94/11/23 地名
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Kam-as -e - gal カム・アシ(ュ)・エ・ガル ウル語
第 -1 -家- 大
↑これで、第1神殿を意味しますが、日本風にいえば、「一の宮」
です。沖縄・久高島では、イザイホーの祭で神女の籠る神殿を「カ
ム・アシャギ」といいます。 ガル→ gal > gay > ge > gi ギ。
書紀で、宇佐媛と結婚した天種子命の作った宮が「アシ・ヒト・ツ
・アガリ・ノ・ミヤ(一柱騰宮)」といい、「アシ・エ・ガル」と
「ヒトツノミヤ」とが重なっている語です。
〔as-i-hito-z-e-gal-i-no-miya〕
^^ ~~~~~~ ^^^^^ ~~~~~~~
川崎説では、橿原、香椎が、ウルの司祭を意味する「カ・ァシュ・
バル(←神の口)」に由るとしています。(カ=口)
ウル語 Ka-as-bar, ka-as 沙庭、神官。
これまでに紹介しましたウル語、シュメール語、セム語などで、上
のような伝播の仕方を参考にしていけば、だいたい古代の地名は解
けていけそな気がします。
が、今回は、古期朝鮮語での解釈例を以下に紹介します。
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磯城(師木)シキ ‥‥ シキ = 石に囲まれた聖域、山城、村邑
層富(添) ソフ、ソホリ ‥‥ ソホリ、ソフリ = 都
高尾張 タカヲハリ ‥‥ タカヲ = 小高くなった所。 ハリ = 邑
和珥 ワニ ‥‥ ワニ wannim = 王様
磐余 イハ・フレ→イハレ ‥‥ フレ = 村邑、聖地 → ハル、フル、ハラ
葛城 カツラキ ‥‥ ? カルラ = 加羅(弁韓)。 キ = 城
加須賀 カスガ ‥‥ カ = 加羅。 スカ = 村
スカは、セム語のスクの転。
枕詞「春日(はるひ)の加須賀」
飛鳥(明日香) アスカ ‥‥ アを安羅とするか、ウル語 as とするか。
アスカをイシャク<司祭>の転とするか。
枕詞「飛ぶ鳥の明日香」
草香(日下、孔舎衙) クサカ‥‥ ク = 大。 サカ = 村
奈良 ナラ ‥‥ ナラ = 王・王宮・国・野
対馬 ツシマ ‥‥ ツシマ = 二島
狗奴 クナ <魏志倭人伝>‥‥ ク = 大。 ナ = 国
茅淳、茅野 チヌ ‥‥ チヌ = 主野
熊、前、隈、久万 クマ ‥‥ コム = 神
安芸、秋、安吉 アキ ‥‥ ア = 安羅(安那)
斑鳩 イカルガ ‥‥ イ<接頭語> + カル(加羅、加耶) + カ(処)
カルラ(弁羅=川の分岐地帯)→カラ(加羅)
任那 ミマナ ‥‥ ニムナ = 主地・本国
桂 カツラ、勝浦 カツウラ ‥‥ カルラ = 弁羅→加羅
〜根 〜ネ ‥‥ ニム = 主
穴、阿那、荒、綾 アナ、アラ‥ アナ = 安那 アヤ = 安邪 アラ = 安羅
太良、 多良、多羅 タラ ‥‥ タラ = (加羅の)太羅
狭城、佐紀 サキ ‥‥ サ = 沙羅(→斯羅、新羅) 金、金属 キ = 城
白木、志楽 シラギ ‥‥ シラ、シラギ = 斯羅、新羅
讃良 ササラ ‥‥ サラ = 沙羅(新羅)
須岐、須玖、宿、須賀 ‥‥ スキ、スク = 村邑 →スカ、スガ、サカ、ソガ
都留、水流 ツル ‥‥ ツル = 野原
成〜 ナリ〜 ‥‥ ナリ = 川
巻、牧 マキ ‥‥ マキ = 馬城
牟田 ムタ ‥‥ ムル = 水 + 田 → 湿地帯
額田 ヌカタ ‥‥ ヌカ = 湿地
箱根 ハコネ ‥‥ ハコ = 神仏
〜古、〜子 〜コ ‥‥ コ = 場所、土地
〜尾 〜ヲ ‥‥ ヲ = 山の稜線、小高い所、岡
〜家、〜鹿 〜カ ‥‥ カ = 処
〜羅、〜浦 〜ラ ‥‥ ラ = 国・土地 → ナ、ヤ
