教育論?

 亭主の仕事は人間という、それはそれはまあ業の深い生き物が、昇天するまでとことんつき会うという点では学校の先生のようなところもありますが、一どきに診る事の可能な受け持ちの数は、せいぜい両手にあまらないほどの人数が適正で、学校の先生方のように、40数人などという途方もない人数のお世話をしなくてよいということは本当に幸いなことだとおもいます。

 ところで、そもそも「教育」てえのは、厳しい日常生活も含め、師匠と寝食をともにして、1対1で向かい会って弟子が師匠に「稽古」をつけてもらうようなもんが基本じゃないかと亭主は思います。ですから、がきどもを、40−50人も集めて、黙って座って先生の話を聞かせるという形式の授業は実にその、乱暴なもんでありまして、そんなもんで「人格の薫陶」なんてできるはずもなく、結果的に義務教育の小・中学校が荒れ放題の収容所になってしまうというのは、むしろあたりまえのなりゆきてえもんでしょう。また、家庭におけるしつけや教育力の喪失だけでなく、いわゆる向こう三軒両隣なんてゆうような、地域社会の厚みがどんどん薄くなり、悪さをした小僧を本気で追っかけまわす横丁の中風病みの頑固じいさんなんぞはいなくなっちまった。大体が中風病みなんてゆう、瀟洒ないまどきの町の景観にそぐわねえ汚らわしいもんは、仕方ねえから病院や特養に押し込んじゃえってんで、いまは始末されちゃっているんだよ。そして、親とも学校とも地域とも薄い関係性しか持つことのできない子供たちはみんな「透明な存在であるボクチャン」になっちゃっているんだな、きっと。

 つまるところ、顔と名前が一致しないような薄い人間関係では、「人格の薫陶」はおろか「教育」そのものが成り立たないということなのです。もちろん、子供がある程度成長して、基本的な勉強の仕方をマスターしてからの高等教育や専門教育では、自学自習が基本で時に授業形式という従来の学校のスタイルでよいと思いますが、「勉強の仕方」さらにそれ以前の「しつけ」からして教えなくてはならない初等教育は、師匠と弟子が1対1の個人教授もしくはそれに準じた人数でしか成り立たないのではないかとも思います。

 結論から言えば、今となってはその役割を終え無意味・有害となってしまった日本の義務教育は、基本的に解体・廃止すべきで、初等教育は必ずしも地域の学校に通わせる必要はなく、それぞれの親の希望や経済力によって個人教授・寺子屋・塾なども学校同等としてOK、それがどうしても難しい場合のみ従来の学校に通わせるようにしたらよいと思います。

 元々我が国の初等教育は、貧しく無学な親のもとに生まれた子供を丁稚奉公などの過酷な労働から解放し、啓蒙し、均一で優秀な兵士や労働者を得るための方便として発展したもの=いわば発展途上国型教育であり、個人の自律を促し主体性ある立派な市民を作るという様な勉強=福沢諭吉のいう「学問ノススメ」とは無縁なものであったわけです。そのような欠点はあるものの、義務教育は明治時代の富国強兵やら、戦後の経済復興を成功に導いた原動力であり、発展途上のわが国を発展させる礎であったという点は賞賛されるべきでしょう。しかし、追いつくべきお手本がなくなり、国としての目標が見えなくなった現在(そのことを最も良く見抜いているのは実は子供達なのだ)、旧態依然とした教育スタイルを引きずっていることは異常で、子供がいうことを聞かず学級が崩壊しているという現象は、むしろ亭主は当然の事と思います。そもそも、高度経済成長期終焉以降少なくとも20年間以上もアップデートする事を怠り、ここまで義務教育システムを放置してきた極悪な文部省や日教組をはじめ、いわゆる教育界の人々の怠惰の責任は極めて重大だと思います。そして、たぶんきっと絶対、教育業界の裏には天下り・談合・系列など他の業界と同様の黒い利権構造がある(だから永劫に教育は改革・改善されない)に違いないと亭主は睨んでいます。

 まるでレベルの違う話ではありますが、大部分の公的病院の標準ベッドが大部屋であることにも亭主は違和感を感じます。厚生省保険局の「指導」では、一般病院の患者一人当たり病室面積の基準は4.3平米であるとされ、つまり、病気で動けなくなったら2メートル四方+α程度で寝食のすべて(+時には排泄→ご臨終でさえも!!)をするのが厚生省の決めた「国民の標準」ということです。いまどき風呂なし・四畳半・共同トイレのアパートなど苦学生でも住まないのに、入院した途端にそれ以下の生活に強制され、それが「標準」であり、個室や個人用トイレを要求する人は差額をどうぞと言いきる病院ならびに厚生省の傲慢さが嫌いです。しかもふざけたことにホテル並みに1日2万円以上差額をとる個室の設備は大抵、もっともチープなビジネスホテル以下なんだな、これが。

 結局、明治時代以来わが国では、教育も医療も「公共」または「平等」ということばに囚われ、あるいはそれを隠れ蓑として利権に群がる不届き者を排除しなかった結果、他の自由主義社会では類を見ないほどの官僚的な無競争・無批判・無分別・無責任が自己増殖を続けた結果が現在の惨状であり、どう考えても教育ならびに医療のビッグバンは火急の問題であります。