いつだって中学二年生
(二人の息子たち、そして世界で誰よりも大好きなあなたへ・・)


はじめてひとを好きになったことはいつなのか、それはもう、五十歳もまぢかな自分にとって、ずいぶん遠い昔のことだけど、いまでもたしかに、胸の奥がつまったような甘く、不安な気分を思い起こすことは出来ます。たぶん、これはどの人にとっても同じように発生する感情なのでしょう。

でも、本当の問題はそれからです。その気持ち、どうやって解決しますか?好きなひとにどうやって伝えましょうか?。わたしの考えでは、ひとは、ここで二通りに分かれるようです。つまり世の中には二通りの人間がいて、自分の気持ちをまっすぐに、なんの屈託もなく伝えることの出来る人間と、逆に自分の気持ちをあらわすことがひどく難しい人間です。なぜこのような違いが起きるかといいますと、これはいわゆる「自己評価」の違いではないかと思います。つまり、自己評価が高ければ高いほどストレートな表現が出来るのに対して、逆の場合は不器用でやっかいなのです。なお、わたしはもちろん、不器用組です、だから年齢だけはりっぱな中年(老年?)になっても、いまだにこうして不器用な文章を書いてます。

ひとを好きになって、その気持ちが相手に伝わらなかったら大変です、でも自己評価の高い人ならば「なんだ、相手に見る目がないだけさ」と、乗り越えられ、きっとすぐに次のチャンスがやってきます。ところが、もともとの自己評価の低い、自信がない人がしくじった場合「ああ〜やっぱりオレは、だめだぁ・・」と、自己評価はますます下がり、ますます落ちこんでしまいます。このような傾向が続く結果、浮上する人はますます浮上し、落ちこんで沈む人はますます沈み込むという現象が発生します。いわば「思春期の海」のなかで浮上する人と沈殿する人の二極化が始まるのです。わたしの記憶ではだいたい、中学二年生くらいからこの変化ははじまるようです。小さい頃からかわいげもなく、運動はからっきしだめ、誰からもほめられたこともないというそのころのわたしは、志望中学は不合格、かろうじて入れてもらった中学でもなじむことが出来ず、友達もないという状態で、もし自己評価にランク付けがあれば、間違いなく最低になる真っ暗なヤツ。「思春期の海」にこぎ出すどころではない、それを前にして呆然と立ちつくす、生気もなくなりひからびた、ミジンコの死骸のような中学二年生でした。

さて、ひとたび自己評価低下の悪循環に陥ると、自分を表現するのがますます困難になってくるので、外見上は何も感じていない人にみえます。しまいには当の本人自身ですら自分がうれしいのか悲しいのかわからなくなって、感情が外見上見えなくなって・・ああ、こういうのをロック・ド・インともいいます。がしかし、表面上とはうらはらに、実際の内面では激しいマグマが渦巻いているのです。そして人付き合いを避けているうちに、引きこもり、人つきあいを必要としない特定分野の研究、もしくはコレクションなどにはまりこむ、いわゆるオタクになってしまうのです。

そのころのわたしは、まさにそういった状態で、自宅と学校を往復するだけの代わり映えのない日々、一見淡々と過ごしながら、心の奥に貯まるもやもやと格闘して、いつ心が押しつぶされるかわからないような状態でした。これをどうにかする方法としてわたしが「音楽」を選んだのは、中学二年生の夏休みのこと、きっかけはまったく偶然でした。当時も今もなぜか実家にはピアノがあり、母は息子にどうやらクラシック音楽を習わせたかったフシもあったのですが、いろいろ複雑な家庭だったので、私は音楽を習ったこともなければ楽譜の読み方も知りませんでした(今も苦手)。が、ラジオから流れる気に入った曲をカセットに録音しては、目をつぶってメロディ、ハーモニーなどテープと同じ音の組み合わせをピアノの鍵盤で探すことを試してみると、なぜか初めっから簡単に出来ました(これはいわゆる耳コピー?)。曲によって難易度は様々だけど、この音探しゲーム(ただし一人遊び)がとてもおもしろいので、わたしはすぐピアノにのめり込むようになりました。もちろんピアノを鳴らすためには、最低限の指の練習と読譜力は必要なので、自己流で「ハノン」と「バイエル」は少しやってみましたが、音楽の勉強で一番ためになったのは当時のギター雑誌で、音楽の雰囲気を決めるものは「コード」というものだということを知ったのも雑誌からでした。このようにして中学二年生の夏休みが終わる頃にはいっぱしの「音楽通」になったつもりでいました。