御、三 ミ ‥‥ ミ = 神
諸 モロ ‥‥ モロ = (神の降りてくる憑りしろの)森
熟田、仁木田、和田 ニキタ‥‥ ニキ = 表面がこなれてしなやかな様 → 熟
吉志、岸 キシ ‥‥ キシ 吉士 = 新羅官位第14等 吉師 = 王族
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枕詞というものは突きつめると謎だらけなものですが、たとえば
「足びきの〜」がなぜ「山鳥」の枕になるかと考えますと、鳥の
尾羽が足をひきずるほど長いのかと想いかねません。(^^;)
が、これは、山霊神が、男神アシュなので、山はアシュの領域、
(古来の山の神は男神だったよです)、領域はヒキで、アシュヒ
キという観念から枕詞になったというのが川崎説です。
94/11/24 金銀
up
箱根以東は、金本位制で、西側は銀本位制でしたが、賃金と賃銀の違い
でもあって、いまも賃金をチンギンと訓むのは、金よりも銀が強かった
名残りでせう。:-)
「沈黙は金、雄弁は銀」という格言もそれが成立した時代は、銀のほう
が価値が高く、雄弁が沈黙よりも良いとされたそうです。
スキタイは金が好きで、金製品の文化を築いたのですが、装飾性に優れ
た金も、実用性には乏しいし、銀のような「魔除け(毒物判定)」の能力
もないわけです。
『時代考証百科』『銭の歴史』等の著者、八剣浩太郎氏の説を紹介しま
せう。
たぶん人類が、自然状態に遊離していて目についた最初の金属は金だっ
たのでせう。銀は方解石の中に結晶体で埋まっている自然銀でも精練し
て成分を遊離させなくてはいけない。金に比べて銀の産出量が世界史的
に少なかった。特にヨーロッパではコロンブス以前まで東洋からの戦利
品で大半をまかなっていた。
古代ヨーロッパでは、金よりも(磁石の作用を受けない)銀が尊ばれ、
ギリシア史第一の雄弁政治家デモステネスは、「市民諸君、君らも私の
ようにように大いにしゃべりたまえ、沈黙は金の価値しかないが、雄弁
は銀の価値があるのだ」と、名セリフを吐いた、というわけです。
ところが、これが室町時代末期の日本に伝わり、のちの江戸初期に一般
通念化したときには、「沈黙は金、雄弁は銀」として、銀より金を上位
にしたのです。ま、物言えば唇寒し徳川政権、ということなのでせう。
デモステネスの前に、ピタゴラスが「汝、よろしく沈黙すべし、しから
ざれば、沈黙に優る言葉を発すべし」と言ってるように、没論理のお喋
りではなく、思考の止揚を成し得る弁論のことを指しているのでせう。
94/11/26 先斗
up
さて、PC-VANの京都ボードなどでたまに話題になる先斗町の語源
ですが、以前、次のよに書いたことがあります。
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le pont ポン
フランス語で[橋][架け橋]ですが、
ポルトガル語では、ポントスだそです。
で、『大辭典』によると、京都の先斗町の「先斗(ぽんと)」
の由来は、このポントスからきているのではないかといいます。
で、どゆ橋かといいますと、昨年のNHKドラマ「織田信長」
にも出ていたような切支丹の[南蛮寺]の外溝に架かる橋だっ
たといいます。
当時、信者だけではなく、見物人も繁く訪れたでせうから門前
にはいろいろと茶店なども立ち並び、賑わっていたものと推察
されますね。
馴れぬ耳で、ポントス→ポントになることはありがちでせう。
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『大辭典』では「ポントス」と記されていますが、阪倉篤義氏
の著によると、ponte です。手元にポルトガル語辞典が無いの
で確認できませんが、橋を意味する語幹が pont- なのでせう。
