連々
(1)
今日の予想気温は26度でしたけど、やはり暑い‥‥。
部屋のちらかってるのがうっとうしくなってきます。
テラス側のガラス戸を開けると、風が玄関まで通り抜ける鰻の寝床。
そういえば、京都の旧家の土間が奥まで通っていて、
そこがあらゆる物を格納したり、作業したり、調理したり、
こまごまといちいち座敷や外回りを出入りしなくても
てきぱきとこなしていける「場」になってるのには感嘆してしまいますね。
土間に面した板間の開放的な立体感と各部屋の仕切りの融通自在さ。
ま、うちなんかやと、たちまちぐちゃぐちゃな混乱状態に
してしまいそーな気がしますが‥‥。(^^;)
これとは異なりますがぁ、各階に狭いひと部屋しかない5階建ての
細長いビルにしばらく住んでいたことがあって、
奇妙な空間感覚に酔ったような気分の日々でしたね。
92.6.
(2)
現実感が希薄になってきたら、
眼前の光景がぺらぺらとうすっぺになり、
ひとたちが操り人形のように見えてきたら、
土を握り、草実を噛み、鍬をふるって耕す。
動物たちと戯れるのもいい。
生理機能の、感覚器官のありったけを喚起して、
大いに泣き、大いに笑い、世界に身を投げてみやう。
ああ、そんな機会を与えずに、そんな欲求に駆りたてずに、
見ための美しさ、ひそやかな喜び、魂のやすらぎばかりを
説いてみせたとて、なんになったらう。
ああ、生命の泉をこんこんと溢れさせずに、
血の流れを、呼吸の刻みをわがものにできずに、
世界のよそよそしさに苦しみ悩むままに
かすれて消えていった人たちよ、
蒼ざめた唇よ、さようなら‥‥。
92.6.8.
(3)
びーどろを吹く女という浮世絵の ○>=== の形したガラス管球は
ポコペンと鳴らして、硬質の響きとあやうさを楽しむのでしょう。
遠くはるかな世界の静寂にすいこまれていく黄昏のポコペン……。
* * *
ベネチア・ガラスのグリーンや淡いブルーの水差しを
もっていたけど、みな割れてしもて、さみしさみし。
クリスタルもいいけど、いかにもこれみよがしに燦然としてるとこが
飽きを引き出してしまう。
92.6.12.
[up]
言葉
(1)
さて、「言葉とは何ものか」という問いですが、
有史以来、何十何百億もの人間がそれについて何度か
自問してきたことでせう。
むろん、哲学者をはじめ何万もの学者、研究者、宗教家等々が
それに答えるべく一生を費やしたことも想像に難くないでせう。
旧約冒頭に曰く「初めに言(ことば)ありき」。
これは、神との契約の言葉でせうか。言霊(ことだま)でせうか。
言霊といえば、本居宣長から折口信夫(釈迢空)にいたる神道的観念でも
あるようですが、人類の歴史が「言葉」に反映され、言葉がある意味で
「血肉」を備え、人間の意識の産物でありながらあたかも実体を備えた
外化物(もの)として存在するに至ったことを示してもいるのでせう。
意識の産物でありながら、社会的制度/規範のもとで実体的に作用する
言葉によって、人間が疎外されてきている歴史もまたあるのでせう。
ラングとパロールという相乗しかつ背反するこの二重構造はソシュールの
構造主義言語学によっていろいろと研究されてきているようですが、
日常でも、一定の社会的規範(制度/慣習/モラル等々)の制約下において
しか個人の言葉は通用しないわけで、その社会的諸段階の認識をもって
言葉を発するのが「基本」となっているのでせう。つまり、親しい友人親族
間の会話と、近隣職場での会話とでは、おなじ「単語」「文」でも異なる
意味を形成して相手に受け取られてしまうということですね。
スムーズな対話を阻害するのはこの基本だけではなく、状況認識の相違や
言語観の相違、地域差等々いろいろあることでせう。
さらに、個人の望んでいる対話のあり方や表現しようとしているものについての
社会的認識の相違等々ありますが、個人の信用利害に関わる「阻害」を解き
ほぐすかどうかもまた、その判断は状況に左右されるでせう。
