飯場の子

 亭主が子供の頃の昭和40年代は、高度経済成長期であったせいか、住んでいた東京の北のはずれでも、様々な公共事業なんかで土木工事が多かったせいで、しばしば出稼ぎのおじさんがやってきました。彼らが寝泊まりするのが「飯場」とよばれる仮設プレハブの小屋で、中には子供連れで各地の現場を渡り歩く職人もいて、短い場合は数週間、長くても2-3ヵ月の間転入生として同じ小学校の同級生となる子供は「飯場の子」と呼ばれ、飯場の子はクラスに1-2人はいました。学校がすぐ変わるせいで、飯場の子の殆どは教科書を持っていませんでした。亭主はこの季節・梅雨入り前の初夏になると思い出す飯場の子にマエザワ君がいます。

 マエザワ君が転校してきたのは5月の連休明けだったと思います。当時でも珍しいくりくり坊主頭で、はっきりした大きい目玉と長いまつげの子供でした。マエザワ君は他の飯場の子と違ってお母さんと二人暮らしでした。なんでもお父さんは現場の事故で入院して動けないそうで、お母さんは飯場で「おさんどん(=飯炊き)」をしているということでした。マエザワ君は、小柄ですがとても運動神経の良い子供で「天下大名(=小規模なドッチボールのようなローカル遊び)」なんかもすぐ覚えて、すぐ休み時間の人気者になりました。

 5月も下旬になるとマエザワ君はよく、学校を休むようになりました。理由ははっきりしませんが3日間続けて休んだ日、学級委員長だった亭主はほかの子供達と3人で給食のパンと宿題をもってマエザワ君のうちへ初めて行くことにしました。あらかじめ聞いて知っていた飯場には、マエザワ君とお母さんは居なくて、でてきた土方のおじさんは、マエザワ君とお母さんなら町外れの飲食店の2階にいるといいましたが、そこは以前から大人達からは子供だけで行ってはいけないと言われていたところでした。好奇心もあり、何よりまだ明るい時間だったので、その三業地へいったところすぐにおじさんの言った小料理屋が見つかりました。半間ほどの細い暗い黒板塀で囲まれた路地の外階段から2階にあがってみると、4畳半ほどの狭い部屋にマエザワ君とお母さんはいました。しかし理解できないことにマエザワ君のお母さんは昼間から布団に横になっているのです。かといって熱があるわけでもなく、妙に慇懃にいつも息子がお世話になっていますなどと言うではないですか。さらに不思議なことは、この部屋には二人以外にもう一人若い男の人が居て、その人は年格好からいってもマエザワ君のお父さんらしくなく(だいいちお父さんは怪我して入院しているはずじゃないか)妙ににやにやとこちらをみています。マエザワ君はちゃぶ台で折り紙をしていました。給食のパンと、宿題のドリルを渡すとマエザワ君はとても困った顔をしていました。あと、何を話したのか良く覚えていないのですが、途中で若い男がお駄賃だと言って1人ずつにちり紙のつつみをくれました。

 帰りの道すがらつつみを開いてみると中には伊藤博文の千円札が一枚ずつ!。当時は国電の初乗りが大人20円ぐらいの時代ですから、現在で言うなら1万円ぐらいの大金を子供ひとりずつにくれたのです。マエザワ君もお母さんもあまり裕福でなさそうなのに・・、そもそも病気でもないのに昼間から布団を敷いているお母さん・・、あやしい若い男・・。これらは小学2年生にとっては全く理解不能な状況でした。結局、その次の日もまた次の日もマエザワ君は学校に来ませんでした。先生が心配して家庭訪問をしたときには、飯場にも小料理屋の2階にもマエザワ君とお母さんは居なかったそうです。

 「スワロウテイル」という映画の中で、アゲハが子供の時、お母さんがお客さんを取っている間、狭いトイレで声を潜めてお母さんの仕事が終わるのを待っていた・・。トイレの窓からきれいなアゲハ蝶が入ってきた・・それをお母さんに教えたかった・・・。という様なシーンがあって、亭主は急に30年前のマエザワ君を思い出しました。

 アジアの一角の東京の、ほんのちょっと昔の話でした。