で、阪倉氏は、定説化している新村出博士の考証として、ポル
トガル語の ponta (先端) に基づいているのではないかと、紹
介しています。つまり、鴨川の「洲先」という意味で付けられ
て「先斗(ぽんと)になったのだろう、ということです。
これらの説に対して、次のような松田氏の話からの思いつきを
書いたことがあります。
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井原西鶴の『本朝二十不孝』巻3−2に、
「ある時、小家に集り、賀留多の勝負をはじめける。
かやうの人の、小判を二十両づつ、先斗(ぽんと)にはられ
しを見て、近所の人、これを驚き……」
とあるのですが、松田修氏は、この「先斗(ぽんと)にはられ
し」を従来は「まっさきに賭ける」という意味に解されてきた
のに対して、もしも「先斗」が、ポルトガル語の ponto に由来
するのなら意味が違ってくると述べておられます。
つまり、ponto というのは、カルタ遊びの中のある段階で「そ
れぞれの手の内を見せて決着をつけること」であり、その決定
的瞬間の掛け声でもあったので、「そのようなチャンスを選ん
で思い切りよく勝負に出ることを、先斗(ぽんと)にはる」と
いったのではないかと考察されたのです。(「かるたの魔力」)
こうしてみると、
富士の高嶺に降る雪も 京都先斗町に降る雪も
溶けて流れりゃ みな同じ〜
という歌は、勝負が解けたら皆一場の夢と化すのに通じるのか
も。うーむ、京都先斗町は、カルタ賭博の巣窟だったり、ある
いは投機的取引の市が立つような地域だったりしたのかしら?
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さて、橋は、桟橋のように、川という広い「場」に突き出した
ものだと考えられますし、カルタ勝負の「場」に突出していく
「先がけ」[魁]行為、あるいは「勝負」という決戦の「場」に
打って出る行為の表現でもあるのが pont- なら、ponte も
ponto も pontaも、みな同じよな類縁語にみえるわけでせう。
つまりは「洲先」でも「橋」でもいいわけですが、遊び処の店
が多かったようですから「色恋勝負」に打って出る町というの
が面白いのかも。:-)
94/11/26 沙羅
up
沙羅は、新羅の古名で、斯盧、斯羅ともいいました。
ま、インドのサカ族の系統かもしれません。
仏教の伝播とともに中国朝鮮と移動してきた形跡もあるようですし。
また、インドシナから沖縄、九州を経て、朝鮮に入った狗奴あるいは熊襲が、
昔氏となって、新羅を建てたという説もあります。
(としましたら、<新羅>対<百済=倭>という確執の図式も分かり易い)
双樹は、万葉集にある都万麻の木のように二股の樹なら、
タブの木という神樹と同じかもしれません。
(既述しましたように、タブはウル・シュメール語起源の「二」「対」)
94/12/ 3 七曜
up
日曜というのも、そうとう古いことばで、七曜はキリスト教から
西域を経て、唐に伝わったといわれていますが、もっと古くはシ
ュメールあたりにすでにあったのではないかと思います。
それはともかく、唐では、ソグド語の太陽(日)の「ミル」を音
訳して、「密」とし、その他の六曜は月曜から土曜としました。
これが密教となり、(「密曜(=日曜)」は大日如来を根本仏と
する真言密教には重要事)、弘法大師によって日本に伝わったと
いわれています。この七曜がこんにちまで続いているのですが、
中世の東国では、なぜか、3日分ずれていたといいます。
94/12/ 4 七曜/宝船絵
up
七曜にも曜日ごとの吉凶があって、日曜(密)は、拝官・習戦・持呪・