個人を「超越」して脱俗的心境にある人にとっては、個人間の「争い」などは
ただ醜く、どうでもよい瑣末事にしか思えないことでせう。
言葉はそれが神言であっても詩言であっても、ひたすら人間という俗なるものの
地平で発せられ受容されるものでせう。俗なるものを「超越」した言葉は
俗なるものの地平から飛翔せんとするものにこそ意味あれど、地平に這いずる
俗なる衆生には縁無きもの。俗なるものの地平には俗なるものの規範と言葉とが
あり、利害もまたそこから発しているがゆえに。
むろん、言葉も変化し、規範もまた変化するのは歴史の教える通りでせう。
「言葉とは何ものか」と問うとき、人はおのが言葉と意識的距離を置き、対自的
な検証をおこなっているのでせう。
「仏とは何ものか」「信仰とは何ものか」「神とは何ものか」
「世界とは何ものか」「人間とは何ものか」等々、言葉とは個人の段階では、
意識の産物であり、その実体は「無」であるといえるでせう。
言葉とは常に何ものかであり続けるが、何もののいずれの実体でもないもの
でしかないともいえるでせう。
言葉と個人の間には無間の深淵があり、人間が言葉を発するのは、ある意味に
おいて「絶望」に賭ける行為であり、さればゆえに、人間と人間とを親和的に
結びつける強力な作用をもなすのでせう。
……とりとめもなく。
(2)
「文学」というのは念頭においていませんでした。
文学的立場とか文学論から言葉をとらえるのは、それもまた
文学も種々ですのでいろいろと複雑で一口にまとめるのは
至難でせう。
あくまでも日常の暮らしでの言葉ということです。
また、非日常なことがらや現象や経験を記述し表現するにも
日常の次元での言葉を使うわけで、限界がありますね。
その表現されてしまうものと限界とをよく知らないと
非日常の表現に「近づく」ことができないでせう。この辺りに
文学的なものとの近接がありうるでせう。
別に言語学が専門ではなく、なにかが専門というほどの学は
まったくありません。ただ、乱読ばかりで愛読書なるものもありません。
少女時代に影響を受けたのは、日本と海外の詩書、演劇書、文学書
や思想哲学書、ギリシア悲劇集、神話寓話伝承集、大乗仏典、聖書等の
宗教書、資本論等のマルクス文献、論語等の漢籍などなど月並なものですね。
むしろ画集などを飽かずに眺めていたようですが、高価で買えませんでした。
さて、余談ですが、神仏も菩薩明王も「怒る」のでせう。
人間も諦念をもちつつ怒ることがありうるでせう。
一切無。無においても怒るはなに故にや。
口中から炎を発しつつも、心中無なるや。
93.2.
[up]
先斗
(1)
井原西鶴の『本朝二十不孝』巻3-2 に、
「ある時、小家に集り、賀留多の勝負をはじめける。
かやうの人の、小判を二十両づつ、先斗(ぽんと)
にはられしを見て、近所の人、これを驚き……」
とあるのですが、
松田修氏は、この「先斗(ぽんと)にはられし」を
従来は「まっさきに賭ける」という意味に解されてきたのに対して、
もしも「先斗(ぽんと)」が、ポルトガル語の「ponto」に
由来するのなら意味が違ってくると述べておられます。
つまり、「ponto」というのは、
カルタ遊びの中の、ある段階で
「それぞれの手の内を見せて決着をつけること」であり、
その決定的瞬間の掛け声でもあったので、
「そのようなチャンスを選んで思い切りよく勝負に出ることを、
先斗(ぽんと)にはる」といったのではないかと
考察されたのです。(歴史読本1974.1「かるたの魔力」)
こうしてみると、
/^^ 富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も
溶けて流れりゃ みな同じ〜
という歌は、勝負が解けたら皆一場の夢と化すのに通じるのかも。
うーむ、京都先斗町は、カルタ賭博の巣窟だったり、
あるいは投機的取引の市が立つような地域だったりしたのかしら?
93.3.24.
