事故・・なのか?

 処分を伝える公示

去る9月某日、某医科大学の麻酔科教授の諭旨免職が決まりました。また事件の責任をとって理事長以下の減俸処分も発表されました。その事件とは・・すでにマスコミで有名となった麻酔科医師連続死亡事件です。6月に事件が明るみになってから急遽「事故」調査委員会が結成され、8月末に「事故」報告書が発表されました。各々の「事故」の概略は次のようなものです。

1)28歳・大学院1年生:平成6年5月15日自宅で死亡。研修医終了後同年4月、某医大大学院(心臓外科)に進学と同時に附属病院で麻酔科の研修を開始した。吸入麻酔剤による中毒死と考えられた。患者に使用した薬剤を持ち帰ったらしい。

2)29歳・大学院3年生:平成11年4月3日附属病院手術部更衣室トイレで心肺停止状態で発見。死後、尿中からベンゾジアゼピン系とバルビツール系化合物が検出され、麻酔残薬の乱用による死亡と推定された。事件に先立つこと二年半の平成8年秋より勤務中トイレから出てこないなどの不審な行動を繰り返していたが、十分な監督下で勤務させる、あるいは休職させ精神科の受診を勧めるなどの有効な対策はなんらとられなかった。

3)29歳・大学院4年生:平成12年6月23日自宅で意識消失状態で発見、救命センターに移送したが蘇生せず。室内に吸入麻酔剤の空き瓶が4本発見された。事件に先立って平成11年4月より関連病院麻酔科に出向中であった。同年12月頃より薬物乱用の疑いがあったが教授の事情聴取に対して本人は強く否定した。が、その後も不審な行動を繰り返したため、出向先の任を解き4月より大学で研究業務を命じられ、週2回精神神経科受診中であった。

・・・と「事故」報告書を要約しつつ改めて不思議なのは、いずれも30歳前の男性医師であること。また平成6年の第一例以外はみな死の前に異常な行動が発覚していることから、どう考えてもこれはただの「不慮の事故」などではない。単にもって生まれた個人の資質の問題なのか、それを見抜けず入学を許可したことが問題なのか、はたまた卒前教育や卒後の指導がなっていないのか、事なかれ主義の医局講座制の問題なのか、報告書ではほとんど触れられていません。ただ単に麻酔科医は激務であり、心身ともにストレスが多いと述べているだけですが、24時間眠れない職業など医者に限らず運輸関係などにも良くある話で、麻酔医がことさらに激務である(=だからクスリに手を出す!?)というのは説得力のない稚拙な自己弁護です。いくら身近にクスリがあるからといって、覚醒剤の売人でクスリに手を出す人はいないのですから、やってることはチンピラ以下であり、3人の死者に弁解の余地は全くありません。結局報告書では、あれはしかたない「事故だったのだ」と事実を矮小化しようとしているのでしょう。

現実的に「事故」以来変わったのは病棟や手術室での薬物の管理が異常に煩雑になったことで、報告書によると大学附属病院では薬物の数量の点検や鍵の管理などは医師ではなくクラークさんが最終チェックをするようにしたこと、薬物保管場所にはビデオカメラによる監視を24時間行うことなどの改善計画が述べられています。つまり医師には職業人としてのモラルもなければ自主・自律管理の能力もないということなのでしょう。ではそのようなモラルに欠けた医師を生産した大学というものは・・と考えていくと、どうもこれは大学の存在意義そのものに関わることであり、従前よりその旧弊が指弾されているいわゆる医局講座制をはじめ、教育・臨床・研究に関わるすべてのシステムを見直して再構築するチャンスとも思えるのですが、某大学首脳部にはそんな壮大な、前向きな情熱は全くないようです。今回のスキャンダルで北部病院の指定取り消しをちらつかせている川崎市に対して、形だけの報告書を提出してその場をしのごうという首脳部の考えは見え見えで、ヒトの噂もなんとやら、ほとぼりが冷めるまで首を引っ込めて待っているだけです。報告書にある「薬物乱用防止ホームページを開設する」というくだりはまさに噴飯ものです(そうせざるを得ない首脳部の苦悩も解らないでもないが・・)。

小学校低学年のある夏休み、亭主は飼い犬のウンコにたかるハエを叩いて遊んでました。ハエ叩きが見事にヒットし頭のつぶれたニクバエを虫眼鏡で観察したときの驚きは今でも鮮明に覚えています。なんと彼女は頭がつぶれたまま大きなおなかから子供たちを産んでいたのです。長さ1ミリにも満たない小さく真っ白な子ウジが次から次と娩出されるのです(ニクバエが卵胎生であるというを偶然知ったのは高校のときですが)。死にゆく生命と生まれ落ちる生命を同時にみるという事、まるで「火の鳥」にも勝るとも劣らない不思議というものを教えてくれたのがウンコにたかるニクバエで、亭主にとっては生命について考える原点であったわけです。かわいそうだというような感情論ではない「こりゃいったい何なんだ」という不思議。これは今でも培養細胞を観察するときの感覚につながっているようです。

ところで唐突ですが、人間が大人になるまでに知っておくべき事は、基本的には次の3つしかないと亭主は考えます。すなわち、

1)死ぬとはどういうことなのだろうか(生死)

2)宇宙の果てはどうなっているのだろうか(宇宙)

3)なぜ人を殺してはイケナイのだろうか(善悪)

の、いずれも入学試験などには決して出されることのない問題です。もちろん亭主はこれらに対する明解な答えなど知りません。知らないから不思議に思って毎日考えているのです。亭主自身が、不可解な大宇宙の「現在」に不条理にも存在し、日々を生きているという事はどう考えても解らず、びっくりしているわけです。われわれ「大人」が子どもに教えることが出来るのは、実は「自分は何も知らない」ということを知っているという(無知の知@ソクラテス\(^o^)/)パラドクスだけなのです。大宇宙の不思議の前に立ち、自分の無知を知ったときはじめて人は謙虚な心となります。この感覚こそがいわゆる「倫理」の核になるものでありましょう。世間では公務員の「倫理規定」だの大学医学部の「倫理委員会」だのと「倫理」ばやりですが、「倫理規定」によって人が「倫理的」になると本気で考えているとしたら笑止千万なのは言うまでもないことです。

そもそも高い専門性をもつ医師は同時に高い倫理観を持つものだというナイーブな考えは誤解、もしくは幻想にすぎないということはナチスの強制収容所での人体実験を裁いたNuremberg裁判で明らかになり、その後の「ヘルシンキ宣言」のきっかけとなったわけですが、まさか自分自身を人体実験することなどは当時は考えも及ばなかった事でしょう。しかもわが国はいわゆるnobility obligatesの伝統のない世間平等主義なのですから、もういいかげん医者のことを「先生」などと呼ぶことはやめなくてはなりません。

かくしてモラルは地に墜ち、自由は死んだ。