医療・祈神・入学・洗頭・爪切り等に吉で、売買・作誓等は凶だそうで
す。(岡田芳郎「暦と占い予言」)
先勝・先負・友引・仏滅・大安・赤口は、六曜ですが、元が中国の俗信
で、江戸期には、暦にもあまり記載されなくて、明治になってから盛ん
に用いられるようになったといいます。
木・火・土・金・水の五行といい、さらに、干支もありますから、いろ
いろと縁起かつぎの毎日を過ごしていたのでせうか‥。:-)
宝船絵の回文和歌、
「なかきよのとをのねふりのみなめさめ
なみのりふねのをとのよきかな」
この和歌は室町時代に中国で刊行された『日本風土記』という書に載
っているそうです。(湯浅四郎「宝船絵の話」)
94/12/ 4 宝船絵
up
最古の記録としては、後陽成天皇(在位1586-1611)が花園実久朝臣に
命じて、宝船絵を描かせ、天皇みずから船の帆に「獏」の1字を
書き、手づから版刻して、それを刷らせて、大晦日の夜に
(正月2日とか節分だという説もある)、宿直(とのい)の近臣に
下賜された、という話があります。近臣たちは、吉夢を祈願しつつ
絵を枕の下に敷いて就寝し、吉夢なら喜び、悪夢なら、
「獏よ、悪夢を喰へ」と三度叫んだということです。
明治の初期ごろまで、大晦日の夜(または正月2日か節分の夜)に、
「おたからぶね、おたからぶね〜」と宝船絵など縁起もの売りが
町々を回っていたわけです。(落語にも登場しますね)
古式によると、宝船絵にはきまりの型式があって、
1)宝珠のたま一つ
2)俵数多く書くべし
3)かぎも大小三つも書くべし
4)むかで(百足虫)を大きく書くべし
5)砂金袋を三つも書くべし
6)船頭二人もあるべし
このほか、獏の字、鯛二尾、海老二尾、宝蓑、若松、柄杓、水標(みおつくし)、
回文の和歌、その他を書き添えるのが、いわゆる「有職故実」ふうの
宝船絵というわけです。
ま、庶民の習俗となってからは、七福神を乗り合わせる絵が
多いようですが、元は、1〜6が船に載っていればええわけで、
簡単なのは、小舟に稲一束というのもあります。
94/12/ 5 百足
up
宝船絵の説話の最古は後陽成天皇時のものなのですが、
絵は、延徳年間(1489-92)に、画僧秋月によるものが
遺っていると伝えられているそうです。
また、室町幕府の蜷川相模守旧蔵本にも、
画家相阿弥の絵を模写したものがあるといいます。
研究家の湯浅氏によりますと、そもそも、中国の唐で
年末に<舟を新造して、窮鬼(厄病神)を乗せ、遠い海に流して、
災厄を祓った>という儀式があって、これが変形して日本に
伝わって、室町期には、かなり「宝船絵」が盛行していたようだ
と、述べてはります。
となりますと、もともとは、福神ならぬ厄病神を流していたことに
なるわけで、それよりも福神を船で招きよせようというのが
日本の発想なのでせうか。:-)
が、わたしは、遠い起源に、精霊流し、雛(依り代)流しがあるのでは
ないかと考えます。ま、もっと古くには、海洋系民族が
遺体を舟に載せて流した葬礼や、海の彼方の常世(ニライカナイ)思想に
関係あるのでせう。
「百足は死んでも倒れぬ」という言葉があって、
<万一の場合に親類知己が多いと助かることもある>ことの比喩です。
宝船絵の百足は、たくさんの脚で、福徳を掻き集めるという意味のように
思えます。(ま、漕ぎ手の多い船をムカデ船ともいいますが。)
そもそも、百足は<毘沙門天>の使いとされていて、
毘沙門天を祀る寺では、百足小判と称する金属の小判(?)を参詣者に
授けていたところがあったそうです。たくさんの脚で福徳を集めるという
縁起のようです。
94/12/ 6 むかで退治
up
たわらとうた(藤原秀郷)の百足退治は、
御伽草子、浄瑠璃、謡曲などの俵藤太物に出てきますが、
たとえば、謡曲の「百足」では、