(2)
le pont ポン
フランス語で[橋][架け橋]ですが、
ポルトガル語では、ポントスだそうです。
で、『大辭典』によると、京都の先斗町の「先斗(ぽんと)」の
由来は、このポントスからきているのではないかといいます。
で、どゆ橋かといいますと、
昨年の NHKドラマ「織田信長」にも出ていたような
切支丹の[南蛮寺]の外溝に架かる橋だったといいます。
当時、信者だけではなく、見物人も繁く訪れたでせうから
門前にはいろいろと茶店なども立ち並び、賑わっていたものと
推察されますね。
馴れぬ耳で、ポントス→ポントになることはありがちでせう。
93.3.27.
[up]
反映
あちら(ヨーロッパ)の神話に出てくる神/精霊というのは、
根底に、非情さ、独善さ、強い個人主義、意地の悪さ、
ひっくるめて、アンチヒューマンな面を持ってると感じます。
で、これは、あちらの人たちの「夢」(抑圧された潜在願望)を
表してるんじゃないかなぁ、つて思うんです。
頂点に無慈悲・絶対のエホバを持っていないと、
たちまちばらけてしまいかねない共同体ということを考えてしまいます。
せいぜい半島から日本列島に閉じこもってた日本人とは
ずいぶん違うと思います。
90.8.17.
[up]
好き
定義上の問題が絡んでるようなのですが、いちおうわたしの考えを
述べておきますと、「好き」「嫌い」は「感情」であり、その感情の
言語表現であるわけです。「あの石ころが好きだ」「この机は嫌い」という
感情です。この例での感情は、具体的な石ころや机を見たり想像したり
してあれやこれやと意識の対象化をしつつ、それに伴って生起されたところの
感情なのです。ただ単に「好き」「嫌い」という表現は、それ自身の
ほかにはなんの対象をもっていませんので、指示的意味としては空疎です。
が、「○○子さんが好きだ」として、○○子さんに対する感情を、石や机に
対する感情とは別の、あるいはそれ以上のなにかを意味する「気持ち」として
意識しているのでしたら、それは、ただの好き嫌いの感情ではなくて、
別のものを好き嫌いという感情表現で表現していることになるでせう。
恋愛は多大の、あるいは深い感情的反応を伴うがゆえに、それを
感情的表現で置き換えて表現してしまいがちだともいえるでせう。
あるいは、「好き」という言葉は、感情用語として以外にもいろいろと
恋愛や思慕やさまざまな欲望の対象についての執着的な心的作用を示す
表現として用いられるとしてもよいでせうけど。
学術語的な概念に沿っていこうとするのか、日常のおおまかな用語として
あいまいに超広義的に用いて会話していこうとするのかで、そうとうな
ずれが生じてくるでせう。
このような「感情」表現が誤りだとはいちがいにはいえません。
たとえば、「国民感情」という言葉がありますが、「原発に対して日本人は
嫌悪する国民感情がある」というような場合、これは安全かどうかの理屈を
超えた、論理的には説明し難い心的傾向を示しているといえるでせう。
つまりは、原発への国民に共通する判断傾向を示しているに過ぎないのですが、
その判断根拠をうまく説明できないために「感情」という用語を使っていると
いえるでせう。日常的には「感情」表現は便利なわけです。
なにかに対して、肯定・否定の判断を提示する際に、「好きだから」とか、
「嫌いだから」とかの感情を「根拠」にするとそうとう強力でせう。
筋の通った理由説明をしないですますことが可能になります。
(むろん、仕事の場面などで感情を根拠にしたら、変人扱いされるでせうけど)
ほんとうは、なぜ好きなのか嫌いなのか、本人は薄々解っていても
それを提示して他者に説明したくない事柄であるかもしれません。
1993.
