やせ我慢
長男が水疱瘡で幼稚園を休んでいるため、久々に子ども達と長時間向き合ってみた。思えば半年以上前、彼が真新しい幼稚園の帽子をかぶって、少し恥ずかしそうに、不安そうに教室に入っていった入園式の朝の様子は、今でもはっきりと覚えている。「あ〜あ、とうとうこの子もこれから少なくとも十数年は続く、あのいまいましい学校制度にからみとられてしまった」という、まるで出征兵士を見送るような、悲愴な、深い絶望にも似た感慨を覚えたからだ。幼稚園〜学校時代が楽しくて仕方がなかったという女房に、このことを話すと、とても不思議がられるのだが、どうも私は、はなっから「学校制度」というものになじめなかったのだ。そういう亭主の性格の一部は引き継いでいるはずの息子が、なんの適応障害もなく幼稚園になじんでいったことが(なんと今回が入園以来初めての欠席なのだ!)、不思議でしょうがない。
亭主の子供の頃の一家は、父親が独立するために、亭主が3歳になった年の冬に引っ越しをした。そして春には3歳年上の兄は小学校に上がり、亭主は一人残された。2年保育で十分と両親が考えていたせいで、兄が小学校に上がってからの1年は、年少組にはあがらず、自宅で商売の薬が入っていた段ボールの空き箱を積み木代わりに、穴をあけたり工作したり・・の日々だった。引っ越しのせいもあって近所に同年代の友達もなく、両親共に仕事が忙しく子供の相手などする時間はなかった。つまり日中はほとんど一人であった。亭主は翌年の春に2年保育の幼稚園に入ったものの、結局全くなじむことができず、夏休み前に登園拒否状態となり、やめてしまった。そうしてまた、段ボール細工の日々であった。親もさすがに今度は不憫に思ったのか、知り合いのつてで近くのカトリック教会付属の幼稚園に途中入園がゆるされ、小学校入学までの1年2ヶ月間を亭主はそこで過ごした。
その後ももって生まれた能力なのか、環境のせいなのか、亭主はことのほか知能テストの成績が悪く、公立小学校入学の時には危うく特殊学級に入れられそうなところをこれまたお情けで、別室で知能検査の追試をうけて(たしか折り紙を見せられて、その色を聞かれ、これは青これは赤などと答えた・・ことを覚えている)、普通学級になんとかもぐりこむことができた。しかしその安心もつかの間で、小学校入学後に待っていたのは「給食」という拷問にも似た恐怖だった。
当時の亭主の実家の食生活は、まるで明治時代のようでパンや牛乳の食習慣がなかった。肉などに至っては食卓に上るのは1ヶ月に一回あるかないか、しかも例外なく牛肉(実家で「おにく」というのは現在でも「牛鍋」のことだ)で、給食メニューでよく登場する鶏肉や豚肉(鯨肉!)はほとんど食卓にあがったこともなかった。だから「牛乳」で「鶏肉」を煮込んだクリーム・シチューをパンとともに食べるような食事はとても信じがたく、「カルチャー・ショック」以外のなにもんでもなかった。
小学校1年生の1学期は、午後の授業はなく、給食を食べたら帰宅であったが、亭主はどうしても食べることができなかった。取っ手のない、犬の餌入れのようなアルマイトの食器に注がれた脱脂粉乳が、しばらくはさわれないほど熱いのも閉口したが、当時の児童にとって給食を残すということは最大の問題行動であった。「食べ終わるまで立っていなさい」といわれ、給食の載ったお盆をもたされて廊下で一人、亭主だけは午後2時すぎまで残されていた。もちろん空腹ではあったけど、食べられないものは食べられないのだからしかたない。同級生には、食事の好き嫌いの激しい子供もいたが、亭主のようにもれなく毎日ハンガーストライキをする同士はなく、また帰宅が遅いといって心配して迎えにくるような親でもなかったので味方は自分だけ、たった一人の謀反だった。結局、給食には一口もつけられず、戦中派の教師にさんざんなじられて帰宅した。毎日がそんな様子だった。だから小学校1年生の1学期で身長は伸びたのに体重は減少し、夏休み前にはあばら骨がはっきりとみえる体になった。文字どおりの「やせ我慢」であった。
この強情さを卒業までの6年間続けることができたら、どんなに良かったろうと今は思うのだが、結局亭主は無理矢理矯正させられてしまった。悪辣な教師の開発した矯正方法は今考えてもおぞましい「連帯責任」というやり方である。2学期にはクラスを5〜6人ごとにわけて「班」を作り、「給食を残さず食べる」ことを競争させ、遅れた班は理由を問わず全員にペナルティーを課すという運動がはじまった。自分の不始末で自分一人がなじられるのなら本望であっても、何の関係もない同級生まで巻き添えにされるのはいかにも不本意で、さすがに涙とともに吐きながら給食を食べざるを得なくなった。このように亭主にとって幼年期の集団生活のはじまりは誠に遺憾なものであった。大人となった今、宴会の席に出ると酒を無理強いしたり、逆に一気飲みで反吐を吐いたり気を失ったりする馬鹿者たちを見かけるが、その心には亭主と同様、学校給食をめぐってのトラウマがあり、それが酔った勢いで噴出しているのに違いない。
とどのつまり幼年期の亭主にとって学校というのは、まるで文化大革命時代の中国と同様の「連帯責任」や「密告」によって二重三重にがんじがらめにされた「収容所」以外の何物でもなかった。そういえば亭主が小学校に入学した年(1966年)は中国で文革が始まった年に一致する。当時忘れ物をしたりすると首から「忘れ物をした」と書いた札を帰宅するまで首からぶら下げるというペナルティーを考えついたとんでもない教師がいたが、文革当時の記録映像にある「市中を引き回される資本主義者」が同様のカードを首から下げているのをみて慄然としたことがある(あの真似だったのか!)。学校と教師は寄ってたかって人の自由を奪い、奴隷や家畜化するための存在としか思えなかった。小学校の6年間、ずーっと学校も先生も大っきらいだった。結局、小学校で過ごす日々で亭主の身に付いたことは、教師様をはじめとする世間には仮の姿のみを表して、本来の自分を抑圧することが最良であるという「奴隷の知恵」だけだった。そして実際、亭主は表面的にはみごとに学校に適応し、長じて学級委員をするまでになっていたが、高学年では「これは本当の自分ではない」という思いもいっそう強く、落ち着かないアンビバレンツな少年時代であった。その後、今日まで年齢・経験を重ねたことによって性格詐欺にさらに磨きがかかり、今では表面的には「誰とでもなかよくできる性格」と誤解されることも多く、仮の姿が本当か、本当の姿が仮の姿か自分でもわからなくなってきていた。
そんなことを考えながら、今日は幼稚園を休んで微熱気味の長男に「お父さんは給食を食べられずに苦労したんだよ」という話をしたら、「お父さんはいぢめられて大きくなったんだね」などと子どもに慰められてしまった。いささか大仰な言い方かもしれないが、亭主、人生40年生きてきてはじめて正直に正面から向かい合うことのできる人に出会うことができた。「やせ我慢」をしなくても良い相手、それが二人の息子たちであり、彼らと出会ったこと、彼らと遊ぶことは亭主にとって今のところ最大の娯楽であり「癒し」でもある。