参考文献

「テレクラ(テレコミ)」について考える際、参考になりそうな文献のリスト。


ジャンルを2系統に分けることにしました。「宮台系」と「宮台系以外」です。いろいろ考えたのですが、やはりテレクラについての文献というと、宮台真司氏の著作が中心になってしまうのです。
「こんな本もあるよ!」という方がいらっしゃいましたら、ぜひご紹介いただきたいと思います。

宮台系

宮台真司『制服少女たちの選択』(講談社、1994年)

やはりこの人を抜きにしては「現代若者文化」は語れない、宮台真司氏。氏の「ブルセラ論戦」以降の活躍ぶりについては、今さら説明の要もないだろう。
この論集のまえがきは、94年8月に公表された「女子中学生のテレクラ利用実態」から始まっており、各章にもテレクラについての言及は多い。ただ、ここで彼が論じたいのは基本的に「ブルセラ女子高生」についてであるから、「売春目的でない」テレクラの利用についてはほとんど触れられていない。それでも「都市的現実の一つとしての『電話風俗』」「都市的コミュニケーション」「関係の偶発性」など、テレクラについて考えるときに大変に参考になるキーワードが数多く提出されている。
学者と名乗る人は、本当に「うまいことを言う」ものだ。つくづく感心させられる。(私が氏の意見に全面的に賛成するという意味ではない。)

宮台真司『まぼろしの郊外 成熟社会を生きる若者たちの行方(朝日新聞社、1997年)

同じく宮台氏の論集。第一部は「テレクラ少女たちの行方」と題されているが、特に「青森のテレクラ少女たち」「テレクラの民俗誌」「東京都淫行条例とテレクラ規制への疑問」の3本は、テレクラを主要な論考対象としており、興味深く読んだ。ここでの彼の記述は「テレクラにおける少女たちの援助交際」の問題に絞られているので、私の興味とはやや異なるのであるが、「テレクラの民俗誌」でのテレクラの歴史についての考察は、特に面白い。
また、「社会学的フィールドワークの目的」では、(私の専門?である)文化人類学的フィールドワークと、社会学的なそれとの違いを述べている。これを読んで、私は自分が漠然と考えていたことをピタリと言い当てられたような気がした。

宮台真司『世紀末の作法−終ワリナキ日常ヲ生キル知恵−』(メディアファクトリー、1997年)

また宮台真司になってしまうが、やむを得ない。こういったことについて発言を続けている学者は彼をおいて他にいないのだから。
この本は、新聞・雑誌などに掲載された短い論評を集めたものである。「宮台思想」の入門編ともいえるだろう。テレクラについても短いが当を得た分析がさまざまな形で述べられている。私が個人的に特に面白いと思ったのは、桜井亜美「イノセントワールド」の解説。宮台氏のテレクラでのフィールドワークの風景が見えてくる。
上にあげた2冊にくらべ、まとまった形である一つのことを論評するという形ではないこともあって、テレクラについても「援交少女」という切り口以外の、「テレクラの地域差」とか、「テレクラ規制の無意味さ」など、断片的ではあるけれども非常に興味深い記述が散りばめられている。
テレクラとは少し離れるが、「Views」で行った東大生アンケートについての記事は、掲載当時も興味深く読んだものだが、今見ても、うーむ、である。

宮台真司『これが答えだ!』(飛鳥新社、1998年)

「ミヤダイ初心者向け」と銘打たれ、一問一答形式で宮台氏が数々の疑問に答える。一見軽いノリだが、実は大変中身が濃く、一つ一つに感想を述べていったら大変なことになりそうだ。だからここではテレクラについて触れられている部分に限定して紹介する。
テレクラについて特に触れられている質問としては、「どのようにしてテレクラに出会ったのか?」「なぜテレクラにハマったのか?」の2問がある。「200人切りのテレクラ社会学者」の称号は私もよく知っていたが、氏とテレクラの関係の個人的な部分を纏まった形で読むことができたのは初めてだ。「肩書きのない弱い自分と出会いたい」「愛の可能性を信じる自分を消したい」といった動機は、おそらく多くの「テレコマー」にとって、共通するものではないかと思う。
読み終えて、自分自身のことを考えた。似ているところもあれば、大きく違うところもある。それらについては、別の場所で考えを述べてみたい。(いつになるかは未定。)


宮台系以外

現代ネットワーク研究会編『テレクラな日常』(海鳥社、1998年)

