亭主がWEBをはじめた理由

 命は命から生まれ、もらった命を代々継承していくことが生き物の使命であり、喜びでもあります。私たち人間もまた、プログラムされている内容は、ほかの生き物とまったく同じだと思います。ですから生まれた子供が健康で成長していくことは、親にとって最大の希望なのです。しかし、子供の中には生後まもなく病気がみつかる場合もあり、親にとっての「病気の子供を持つこと」のストレスは、生物としての根元からくるいわば「種の保存本能」に根ざした不安であるといえましょう。というものの、「病気の子供を持つ」なんてことは滅多にあるわけないし、また自分の子供に対して完璧を求めるあまり不安神経症になってしまうような子育てはむしろよくないもんだ、と亭主も思っていました。

 次男が生まれたとき頭の格好を見て「何か変だな」という印象をもったことは事実です。しかし、小児科の先生は「大きさは正常範囲であり問題ない」というご意見でもあり、実際退院してからは風邪も引かず熱も出さない元気な子供で、身体も行動も順調に成長しているように思え、いつかそんなことも忘れていました。次男の頭の変形がはっきりしてきたのは生後8ヶ月をすぎた平成9年の正月ごろです。予防接種のために近くの小児科医院にかかったとき先生から「どうも頭蓋骨の成長に問題があるかもしれない、紹介状を書くから検査を受けなさい」といわれ、「そんなバカな」と思いながらも、しぶしぶ大学病院の門をくぐりました。
 まず小児科で簡単なレントゲン検査を受けてすぐ、脳外科の先生が呼ばれ、頭蓋のCT検査ということになりました。診断結果は複合型頭蓋縫合早期癒合症という稀な病気で、通常1歳半ぐらいまで開いているはずの頭蓋骨の隙間がまったくなく、成長に伴う脳の容積増加が抑えられてしまっているため、正常な脳ならびに顔の成長のためには、早期の手術が必要ということでした。結局、その日の午後は仕事も手につかず、早めに帰宅して・・女房とどんな会話をしたかはまったく思い出せません。ただ一晩中眠れず、一人で朝まで飲んでやり過ごしたことを覚えています。翌朝仕事にいってからも多忙な時はともかく、少しでも時間があいたりするとやはり次男の顔が浮かんできて、悔しいやら情けないやら・・・で頭に浮かんだ言葉は「親の因果が子に報い・・」というやつです。手術すれば直る病気じゃないかという前向きの気持ちに切り替わるのに、亭主の場合1週間は必要でした。そして次男は入院となりました。
 小児外科病棟で次男が入院した部屋は、生後1−2年未満のまだ言葉もしゃべれない小さな子供が8人ぐらいいる部屋でした。生後まもなく病気が発見され、そのまま家に帰ることなく入院し、幾度となく手術を受けている子供。おおやけどのため変形した手足に何回も植皮を行っている子供。毎日親が面会に来る子供、そうでない子供など、時々入れ変わりはあるものの一種の合宿のようです。そしてどの子供も例外なく、午後7時の面会時間の終わりが近づくとむずがりはじめます。夫婦で面会して帰り際にむずがられたときなど、エレベーターホールまで次男の泣き声が響き、夫婦でうつむいて無言で帰宅するしかありません。「小さいうちからキャンプにいっているとおもえばいいぢゃないか」などといってはみたものの、結局亭主はなにもできず、やはり飲んで過ごすしかありませんでした。
 手術の当日はやけに晴れた寒い朝でした。乳児の手術はほとんど例外なく朝一番ではじまります。術前投薬の注射のせいか一泣きした顔で次男は病棟からエレベーターホールに出てきました。わずかの面会が終わると手術室へ消え、その後は長い待ち時間です。無事に麻酔がかかるだろうか、今頃最初のメスがはいったところだろうか、出血は増えてないだろうか・・・・などしょうがないことをくり返し考え、随分前に買った週間紙をめくってみたり、女房はとなりでひたすら編みものを続けています。終了予定の3時ごろになるとさすがに落ち着かず、エレベーターが到着するたびに夫婦とも腰が浮くのを感じました。ようよう手術も終了し、担当の先生の説明をうかがって子供と会えたのは夕方4時をすぎていました。帰宅後、安堵からその夜はおおいに熟睡したことはよくおぼえています。その後は順調に経過・退院し、さらに約1年後に再手術を受けて今日にいたっています。

 亭主は商売柄、病気の子供を持つ夫婦と面会する事があり、そういった人たちのことをなんとなくわかったような気がしていたのですがとんでもない!。実は何もわかってはいなかったのだということがわかった(ややこしい)ことがこの経験を通じての最大の収穫です。そしてこの経験がきっかけとなって「家族とは」とか「家庭とは」なんてことを考えるようになり、貧乏でマイホームを持つことは無理でもせめてマイホーム・ページを作ろうということになったのです。