近江国勢田で、俵藤太が霊夢で龍神に頼まれて、
三上山(近江)の百足の精を退治するという筋です。
大百足の怪物ですが、のちに三上山をむかで山と呼ぶようになりました。
どうも、百足がたくさんの手(足)で、福(米俵)を掻き集めるという
ことと、俵藤太の俵(米俵)との連想が働いているような気がします。
初期の宝船、あるいは古くから宝船絵を刊行している神社版の
絵の宝船に俵はつきものですし。
毘沙門天の兜頭と百足の頭部とは、似ているように思います。
百足は毒で人を殺すよなこともあるので、畏怖される存在なのでせう。
94/12/ 6 むかで退治.2
up
お伽草子のほうでは、勢多の橋に横たわっていた大蛇を
藤太が踏んで通ったので、その勇気に感心した大蛇が、
三上山の百足の退治を頼む、というよになっています。
藤太(秀郷)は唾を塗った矢で百足を退治し、お礼にと
大蛇から、使っても尽きない巻絹、米の尽きない俵(!)、
思うままに食べ物の出る鍋を貰い、さらに(!)、竜宮に
招かれて、鎧、太刀、赤銅の釣鐘を貰ったといいます。
釣鐘は園城寺へ寄進したといいますから、この話の出所
もおそらくその辺りでせう。(参考『神話伝説辞典』)
[百足退治]の類話が今昔物語(26-9)にあるそうですが、
ちと覚えてませんでした。:-)
福をもたらす、竜宮からの使い(竜宮童子、竜宮姫、等)
や竜神としての[大蛇]、蛇と鐘、[唾]のまじない、
などなど、百足と[福徳][海]の関連が隠されている
ようです。となりますと、百足船による渡来系海人たち
の伝承が深層にあるのかもしれません。
94/12/ 9 大蛇
up
毘沙門天は、薬叉・羅刹らを従える北方守護が役目ですから、
「東夷」(関東・東北の北方の夷)を暗示しているのかもしれません。
大蛇と龍とでは、かなり意味合いが違ってきます。
伝承・伝説でもしばしば混同されたり同一視されるのですが、
大蛇といえば、大物主命で「三輪王朝」を象徴しています。
龍神は、玉依姫、八坂媛ですから、海人=天の朝系になります。
(八坂+須佐之男ということで、出雲系ともつながりますが。)
近江はもともと、わに・かも・息長の古豪族の地で、
日本海=琵琶湖の漁撈部族が基盤のようですが、
近江王朝で性格が変わったようでもあります。
俵といえば、大国主命ですが、大物主=大国主のラインでいえば、
神武以前の、原住系になります。
三上山のむかでは山を「七巻半」する大きさだったといいますが、
「七拳半」とか「七把半」の剣という表現など、
この「半」をつけて、整える癖は、日本特有か否か... :-)
94/12/ 9 七
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七といえば、聖数ですが、日本の神社に出仕したこともある
ユダヤ人の研究者は、聖徳太子の「十七ケ条」の憲法は
ユダヤの聖数十七に拠ると述べています。
で、七巻き半の、7.5 ですが、
七ツカ半というのは、剣を手で巻いて、手をめぐらして
七巻き半ということになります。
月が新月から満月まで(29日の真ん中)、15夜。
15を二分すると、7.5 です。
シュメールの忌数15というのがありました。
害をなす狼を畏怖して神格化して崇拝するようになり、
やがて、狼やそれに関する言葉や物をタブー化していくという
プロセスがありますが、忌数も、聖数との関連が深いわけで、
甲府などでは古来、七を避けて一六などと言ったのは、
聖数七の部族が居たのか、聖数七の部族に敵対する部族がいたのか
分かりませんが、そゆことに関連するなにかがあったのでせう。
月のめぐりが15、山を七巻き半めぐる蜈蚣、
聖数七(七支刀)とは、ことなる信仰なり習俗の存在が感じられます。
(光りは、秒速で地球七回り半でしたか...)