いわゆる「テレクラ規制条例」をきっかけとして、福岡在住の5人の若いフリーライターが「出逢いを求める男女が電話を通じて知り合う場」としてのテレクラの実状を取材したもの。特に女性ライター平松明子氏による「彼女たちのテレクラ」は面白い。
結論が「日常の中の非日常」「匿名性」「社会からの疎外感」といった「ありがち」なものになってしまっているのは少々残念だが、主要メディアの論調が「テレクラ=少女売春」というものに偏りがちなことに対し、そうではないテレクラの実状を描こうとしていることは評価できる。

いのうえせつこ『買春する男たち』(新評論、1996年)

なぜ女の「売春」がいろいろ論じられるのに、男の「買春」は論じられないのか。という疑問から女性フリーライターが書いた本。(最近は「カイシュン」というコトバも定着しつつあるようだが。)一章を割いて「テレクラ売春」について述べている。
「テレクラ→売春(男の側からみた「買春」)→悪」という立場で書かれており、「彼女たちを「テレクラ売春」にまで追いやったのは、誰かと、私は問いたい」といった筆調にはいささかゲンナリするが、筆者が実際にテレクラへ電話して取材したり、「テレクラ考案者」にインタビューしたりといった細部はまあ面白い。また、朝日新聞の「声」欄に載った「テレクラには心の中話せる」という女子大生の投稿の紹介は拾い物だった。

杉山隆男「ぼくがテレクラで出会った「ゆきずりの女たち」」(小学館『SAPIO』1998年10月14日号)

「SEX『不適切な関係』の時代」と題された特集の一つ。筆者は「メディアの興亡」「兵士に聞け」などの著作がある有名なノンフィクション作家。「世紀末の大都会に漂う時代の気分や匂いの一断片でも掬いとれないだろうかという思い」で、単なる取材ではなく「向こう岸に渡って当事者になる」つもりで渋谷のテレクラに通っているということである。
その意欲はいいと思うし、作家としての力量からしていずれ大作の「テレクラ論」をものしてくれるものと思うが、記事を読んで、どうもこの人は、テレクラでの出逢いが必ず金銭の授受に結びついていると考えているのではないか、という懸念を持った。描かれた女性がいずれも「円女」だからだ。(しかもこの人は実際に「共犯者となって」彼女たちにお金を払っているようだ。)
少し上級テレコマーさんたちのサイトを見て回るだけでも、それだけがテレコミではないということが分かるし、そういった側面も知った方が面白いものが書けると思うのだが…。

今一生『家を捨てよ、街へ出よう/Life is comin' back.』(メディアワークス、1998年)

著者の今一生氏は「AC(アダルト・チルドレン)」の問題などに取り組んでいるライター。この本は著者が出会った7人の若者をめぐるハードなドキュメントだ。ハードすぎて、微温的なテレコミ生活を送っている私には、怖さを感じる部分も多い。それにしても、この本に限らないことなのだが、援助交際のことを語る少女の口から出る「相手の男」というのは、なぜこうも画一的なのだろう(第1章)。
「テレクラ・伝言」ということに絞れば、第5章の「セックス依存症」の女性の話が面白い。33歳で独身で、たぶんテレコミ用語的な言い方をすれば「テレ牛」ということになるのだろう。そんな彼女がどうやって伝言ダイヤルにハマって行ったのかが、彼女の親との関係などとも絡めて語られる。ここで語られている内容は、この女性一人の個人的な事情ではあるが、たぶんテレコミにハマっている女性たちにどこかしら共通するものなのかもしれない。
今氏はただ彼らから話を聞いているだけではない。積極的に彼らの人生に関わっていこうとしたり、自分のしたことがそれで良かったのかと自問したりという繰り返しである。私はこの本で初めて今氏のことを知ったので詳しいことはわからないが、今氏自身にもテレクラ依存で300万円以上の大借金を作った経験があるらしい。

久田恵『欲望する女たち』(文藝春秋、1998年)

『諸君!』に連載の、女性誌の現場を見に行く、というシリーズの単行本化。「女性誌」という鏡に映し出されたさまざまな女性の欲望(ブランド崇拝、お受験、ダイエットetc.)の現場を訪ね、レポートしている。テレクラもその中の1章に入っている。筆者が注目したのは、レディースコミックの広告にあったテレクラのサクラのバイトである。
筆者が実際にサクラの登録をし、男性と会話をした体験が中心となっており、なかなか参考になる点はあった。また、女性の側から受話器の向こうの男性の心理を想像して書いている部分は面白いが、男性の眼から見ると、それは違うんじゃない、という感想も持った。きっと私の文章も、女性の眼から見ればずいぶんおかしな点があるのだろうな、と思う。
ただ筆者の視点は、純粋に「金を稼ぐ」手段としてのテレクラ、という方向にあって、サクラとして会話しながら実際に会いに行ったりする女性の存在、というような部分が考察されていないのは少し残念。筆者の認識では、テレクラ(2S、伝言含む)を利用する女性はすべて、援助交際かサクラのどちらか、ということになっているようだ。