[up]
春の鳥
春の鳥な鳴きそ鳴きそあかあかと
外(と)の面(も)の草に日の入る夕べ 白秋
童謡誌『赤い鳥』の誌名からの連想か、なんとなくこの「春の鳥」が朱の
鳥のような気がしていました……。
この時期、西のオリオン座から双子座、蟹座、獅子座とあって、蟹座の下
にある海蛇座(HYDRA) の赤い星アルファルドが目につきます。
中国の『尭典』(B.C.2300頃)では、このアルファルドを春分の頃に南中す
る星として「星は鳥、以て仲春を殷(さか)んにす」と記されているそう
ですが、この「鳥」とは、四神のひとつである朱雀または朱鳥といわれる
鳥のことです。つまりは、鳳凰でもあり、もとは風を司る神でせうか。
『春秋左氏伝』魯王昭公伝十七年の条に鳥の名を官名にしたいわれが述べ
られていますが、殷王族は玄鳥(=燕)をトーテムとしていたことになる
ようで、殷の始祖は燕の卵を呑んだ女性から生まれたという伝承がありま
す。周に倒された後、殷の一族が立てた国の名が「燕」というわけですが、
燕をトーテムとしていたなら、それは季節風によって大航海をする海洋系
民族との関連が推測されます。春に来たる黒い鳥、燕です。
あそふともゆくともしらぬ燕かな 去来
(参考「星三百六十五夜」野尻抱影、
「日本語の発祥はメソポタミア」川崎真治)
1993.
[up]
十代
十代のある時期、ひとり暮らしをしていました。
うちの「勤労少女」時代ですが、本の虫で、
貧しさも人一倍、せっせと図書館に通ったのです。
厚い何巻もの詩集大成とか、世界文学全集を繰り返して
読みふけったものです。
ノートに写して、仕事の休み時間にまた読む……。
すてきな作品、感動した詩篇、いま再読してみても、
その時の印象のよみがえりはあまし期待できないでしょう。
図書館は、数学にも科学にも関心をもたせてくれました。
棚の端から順に並んだ本をみんな速読してしまうようなことも
試みました。わからないことがあるとすぐに関連の書物が
何冊も探せました。図書館で育った「独学者」には、
どこかしら[変屈]さが身につきがちです。
現実からの逃避を書物の迷宮に求めてしまったりします。
ある日、図書室に入ったうちの視野にある全ての本が
うちに[背]を向けて、かたくなに拒否しているように
見えました。うちの心の奥からささやきが聞こえました。
「おまえの生活に戻れ」と。
90.10.29.
[up]
月下の書
一昨夜、深更に、東の空を見上げると暗く濁った橙色の、
下弦の細い月の下、静まりかえった商店街の狭い道を
歩いていると、なにやら白いもの、拾い上げてみると
頁が開かれた日本史の参考書。
近くの自動販売機の明かりで一瞥すると、人名や事件名が
並び、ゆくりなく学校時代の記憶を甦らせる。
もの覚えがよいほうではない。ある時期までに邦訳された
海外ミステリー、海外SFは、虱つぶしのよに、ほとんど
読破したが、その大半の題名も著者名も忘れ果てている。
古典に関しては、東西の文学、演劇、詩歌、哲学思想、
手当たり次第に読み通したが、これまた、すっかりと
忘却の淵に消えてしまっている。
勘はいいほうだと思う。初見の古文でも、だいたいの意訳を
やってしまう、国文法などまったく身についていないのに。
が、やはりもの覚えはよくない。好きなアメリカの歌の原詞を
メモして、毎日口ずさんで覚えた曲も、いつしかおぼろな記憶。
どんなに流行った歌でも歌手や題名をめったに覚えていない、
覚えようとする気もないが。
考えてみれば、数学や物理化学の公式など、みな忘れている。
だから、そのころに得た文学や音楽の知識など忘れても当然といえば、
当然かもしれないが、趣味的に没頭したものまで忘れているのは
やはり、もの覚えがよくないと思える。
一般にもの覚えがよいとされる若い十代のころでもそうだから、
それ以後はなんにも覚えないし、忘れたことさえ、忘れてしまっている。
そんな暗く細い月の下、道を歩いていると、なんという不幸か、
かつての知識の詰まった書物に出会う。
その夜は、それに読み耽ってしまう。
96.10.
[up]
夕涼み
「夕すずみ よくぞ男に 生まれけり」なんつー句がありますがぁ、
これ、俳句協会にたずねると、「俳句」ではありませんっつーことで、
で、川柳の本をちらちらのぞいても見当たりまへんのどす。
狂歌の一部かもしれんしぃ、小唄どどいつの一部かもしれんしぃ、
でも、川柳のよーな気がするのですがぁ・・・
柳の木蔭に縁台すえて、へぼ将棋、
蚊をうちわでぱたぱた、横では子供が線香花火・・・
* * *
俳句・川柳以前の、談林派的な発句のよな感じですがぁ、
明治以降の近代っぽいにおいもします。
月影のふところにさす浴衣かな 玉城
(91.7.14-15.)