94/12/ 9 忌数/烏
up
甲府の忌数言葉というのは、
ふつかひとひ 三日 甲州方言
むいかひとひ 七日 甲州方言
というもので、新潟にも、
ろくにんひとり 七人 越後方言
が、あったそうです。
ウル、シュメール、ユダヤ、イスラエル、百済王室などが
七を聖数としたことは、いろいろな史料で分かりますが、
ウル・シュメールでは、効能の顕著な薬草を「七草」と呼び、
クレタ島文書にもあるそうです。
なお、川崎説では、七=イミンを、フィリピンタガログ語、インドネシア語、
ヴェトナム語の「凪」、日本語の「斎み、忌み」の語源としています。
『春秋左氏伝』の魯王昭公(在位BC541-510)伝・十七年の条の一節、
昭子がタン子(タンツ=タンは炎扁にオオザト)に「少コウ(=白扁に皐)
氏の代に鳥の名を官につけたのはなぜか」と問い、タンツは、
「黄帝氏は雲を守り神にして政治を行い、自分が雲の祭主となり、雲の名を
官につけました。炎帝氏は、火を守り神にしたので、自分が火を祭り、火の
名をつけました。大コウ(=白扁に皐)氏は竜を守り神にしたので、竜を祭
り、竜の名をつけました。少コウが位についた時には、おりしも鳳が舞って
きたので、鳥を守り神にしたのです。それで、玄鳥(燕)氏は春分秋分を司
り、伯趙(もず)氏は夏至冬至を司り、青鳥氏は陽気が物を開くことを司り、
丹鳥氏は陰気が物を閉じることを司りました。また祝鳩氏は民を導き、ショ
鳩(ショは目扁に鳥)氏は法を司り、シ鳩(シは尸扁に鳥)氏は土木を司り、
爽鳩氏は賊を取締り、鶻鳩氏は農工を司り、この五つの鳩氏が民を集め教え
る役をつとめたのです。また、五つの雉氏が五つの工人の長になり、道具を
便利にし、度量の標準を立てて人民の暮しを楽にしたものです。また、九つ
の扈氏が九つの農の司になり、民を落ち着かせ、怠らぬようにさせたもので
す。」と答え、次の代からは、人からかけ離れた名をつけることをやめて、
名をつけるにも務めによることになった、と説明したといいます。
孔子は、少コウの子孫であるタンツを「夷人」と呼び、後代では、中国東部
の夷人が「鳥夷」と呼ばれていました。
で、川崎氏によると、玄鳥・燕は、BC1500、殷帝国の殷王族のトーテムだっ
たとしています。殷王室の始祖は燕の卵を呑んだ女性から生まれたという伝
承もあり、周によって殷王朝が倒された後、殷の支族はいまの北京の東北に
「燕」国を樹てています。
春分秋分を司るのは、西アジアからの船を想起し、メソポタミアの航海民族
系を示唆しています。殷王室の姓である「子」の契文・金文は、風を送って
炭火をおこすフイゴの象形ですし、子の音=シは、ウル・シュメール語の鋳
物師のシ、si を借用していると考えられます。
(シャーマニズムの部族の首長や王が鋳物師を出自とすることが多い)
さて、烏といわれる黒い鳥は、燕ではなかったでせうか?
94/12/11 俵藤太/聖徳太子/烏/燕
up
* 俵藤太
いちおう、『大辭典』では、[タワラトーダ(たはらとうだ)]で、
見出し項目が立っているので、それに従いました。
江戸期の川柳でも、「〜俵とう太」とあって、これは、米俵の10俵
と、俵藤太とを掛けているのですが、「〜俵十だ」と読めるわけです。
~~
同時代的史料(関白藤原忠平の日記等)では、貞盛秀郷ら、とか、押領
使藤原秀郷とあり、田原藤太の名称はみていません。(押領使は、地
方の反賊討伐役人) お伽草子などの逸話は後世にできたものと思わ
れます。藤太伝説では、<将門の残党>退治がその後に述べられるの
が主ですから、まず、<将門退治>で名を知られ、貞盛よりも「出世」
した秀郷をのちに讃える意を含んだ<蜈蚣退治>の話ができ、それに
ある種の辻褄合わせで、<将門残党退治>の話が付加される、という
経緯が考えられるでせう。フレームアップされた<将門>像と多少で
も釣り合いのとれる<秀郷>像の形成ですね。
実際のところ、虚偽誇張が多いとみられる『将門記』ですら、秀郷や
貞盛が将門を射たことにはなっていなくて、馬の向きを変えて突撃し
ようとした将門に、風向きが変わって、どこからともなく飛んできた