神田うの『神田うの』(筑摩書房、1998年)

紹介するほどのものではないのだが、小学生時代の「テレクラ遊び」体験の話が載っている。小学生からテレクラなんかにかけていると、ロクな大人にならないということか。

『オトコとオンナの世紀末 援助交際読本』(双葉社、1998年)

とにかく様々な角度から「援助交際」というものを取材し、まとめてある。潜入ルポから現場の男女への取材、援助交際がらみの事件録、宮台真司(社会学者)・藤井良樹(ルポライター)・成田アキラ(テレクラ漫画家)・園田寿(刑法学者)といった人へのインタヴューもある。
まあ、「援助交際の実態」といった内容はこれまでにもいろいろ読んでいて、特に目新しさは感じないし、テレクラ潜入取材なども、もっとうまく話を聞き出せるのではないか、ともどかしさを感じたりもするのだが、これだけ内容が豊富で750円ならお買い得と言える。なお、編集方針として「援助交際の是非」については中立が貫かれている。

大平健『顔をなくした女 〈わたし〉探しの精神病理(岩波書店、1997年)

著者は精神科医。精神科の診察室で語られる様々な自分探しの旅を描き、現代人の心の秘密に迫る。「テレホン・ストーリー」と題された1章で、テレクラ(ツーショットダイヤルか?)を利用する男性の例なども挙げながら、「電話によるコミュニケーション」について考察している。現代人の電話の使い方に関する分析自体はおもしろいと思うのだが、「テレホン・クラブは、相手をモノと化し、自分をモノと化すことができる仕掛けなのではないだろうか」という結論は、果たしてどうだろうか。

庄子晶子・島村ありか・谷川千雪・村瀬幸浩『“援助交際”の少女たち どうする大人? どうする学校?(東研出版、1997年)

「シリーズ性を語る」と題された一連のブックレットの中の一冊。昨今の中高生の援助交際をとりあげた本は少なくないのだが、このブックレットは、特にテレクラに性教育の観点からスポットを当てている点が興味深かったので、紹介してみることにした。
最初の章では、小学校教諭の庄子氏が、テレクラをどう教えるか、ということについて述べている。少し長くなるが、おもしろいので引用しよう。

小学生については、テレクラにダイヤルして「バーカ」と言ったり、電話で相手を呼び出しかくれて顔を見てばかにする、という遊びがあちこちで聞かれます。(中略)そして結局、いくらこどもが大人をばかにしようと、相手は大人。だまされたり、脅かされたり、手玉にとられるのはこどもに決まっています。悪意をもった大人にとって、テレクラは絶好のシステムなのです。ですから、興味本位でも、いたずらでも、「こどもはかけてはいけないんだ」とわかるように知らせなければなりません。つまり「テレクラは売買春をするためのシステムだ」ということをちゃんと教えることです。
実際には、私は子どもの悪戯電話はとったことがないし、もう子どもたちは別の遊びを見つけている。中高生の援助交際も、もはや舞台はテレクラではない。(ブックレット中でもそれは指摘されている。)しかし問題は、そういう「大人の裏の世界」への窓が、テレクラに限らず、あちこちに開いている、ということにあるのだろうと思う。

大林楓実『マドンナの日記』(KKベストセラーズ、1998年)

元は貞淑な主婦だった40代の巨乳熟女「ふ〜みん」が、4年間でツーショットや伝言やテレクラで知り合った男性達1,000人とエッチするまでの記録。テレクラ千人斬りの主婦として雑誌等に登場したり、777人目、1,000人目の相手を選ぶイベントを行ったりと活躍されている。
話だけ聞くと、どうしても「こわれてる」という印象を持ってしまうのだが、本を読んでみるとそういう印象はなくなる。「カルチャーセンターに通ってストレスを発散する主婦がいるのと同じように、テレクラで知り合った男性とエッチをしてストレスを発散する主婦がいてもいい」という理屈に、妙に納得させられてしまうのである。現に彼女は(文章からの判断だが)こんなに生き生きしている。

村上龍『ラブ&ポップ』(幻冬社、1996年)

村上龍が“女子高生の視点で”援助交際を描いた小説。エヴァンゲリオンの庵野秀明監督によって映画化されたことでも知られる。伝言ダイヤルのメッセージを延々と記述していく辺りは圧巻だと思う。主人公の裕美が初めてテレクラにかけ、約束をし、すっぽかしたことを回想するシーンや、最終盤でホモの男がテレクラでの出会いの魅力を語るシーンなど、ディテールのリアルさはさすがである。


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