の金額を諦め、1軒月額1000円のみかじめ料で我慢する発言に変更したが、徴収の対象者を誰にするか
は厳密には決めていなかった。しかし今日の総会でSに楯突いた奴らはきっちり標的に据える事にした。




S氏の巻き返し作戦


総会がそんな状態でお開きになったので、目当ての報奨金は入って来ない。
浅墓な頭では絶対の確信であったのが、無残にも壊滅した。夜遅くまでかかって、クタクタである。
自分が理事長を引き受けない事にすれば簡単な事であったが、それはとんでもない事である。何の為にこんなに夜遅くまで
粘ったのか、この準備にどれだけ知恵を絞り、せっせと種蒔きをしたのか。
Sは悔しさの動悸から覚める事は無かった。

早速その夜遅くから有志と密談を開始し巻き返しを謀った。
Sが知恵者と頼むN氏を駆り立て、今日の総会でS氏の構想が決議されたとの議事録を全員に配付するのだ。
そして、念の為と言って、S氏の構想に賛成又はS氏に一任するとする委任状を同時に全員に送りつけ、
集金を確実にものにするのだ。

思い通りの委任状を回収する為に、配付する文章や形式に工夫しなければならない。
全てS氏に一任するか賛成するかという結果を創出するように作成しなければならない。
それでもうるさい奴はどんな返答を書いてくるか分からないので、この月末までに返事が返って来なければ
賛成とみなす、との一文を入れて、絶対期日に間に合わない様に送りつけてやろう。
文句が出たら出た時の事だ。心配する事は無い。

こんな工作に加担させる為、S氏は当初考えていたより余分の金額を側近らに分配する約束をせねばならなかった。




S氏完全制覇を期して


そんなこんなで兎に角S氏は大勢の組合員から集金に成功し、その大半を懐にする事に成功したのであった。
しかしこの裏の苦労は色々有った。

まず1軒当たり月額2500円と皮算用していたのが1000円に大幅値下げになった。
次に誰を標的にするかで仲間内で少し揉めて、結局22件の抽出にとどまった。
更に協力者への分配が無念にも増えてしまった。
その結果S氏自身の取り分が減ってしまった。
S氏は大いに不満であったがこれ以上の欲を出すと元も子も無くなる。
実際、一時はどうなる事かと生きた心地がしなかったのである。
ここはひとまず集金した大半を手中に収めたのだから良しとしよう。

S氏は自分を納得させたが、それも束の間、まだ払いこんで来ない奴が居る事に敵意を燃やし始めた。
奴らがSに刃向った為に俸禄が3分の1に減ったのだ。その当人らが1円も払い込んで来ない。
これを放置すれば総崩れになる危険かある。総会でも危なかったではないか。
Sは初めて厄介な相手にぶつかった。

Sはこの仇敵らに対し、脅したり、泣きついたりして見たが手に負えなかった。
この手で一人一人切り崩して来たが、あと2人となったところで進撃がぴたりと止まってしまった。

Sは仇敵らの名前を書いた広報誌を発行し、心理作戦を展開したが、仇敵に嫌がらせは通じなかった。



S氏の遺産


この嫌がらせの広報誌が後に裁判で問題となり、名誉棄損の慰謝料請求となるのだが、
Sは不法行為で利益を上げながら、賠償は管理組合に付け回したということだから、
管理組合は大いに迷惑を被る事になる。

勿論S氏にしてみれば、裁判など起こす奴が悪人で、Sに従っていれば慰謝料問題など起こらない、と考えるのである。

かくして、仇敵からの訴状が届き、S氏は途中で裁判を投げ出し遁走したのである。



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