「テレクラ人類学」の可能性

1998.10.26

○このサイトのタイトルは「テレクラ人類学」である。では、本当に「テレクラ」を舞台にした人類学的フィールド・ワークなど可能なのだろうか。正直に言って、それが可能であるとは思えない。このサイトのタイトルも、もともとこじ付けのようなものなのだ。私がやっていることは、どんなに大目に見ても「ルポルタージュ」以上のものにはなり得ない。それでも、こう名乗る以上、少しでも「人類学的」アプローチへの可能性を探ってみたい。以下に言を弄するのは、そのための悪あがきである。

○そもそも文化人類学は、欧米の「文明」社会の人間が、アフリカ、中南米、太平洋諸島といった「未開」社会に暮らす人々のことを「理解」しようとしたところにその起源があると思われる。その過程で、「文明」や「未開」といった言葉が相対的なものでしかないことが明らかになっていった。文化人類学が果たした役割は数多いが、この「文化相対主義」がその最たるものであると、私は考えている。たとえば、ニューギニアの原住民が衣服を着けず、ペニスケースだけで生活している、といった風習は、かつてであれば「野蛮で、やめさせるべきもの」とされたであろうが、「文化相対主義」が浸透した現代にあっては、それは「部族の伝統で、尊重すべきもの」とされるであろう(これは例であり、実際にはそこにはさまざまな問題が生じているだろうが)。

○結局、人類学の課題とは、一貫して「他者をどう理解するか」というところにある、と言ってよい。この「他者」という言葉も大変困難でデリケートな問題を含んでおり、「では他者を理解するとはどういうことか」ということ自体、一つの重大な研究対象となり得る。他者は所詮他者でしかない、ということが分かったところで、何の解決にもならないのだ。

○私の好きなまんが家の一人に西原理恵子がいる。彼女の作品の中に「町内まんが」(『できるかな』扶桑社、1998年に収録)というものがある。これは、彼女のタイでの生活を描いたものだが、「異文化理解」ということについて、大変考えさせられる作品である。この中の一章に、近所のカラオケクラブ(と言っても働いている女の子は「売り物」である)のウォンママと、そこで働く上海生まれのメイリンちゃん、という人物が登場する。メイリンちゃんはサイバラに向かって、「メイリンとにかくウォンママのこの店にきてねー、大好きなセックスが毎日できて、しかも大金が手に入るなんて信じられない」と言い、サイバラは理解不能となって倒れるのであるが、鴨ちゃん(タイ生活が長いサイバラの夫)はそんなサイバラに向かって

「理解しようとかしちゃいけません。国も文化も歴史もちがうんです。私達はながめるだけ」
と諭す。この章のラストはサイバラがチャオプラヤ川を見ながら「文化は大切にしなきゃいけないしね」とつぶやくシーンで終わる。「異文化理解」ということについて、ここにその困難さや問題点が凝縮されている、ととらえるのは大袈裟だろうか。

○テレクラを舞台にフィールド・ワークを行っている学者として、宮台真司氏がいる。氏の行っているのは「社会学的フィールド・ワーク」である。私はこの駄文を彼の「社会学的フィールドワークの目的」(『まぼろしの郊外』朝日新聞社、1997年に所収)に触発されて書いているのだが、この中に以下のような記述がある。

人類学的・民俗学的フィールドワークの目的は「他者を知ること」にあり、社会学的フィールドワークの目的は「自己を知ること」にある。これが、実に大きな方法論的な違いに結びつく。
また氏はこうも述べている。
現代の大学がどういう場所なのかを知りたいとき、では大学に入り込んで調べればいいではないかと考えるのは、大きな間違いだ。大学の中をフィールドワークして分かることもあるだろう。だが、むしろ「大学でない」場所がどうなっているのか分からなければ、同時代の大学を分析したことにならない。
だとすれば、私のやろうとしている「テレクラのフィールド・ワーク」にはどんな意味があるのか。

○人類学のフィールド・ワークは、民族誌を書き上げることにより、その一応の結論とする。そこで得られた様々な事実を「人類一般」や「社会一般」に敷衍する、といったことは取りあえずは求められていない。むしろ「相対主義」を通り抜けてきた人類学にとって、そうした「一般化」は危険なものととらえられているようにも思える。

○私にとって「テレクラを利用する女性」は、他者であり、自分とは違う文化の持ち主である(あった)。無論、同時代の同じ国に生きる者同士として、彼女たちを通して「自分」というものが見えてくる可能性はある。ただ、実際に行っていることは「テレクラに行き、会話をする」ということだけである。特に「調査テーマ」を設けず、経験の積み重ねを記述し続けるということは、社会学的フィールド・ワークというよりはむしろ人類学的フィールド・ワークに近い。近年の人類学者たちの中には、「ライフストーリー」や「コミュニケーション論」をテーマとしている人も多いという(米山俊直編『現代人類学を学ぶ人のために』世界思想社、1995年)。だとすれば、テレクラで行われる「会話」そのものについてや、会話から浮かび上がる女性の生活とその「語り口」についてなど、「人類学的」な研究の余地はあるようにも思える。

○これらのことは、冒頭にも書いたように、いずれもこじ付けである。しかし、自分が「やりたいだけの男」であることを認めるには、私の神経は弱すぎるのである。


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