生死の場としての「病院」

 ウグイスが鳴き出すような良く晴れた春の朝、坪庭を見渡す縁側と床の間のある座敷で床に就いている老人がいる。すでに虫の息で身じろぎもしない。寝床のまわりには今にも泣き出しそうな息子・嫁・孫が息をひそめて見まもっている。そこに畳に正座するにはいかにも不都合な長い白衣をまとった医師が現れて、往診鞄からなにやら取り出して傍らの、これまた大仰なキャップをかぶった看護婦に目配せしておもむろに「ご臨終です・・モゴモゴ」。堰を切ったように泣き出す家族、と突然ご遺体が起き出して「アッと驚くタメゴロ〜」とか「ガチョーン」とか一発かますような「ご臨終ギャグ」というのが昔のTVでは、よくありました。最近とんと見なくなったのは、不謹慎という番組制作のコード上の問題なのか、そういう場面が現実に少なくなってきているからなのか・・と考えたのがこの文を書くそもそものきっかけでした。


 で、調べた結果は実にはっきりしていて、クレージーキャッツ全盛の1960年ごろには、78.1%の日本人は自宅で死を迎えていましたが、1977年には在宅死が49.4%と半数を割り(ちなみに「ご臨終ギャグ」もやっていたキャンディーズは翌年春解散)、1995年では在宅死21.2%・施設死78.8%と1960年と丁度逆転して現在に至っています。制度上の国民皆保険がスタートしたのは1961年ですからそれ以前は入院したくても出来ず、家で死ぬしか無かった・・ということもあるのかもしれませんが、一世代30年と考えても60年代から90年代にかけて、やっと世代が一周期回るぐらいの短期間にこれだけの変化があったのです。


 では国民皆保険になる以前、どうして死の床に医者が呼ばれたかというと、明治のはじめに決まった法律で、死亡診断書という医師の「検定」が無ければご遺体を移動することも火葬も埋葬もできない事になったからなのです。そして悲しいことに貧乏な庶民が医者を呼べるのは(呼ばざるを得ないのは)ひとえに「死亡確認」が目的だったのです。
 病状急変の知らせを聞いて馬子の曳く馬に揺られ、野越え山越えようよう病家に着くとすでに湯灌も終わり逆さ屏風、北枕、守り刀と枕飯が備えてあるのが当たり前だったと、昭和20年代に岩手の寒村の診療所勤務をしたことのある私の父親からよく聞かされました。
 さらにさかのぼって江戸時代以前となると、原則として医師は死に立ち会うことはなく、いざ患者が助からないと解るやいなや「あとは神仏に祈りなさい」といって患者の前からはいなくなるのが普通だったそうです。
 ある日突然死神が見えるようになった男が名医に祭りあげられるという落語がありますが、当時は病気を治せなくとも患者が助かるかどうかをキッチリ判定しただけで十分名医だったのかもしれません(もっともこの噺、西洋怪談の翻案物で明治時代になってからの作だったかも)。ともかく往事の医者が患者の死に立ち会わなかったのは、一つは死の穢れに触れたくないという思いもあり、また評判を落としたくないと言う商売心のせいかもしれません。
 これに対して、「医者が匙をなげた」あとに呼ばれるお坊さんの世界ではマニュアルが完成されていて、死後の旅立ちの準備を患者さん自身も納得(これはつまり今で言う「告知」)のもとに行われてきたそうです。西洋でも事情は同様で、末期患者のところには神父さんが呼ばれ、予後が良くないことを患者に告げた上で昇天のための祈りなどがなされたそうです。これは一種、合理的であるとともに、ごく最近まで医師が患者本人に癌などの病名告知をしなかったことにつながるようで、とても興味深いものがあります(まさにウソつきは医者のはじまりです)。実際、癌告知に始まり、手術→再発→臨終まで、医療技術しか学んだことが無く、「死」に対するキチンとした宗教的信念を持っているわけでもない普通の医者が診つづけることはいささかムリがあるように思います。