矢が当たって倒れ、(馬がつまづいたか、落馬した将門に矢が深く突
き刺さって)、落命したとなっているわけです。
秀郷はいちおう系図では、藤原魚名の裔、藤原氏秀郷流を成し、奥州
の鎮守府将軍として桓武平氏にとってかわり、関東でも一族を広げま
すが、桓武平氏良文流の坂東平氏の勢いは強く、鎌倉−北条時代でも
争いが続きますね。また、その間に、桓武平氏維衡の流れと称する伊
勢平氏から曽孫正盛が源義親追討で名を挙げて勢力を西国各地に広げ
て、その孫清盛の時代になっていきます。
各地の武家・武士団が勃興していくときに、清和・桓武・嵯峨帝に祖
を求めて<支配権>の正統性を得ようとするのは、古代−中世の心性
としては当然の所為だったのでせう。
源頼朝が、坂東平氏の三浦平氏の力で旗挙げし、伊勢平氏の清盛政権
を潰し、奥州の藤原をも滅ぼしますが、北条平氏によって、鎌倉政権
が奪われ、三浦氏をはじめ坂東平氏や源氏も滅ぼされて、建武の親政
を招いていきます。
源氏平氏の出自よりも、<一所懸命>の所領地を守り、拡大していく
各地領主徒党の離合集散が律令体制の崩壊とともに始まっていたので
せう。となりますと、伝説・伝承もそれらの現実的功利性や政治性を
濃厚に帯び、そこに庶民(平民)の「夢と希求」も内蔵していくこと
になるでせうが、それもまた功利性政治性を帯びていますから、それ
らの<歴史物語>を通して、その時代のパラダイムをどう認識するか
が、まずは、自己の問題になるのでせう。
それはともかく、<平氏>を称する武士団の多くが、瀬戸内、太平洋
岸に多く、西国・伊勢・伊豆・三浦半島・房総等々、明らかに海人系
からの出自を示しています。『将門記』でも触れていますが、当時、
勃海国を滅ぼして東丹国を樹てた契丹が中国朝鮮(唐・新羅)に脅威
となっており、契丹系が日本海側から倭に入ってきていたとも伝えら
れます。それが、出羽・坂東等各地の反乱に影響しているのではない
かという見方があります。(契丹=北方ツングース系といわれ、日本
人で、蒙古斑=青痣の濃い嬰児は契丹系という説があります)
* 聖徳太子
法隆寺が太子の祟りを封じこめる御霊社なら、道真公の御霊神社の北
野天満宮と同様に、将門関係の神社等も「無実の罪をかぶった」将門
の怨霊を封じこめる御霊社になるでせう。平康頼の宝物集でも、今昔
物語集での「朝敵という汚名」に対するかのように「無実」だと述べ
ていますし。「天皇になろうとした平将門」という説話がのちに、平
清盛打倒に利用されていったと想像するに難くはありません。
徳川家康の薬師如来生まれ変わり説が、領内の一向一揆鎮圧に利用さ
れたのとは逆ですが。
「間人」がエジプト出自の海洋系を意味するなら、フェニキア系ユダ
ヤの血が入っていたのかもしれません。
* 烏/燕
『冠帽図会』(文化3年、松岡辰方撰。天保11年刊)に載ってる天皇の
礼冠の「冕冠(べんかん)」図をみますと、黒漆の冠の上に、四角い枠
が載っていて、それに羅(すけすけの粗い織り目の布)が張られていて、
枠の周囲には玉飾りの付いた紐が枠一辺当たり12〜3本ほど垂らされ
ています。冠には唐草の飾りがつき、羅の上に突き出ている部分は、日
影と火焔が付いています。これをみて、おやっと思うたのは、枠の前辺
の中央に、大きく光芒を放つ(枠に立てられている支え棒も含めて22
本の光芒)日輪のような飾りが立てられていて、その日輪のような丸形
いっぱいにはばたく直前のように翼を広げた黒鳥のような図が描かれて
いるのです。太陽と烏の組み合わせ(あるいは月と大烏)は特に妙では
ありませんが、それが天皇の最高の礼冠の正面にそびえているのが、な
んとなく不思議に思えたのです。烏像は、もともと燕あるいは、鷹や鳶
ではなかったかと思えてなりません。
王位を象徴するなら、鷹(鳶)がふさわしいでせう。
女帝のほうの礼冠には、冠の上に大きな鳳凰が座り、その背から突き出
た尖柱には、やはり光芒を放つ日輪があり、その中に白鶴か白鳩のよう
な鳥が翼を広げた斜め後ろからの図が描かれています。
まさに、シュメールのラガシュ城の象徴<白鳥>です。