[up]
砂漠
砂漠というものは、ロレンスもゆーてたけど、
絶対的光景であって、
人に「反省」を強いて、
究極の問いに立ち会わせる……
荒野の修行はそんなものでしょうが、
視界すべてが、昼の灼熱、夜の深淵たる星の宇宙
嵐の砂……、そこに投影されるのは、自らの全人生……
この光景において、「汝はなにものなるや?」
自らの発するものは全て幻影でしかありえない……
91.3.18.
[up]
(笑)
(笑)というのは、もともと座談会などの記事に、ある人の発言で
座に笑いが発生したことを、簡略に表現する方法として使われて
いたものですが、ある時期(80年代前後かな?)から
自筆文にも、自分の「笑う」行為を、
(笑)という書き方で示すようになってきたわけです。
つまりは、もともと普通には、他者の笑いを引き起こしたと、
客観的な座談会記事のまとめ人(編集者など)の判断で
記述されていたものが、
自分の文を自分で笑うという、主観的な任意の、自嘲的な感情表現
のしるしとして多用されるよになったわけです。
おもしろくもおかしくも無い発言に、(笑)とつけるのは
1)自分ではおもしろいこと言ったと思いこんでいる
2)(笑)で、前言をむりにジョーク扱いにする
A.ほんとはジョークでないが、非難をかわす手段
B.むきになりすぎたので、ださいと思われたくないために
ジョークふうにみせかける手段
3)自分ではおもしろくないが、読んでいるものには
(笑)を誘うことだろう、つー推測を書き手のわたしには
わかってるんだよ、という反応先取りの(笑)。
4)単に飾りで(笑)を付ける癖がついているだけ。
付けないと、なんとなく落ち着かない。
5)どんな感情でも(笑)としか書けないタイプ。
6)ひとりでニタニタ笑ってるほとんどビョーキのタイプ。
うちの場合、(^_^), :-) なんかは、許容でけるし
自分でも使いますが、
(笑)(爆笑)を多用しているものは、
「つまらない冗談」に対して笑いを強制されてる感じが
するので、ちと嫌な気分になります。
7)もちろん、てれ隠しの(笑)つーのもありますが、
この辺は、いわゆるアルカイックスマイルふう
「ぶきみなジャパニーズスマイル」ってものかもね。
90.8.29.
[up]
和讃
一つ積んでは父のため
二つ積んでは母のため
兄弟わが身と回向して
昼はひとりで遊べども
日も入合いのその頃に
地獄の鬼があらわれて
積みたる塔をおし崩す
『他人の血』のテーマは
<他人は地獄>という状況の
のり超えだったか...
あれから幾歳月、いまや
<老いが地獄>と称して
ポックリ寺に通う親戚のおばあさん。
わが手で河原の石を積まにゃならにゃい。
ああ、ハテナの塔を積まにゃならにゃい。
90.9.5.
[up]
雪虫
雪虫どすかぁ、綿虫(特に大綿虫)のことやと思いますが、
雪蛍ともいいますね〜。もう 10年以上も見てないかしら。
嘘を言ふショール臙脂(えんじ)に雪ぼたる 飯田龍太
たそがれどき、小さく青白い光をみせてただよう綿虫も、
あでやかな女の飾りとなるらむ。
そういえば、赤とんぼも都心では見た記憶が無いし、
(かなり郊外に出るとお目に掛かれたりしますが)
こうもりや鬼やんまや水すましや……、
大阪での子供時代にはまわりにいたのに、
こちらではとんとごぶさた。
もぐらや蛇やひきがえるなんかは庭でみかけたけど。
綿虫となりし命のひとかたまり 萩原麦草
しらしらとゐてわた虫のとぶ寒さ 長谷川素逝
綿虫はアリマキの一種で、初冬期、雄が生殖のために
腹の末端から綿のよな分泌物を出し、うす青く光らせて
ふんわりと飛びます。
96.11.