 さて、再び時代を現代に戻します。わが国の1所帯の平均人員数は1960年には4.13人これが1998年になると2.81人です。所帯構成人員が3人以下と言うことは、誰かが働いて誰かが病気したら家で面倒を見る人は0.81人しかいないということで、平均的家庭では在宅療養を家族だけで支える事は不可能ということです。かといって互いに協力し、在宅療養を可能にする地域のコミュニティーは壊滅状態です。また、大部分の人々にとって「死」を身近に見る機会がないため、仮に患者さん本人が強く在宅を希望しても、いよいよ虫の息という土壇場で家族が耐えられず、救急車で病院に連れてくるケースもしばしばあります。勿論、病院に連れてきたからといって治らないものが治るわけでないことは誰もが知っていても、そういう例は後を絶ちません。
 かつての農村では、死にかけているヒトがいると招魂・魂呼(しょうこん・たまよばい)といって、屋根に登ってその人の名を呼び、魂をとり戻そうとしたり、死にそうなのが子供の場合は男親が井戸の底に向かって大声でその子供の名を呼んだりしたそうです。むろん迷信といえばそれまでですが、身内の危篤に付き添って、病院の狭い重症室で、周囲に遠慮しいしい、じっと黙って心電図モニターを見つめているよりは思い切り声を出せた方が、ご家族にとってもよほどましなように私は思います。信仰の有無に関わらず、耐え難いことを乗り越えていくために人間には「儀式」が必要な時があるのです、そしてそれをないがしろにすると何年経っても近親者の死を乗り越えることが出来ない、いわゆる外傷後ストレス症候群(PTSD)の様なやっかいな精神状態になってしまうのです。伝統的な喪の儀式、盂蘭盆、33回忌のいわゆる「弔い上げ」に至るまでの法事などは肉親の死というストレスからPTSDにならないで済ますために練り上げられた習慣なのです。


 今日では癌など、急性疾患以外の終末期の患者さんに対する蘇生処置を行わない、DNR-orderという考え方が浸透してきまして、終末期の臨死患者で研修医が挿管やら心臓マッサージの練習をするようなアホな病院は無いと思いますが、医師という「専門家」が死亡を確認した後の処置はどんな病院でも高度にマニュアル化されています。ご遺族の悲嘆の様子が一段落したところ(大抵は死後30分以内)で、看護婦(このごろはご遺族も一緒に行うこともある)が遺骸を清拭・着替えし、鼻腔や肛門の処置などをします。病理解剖するかどうかによってすぐに葬儀社を呼んでいいかどうかが決まりますので、ご遺体清拭中にそのことをご遺族に確認するのが主治医の重要な仕事になります。で、解剖のご希望がなかった場合、婦長を通じて葬儀社に連絡することになります。
 大抵の病院には出入りの葬儀社があり(院内の人間同士では「◯×さん」は呼んだ?というような言い方をします)、深夜・早朝でも婦長が呼べば30分以内にやってきます。余談でありますが葬儀社選択は当然自由で、ご遺族の希望によっては「◯×さん」以外の互助会などでも、建前上はかまわないのですが、大抵の病院は九龍城なみに入り組んだ建物で、霊安室の場所はわかりにくくまた、死亡診断書交付の事務なども病院ごとに異なるので、出入り業者以外の葬儀社はしばしば段取りがうまく行かないようです(夜勤婦長が◯×さんと癒着して意地悪をしているというような噂はどの病院にも必ずありますが・・・)。ともかく、死後の処置から病院を出てからも葬儀の段取りのすべてが専門家に委ねられ、ご遺族や地域のコミュニティーの人々の出る幕はなく、かろうじて残ったのは喪主の会葬挨拶ぐらいなのです。
 「出産して初めて子供(というもの)を抱いた」という母親が少なくないのと同様に、現代では一般の人が「死」(および死後の処置など)に接する機会がなく、もっぱら目につかないところで専門家がおこなう仕事として処理されているのです。魚や肉が専門家によって解体・処理されたかたちのパックに入った状態しか見なくなったのがあたりまえになり、子どもたちがご飯の前に「(生命を)いただきます」と感謝することが困難になったのにも少しにています。
 元来「死」という強烈な陰があって、その対比として生が輝いて来るのですから、出産も死もすべて病院というブラックボックスに閉じこめてしまうのは危険だと思います。かといって、家族の負担を考えると、生と死のすべてを在宅で行うこともまた困難であり、何らかの施設は必要と考えます。残念ながら現状ではその機能を担うのは病院しかないのですから、院内でも出産と死亡に関する場面は「家族の物語」として語り継いでいくことができるような環境が必要と考えます。