夏休みが終わり、二学期。あいかわらず、暗い中学生でしたが、休み時間になると自分が耳コピーした曲を級友たちを前に、音楽室のボロピアノで誇らしげに弾いては悦に入ってました。当時の級友にはピアノを十年近くも習ってるようなヤツもいて、今考えると顔から火が出る思いです。が当時はただ有頂天で、長年どんよりとした気分だった自分にとって、急に頭の上の雲が晴れたような、すがすがしい開放感でもありました。ビートルズが大好きな同級生とギターコードの暗記競争をしたのもそのころで、不思議と話題が音楽になると、誰とでもどんどんうちとけて、活発に話が出来るようになりました。

中学三年生くらいになると自然発生的にバンドができ、わたしはベースを担当しました。ベース担当になった理由は「ほかに希望者がいない」ということですが、人前に出ることや目立つことの大嫌いな自分の性格にもベースはぴったりでした。そういえば、世の中には目立ちたかったり、女の子にもてたくてバンドやギターを始める人が結構居るようですが、バンドをはじめてからわたしは女の子にもてたかといえば、結論は自信を持ってNO!です。バンドを初めてから、音楽で自分を表現できるようになったことを除外すると、ほかの行動パターンも性格も以前と比べてな〜んも変わっていません。ギター担当のGクンやドラムス担当のKクンなんかは、文化祭などをきっかけとして他校の女子とつきあってるらしい・・という話で、実はわたしも紹介で何回か「グループデート」ってしました。でも二人っきりになると何をはなしていいかわからない。中には結構カワイイ子もいたような気もするんだけど、いきなり初対面で「好き!」って訳にもいかない・・仕方ないので好きなミュージシャンの話などしてみるのだけど、これがまた、見事にかみ合わず、冷や汗・脂汗たらたら流れて、目は充血し胃袋はキリキリ痛くなってキョドってキモスになってしまう・・要するに女の子と「デート」なんてち〜っとも楽しくなかったんだ。そして、翌日学校へ行くと、女の子を紹介してくれた友達が「どうだった」とかなんとか、とんちんかんなことを訊いてくるんだけど、ようするにみんな「どこまでいったのか」ということしか興味ないんだね。でも女の子と「つきあう」っていったって、共通の言葉もなく、気持ちを共有することも出来なければそれ以上発展することは望めません。自分の趣味や考え方に、相手を強引に引きずり込めばよいのかもしれないけど、そういうやりかたはどうしても(これは今でも)苦手なんだな。自己評価の高い人はきっとその辺が上手なんだろうな。あー、でもカワイイ子もいたなあ・・つきあってたらどんな人生だったのかな・・「残念!」って思うのは中年のおっさんとなった今の感覚ですね。当時のわたしは「音楽」を通じてやっと少し世の中とかみ合い始めてきた・・と思ったら、やっぱりかみあわない事だらけだ・・けど、まっいいか、というような感覚でした。なんといっても十代、「あした」だけはたっぷりありました。これがもし「音楽」という表現方法が見つからず、本当に何一つ世間とかみ合わないまま過ごしていたら・・と考えると今でもぞっとします。

その後も音楽もバンドも大好きで、高校に上がってからも続けていたけど音楽以外のことではなんとなく、友人とも距離を置いていました。高校を卒業、大学に入ってからも、女性とおつきあいしようなどと思うと、相変わらずキョドってキモスな中学二年生に戻ってしまうわたしが、共通の言葉で、気持ちを共有することのできる女性と出会うにはさらに相当な月日が必要でした。えっ、その女性、まさに海底からわたしを引き上げてくれた女性は誰って・・決まってるじゃん、今までも、そしてこれからも、わたしといっしょに暮らす女性、そう君たちのお母さんだよ・・よかった、よかった。