桜の鶴ヶ城・喜多方の蔵

◆ 鶴ヶ城の歴史 ◆
 
 鶴ヶ城は至徳元年(1384年)葦名直盛が造った『東黒川館』が始まりと言われており、その後、会津領主だった葦名盛氏が改築し現在の城郭の原型を築きました。(当時の名前は『黒川城』)
 その後文禄二年には蒲生氏郷が本格的な天守閣を築城し、名前も『鶴ヶ城』と改められました。この時に積まれた石垣が四百年以上経た今でも朽ちることなく往時の姿を忍ばせています。
 慶長十六年(
1611年)に会津地方を大地震が襲い、石垣や天守閣は大きく傾きました。その天守閣を改修し、西出丸・北出丸といった出丸を築き、ほぼ現在の姿の鶴ヶ城ができたのです。

◆ 戊辰戦争から明治維新、そして昭和へ ◆
  慶応四年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発、やがて戦火は会津へと移りました。ここで白虎隊の悲劇が生まれます。城下では激しい攻防戦が続けられましたが、鶴ヶ城がその戦火で消えることはありませんでした。約一ヶ月に及ぶ籠城戦を耐え抜いた鶴ヶ城は、奥州一の名城としてその名を天下に知らしめました。しかし、その天下の名城も明治政府軍陸軍省の命により、明治七年に取り壊されてしまいました。
 その後、城跡は旧会津藩士・遠藤敬止らの尽力により陸軍省から払い下げられ、昭和九年に国から史跡として指定を受けました。そして市民らの強い要望もあって、昭和四十年、昔の姿そのままに復元されたのでした。復元にあたっては、当時の構図や資料をもとに造られたのでより本格的なものとなっています。材料や技術も昔ながらの伝統を受け継いでいます。比較的新しい時代にまで城が残っていたということもあるので、記憶や写真をたよりに造ったとしても、十二分に本格的な城と
なったと思います。

会津鶴ヶ城 遥かなる時を越えて輝く歴史 −ホームページよりー

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