Mama don't go
Daddy come home
私は、自分の親に親しみを感じたことがない。
三歳の秋、狭い部屋に置かれた引っ越し荷物の陰でかくれんぼ、そのまま寝入ってしまった。目が覚めたら誰もいない、声も出せないほど驚いた、そして沈黙。
父がそれまでの勤務を辞めて、独立開業するためにやってきた家の、これがはじめての記憶だ。家の外は2ブロック歩いたらどこにいるのかわからなくなるような、路地だらけの迷路の町。
そのつぎに記憶があるのは毎晩父母が怒鳴りあっていたこと。すきま風だらけの真冬の寒い床について目をつぶると、薄いふすまの向こうからの怒声で目が覚めた。三歳年長の兄もやはり目を覚まして、布団で耳をふさいでいる。
本当に怖かった、知らない町の閉ざされた家の中で行き場もなく、親戚も知り合いもなく、頼れるものは父母しか居ないのに、その父母が壊れ、毎晩ののしりあっているのだ。不仲な夫婦の子どもはみな自分を責める気持ちになる。いい子にしてなかったからけんかするのかな?、きらいなおかずを残したからかな?、いくら考えてもわからず絶望、泣きながら寝入る繰り返しだった。
ある晩、とうとう我慢できなくなった私と兄はふすまをあけ、茶の間の父母にしがみついた。
「けんかおはなしは、やめて!」
兄も私も泣きじゃくりながらで父母それぞれに懸命にしがみついても、壊れた夫婦は決して正気になることはなかった。何ヶ月そんな日々が続いたのだろうか、「けんかおはなし」が中途で終わり、すっと静かになることが起きるようになった。そしてそんな日の翌朝は決まって、玄関先で父が倒れ込むように眠っているのだった。恐らくは父に行きつけの飲み屋でも出来たのだろうと、今ならばわかる。当時は父母の口論が急に静かになるのがただ不思議な魔法のように思っていた。
四月になって兄は小学校に入学、私も幼稚園に上がるようになると、夜中の「けんかおはなし」はあまり目立たなくなってきた。単に慣れっこになっただけのか、それとも父母とも仕事が忙しく、けんかどころではなくなって来たのだろう。ただ、今度は朝になっても父が帰ってこないことがあった。
春も中途を過ぎたある朝、今度は母が忽然と居なくなっていた。その理由を父に聞いてもただ眉間にしわを寄せて首を横に振るばかりだった。ともかくも朝食を食べて学校に行かなくてはならない。
今から四十年以上前の話である。むろんコンビニなどなく、父の帰ってこない朝は、兄と私の突然の自炊生活となった。見よう見まねで作るものだから、ご飯と卵焼きくらいが精一杯で、みそ汁の具は保存の利く焼き麩かとろろ昆布に決まっていた。毎日が不安で、いつまでこの生活が続くのか、私も兄もそしておそらく父さえも解らなかったのだろう。
自炊生活がしばらく続いたある夕方、急に「お母さんを迎えに行く」と父が言い出した。父が探したのか母から連絡があったのかわからないが、ガラス会社で有名な郊外のH市の知り合いのもとにいるらしい。私鉄を乗り継いでH市につく頃には、いかに春とはいえ、とっぷりと日は暮れていた。
母はH駅に来ていた。おそらくは肉親の再会に付き物のエモーショナルな場面が展開されたのではないかと思うのだが、記憶にない。私は泣くことも怒ることもなく一切の感情を封印し、父母の再開の光景をながめていた。大きく窓を開け放ち、すいた夜中の電車にのって家族四人で黙りこくって帰ってきた、不思議な、不機嫌な「家族旅行」である。
以後、私は親に対して、一切の信頼を喪失した。要するに自分の周囲の大人たちと親の境界線がなくなり、四歳にして親に慣れ親しむことはなくなった。
Mother, you had me, but I never had you
I wanted you, you didn't want me
So I, I just got to tell you
Goodbye, goodbyeFather, you left me, but I never left you
I needed you, you didn't need me
So I, I just got to tell you
Goodbye, goodbye
(by John Lennon)追記:こんな Funky に育てていただいたおかげで、しょっぱなから Rock な人生になってしまったことを、今は深く両親に感謝しています。