恐怖の世間様

 政治家をはじめ、偉い人が悪いことをして捕まったときに必ずいう言葉で「私は潔白だ、しかしこのようなことで世間をお騒がせして申しわけない・・」てのがあります。本当に潔白を信じているならば、誤解を解くように努力すべきであり、謝る必要はないわけですから、こういう言葉をいう人は「論理性」という点で明らかに破綻した、不条理な欠陥人格ということになります。十代のころ、亭主は偉い人たちの、こおいった言葉を聞いて「何と不条理な」と思い、大人になるためには「不条理」というものを勉強しなくてはならないと思い込んだ勢いで、カミュやカフカはたまたつげ義春や赤塚ギャグを読みふけってしまったのがどうも災いしてしまったのか、いまだに世間受けする、大人らしい言葉を使うことができません。今回は、この国では学のある偉い人が、いったいどうしてこんな意味不明のことをいわなければならないのか?ということについて考察してみようと思います。

 「よのなか」を意味する言葉に「社会」というのと「世間」という二通りがあります(他にも単に「世」とか「世界」とかいういい方もあるけどとりあえず省略)。そこで、先の偉い人のセリフのココロは、「社会」に対しては「潔白」を主張するが「世間」に対しては謝罪するというところでしょう。つまり日本人にとっては「よのなか」は二通りあって、それぞれをなんの矛盾も感じないで使い分け、暮らしていくことが「大人になる」ということなのです。「社会」は明治時代以降に造られた言葉であり、それに対立する「個人」があって初めて成立するものですが、残念ながら明治時代以降の我が国の教育は、優秀で均一な兵士や労働者を大量生産することが目的であって、今日にいたるまで「自立した個人」を目指す方向ではないわけですから、いくら学校で「社会科」があって、建前としての世の中の仕組みを勉強してみたところで、大人になっていざ世の中に出てみれば、「社会科」の知識など何の意味もなく、わたる世間では地盤・看板・かばんに血縁、それにヤクザ屋サンなどが幅を効かせているわけです。「社会を明るくしましょう」ということはあっても「世間を明るくしましょう」とは誰もいわない事からも明らかなように、「世間」というものは個人の力などが及ぶはずもない、改訂不可能な絶対権力、いわば一種「宗教」のようなものとして存在しているのです。そしてわたしたち日本人はつねに「神様・仏様」を信仰する代わりに「世間様」の顔色をうかがい、「世間並み」であることを是として生きてきたのです。

 本来、文明を開化するにあたって、さまざまな迷信を払拭するように「世間システム」の廃止・見直しは一番必要であったにもかかわらず、近代化を急ぐ明治時代の政府は、表面的な法律や制度は西欧の「社会」で行われているものをそのまま輸入して、伝統的な「世間システム」には手をつけずに継ぎ木した「和魂洋才」といわれるねじれ構造がそのとき生まれたのです。ともあれ、建前では日本は自由で民主的な国であるということになっているわけで、小学校や中学校の先生は生徒にそう教えるわけです。しかし、社会正義や道徳といった建前を教える先生の側にもお互い同士を「先生・センセ」と呼び合うような、いやらしい「先生世間」というものがあるわけです。

 「・・・考えてみると世間の大部分の人はわるくなることを推奨している様に思う。わるくならなければ社会に成功はしないものと信じているらしい。たまに正直な純粋な人を見ると、坊っちゃんだの小僧だのと難癖をつけて軽蔑する。それじゃ小学校や中学校で嘘をつくな、正直にしろと倫理の先生が教えないほうがいい。いっそ思い切って学校で嘘をつく法とか、人を信じない術とか、人を乗せる策を教授する方が世の為にも当人の為にもなるだろう・・・」

 というのは夏目漱石の「坊っちゃん」の一節です。無鉄砲な新任教師の目から見た赤シャツやのだいこといった「先生世間びと」の汚さや滑稽さをわらうというスタイルで、根本のテーマは「社会」対「世間」という普遍的なものであるため、現在でも読み継がれているのでしょう。しかし結局、赤シャツやのだいこはそのまま居続け、主人公はひと騒動おこしただけで、東京に遁走して鉄道技師になるしかなかったのですから、「勝った」のはむしろ赤シャツやのだいこといった「先生世間びと」の方だったわけです。亭主は中学生ぐらいの時に読んだときは、単純に主人公の「坊っちゃん」に近い気持ちで読んだのですが、最近読み返してみると、むしろ薄汚れた赤シャツやのだいこの方に親近感をおぼえる場合もあり、面白いものです。漱石の「坊っちゃん」には都会もんの驕りというか、田舎もんを馬鹿にするような事がしばしば出てきますが、世の中の地縁・血縁は田舎にいくほど強く、世間様の力も強いのですから、しかたありません。単純に文明開化が進んで田舎も都会化すれば世間様の力も弱くなるだろうという思い込みが主人公あるいは漱石にあったのかもしれません。ところで、明治以来田舎の人は東京にあこがれ東京の人は欧米にあこがれ邁進してきたのがこの国ですが、外国には世間様はないのでしょうか?

 亭主は海外生活の経験がないため、あちらさんの世間がどんなものであるのは想像するしかありませが、たとえば如何にアメリカ人が自由でフランクであったとしても、いつもグローバルな考えで暮らしているとはとうてい考えられず、一人一人の日常は、アメリカ版「向こう三間両隣」的な世間システムの中で暮らしていらっしゃるなんてことは想像に難くありません。ただ、彼の国が違うのは世間システムよりももっと上位のシステムである「宗教」や「民主主義」なんかが結構健在であるということだと思います。我が国がやばいと亭主思うのは、この国では「世間並み」であることが最上等であり、「世間様」より高度な、「宗教」や「民主主義」といった上位の価値判断システムを欠いているということなのです。つまり、人が人としてなにをなすべきかといった、根元的な疑問を問うことは無価値であって「納得いくまでとことん考え、主張する」のではなく単に波風たたずに「世間並み」であれば(ジョシコオセエがぁ〜エンコウしててもぉ〜)立派であるというのがこの国なのです。これでは人間精神はどんどん堕落してしまいます。いや、すでにその成れの果てがこの有り様かもしれません。

 「・・・このまま行ったら日本はなくなって・・その代わりに無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである・・・」三島由紀夫・自決の年(1970年)より。

 この国には、戦前は世間様以上に力の強い「天皇陛下様」がいて、名誉の戦死をした後は、その出自が百姓世間であろうが華族世間であろうが関係なく平等に「英霊」として靖国神社に奉られるという、まことに結構な国家神道の信仰が勧められたりしていたたのが、戦後は軍国主義でダメてえことになりました。また、戦後学生運動の盛んな時代には主に左翼共産主義の「イデオロギー様」が流行った時代もあったようですが、結局いずれも過去のものとなり、他に替わる信仰や宗教をもたないフツーの日本人の間では「世間様」の一人勝ちが続いて今日に至っているわけです。ですから漱石の時代よりも、文明はいささか開化したかもしれないけど、ますます世間様の力は強くなる一方で、いわば人間精神の芯を持たず、そんなもんは屑篭に捨てちまったおかげで自由だぜぇってうそぶいている私たち日本人は、いくらお金持ちでも世界の笑い者でバカにされるしかないわけです。

じゃあどうすんのお〜 ?(゚ー゚)?。

やっぱ、ウヨクになるっきゃないかなあ (^^ゞ。