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支路遺耕治と恵口丞明


"Tea Room"Log抜粋 (1)


この文書は、「Tea Room」のLog(保存記録)からの抜粋です。
おもに、亡き支路遺耕治氏・恵口丞明氏を偲ぶものです。



No.0147 LARAさん
1999年01月29日 午後08時35分
 〔略〕

療養中の水川兄は寒さのせいかこのところ体調よくない
のですが、昨年3月に電話で話した際にはとても
お元気だった川井清澄(支路遺耕治)さんが3月下旬に
倒れられ、小腸のガンだったことが5月にわかって再手術、
が、闘病のかいもなく11月末に急逝なさったことを
ようやく先日知ってたいへん気落ちしているようです。
(こちらからの新住所の郵便物が見つからなくて、
ご家族から連絡できなかったようです。)
  LARA




No.0152 笠井嗣夫さん
1999年01月31日 午前09時56分

支路遺耕治さんが亡くなったこと、ぼくは「現代詩手帖」のお悔やみ欄で
はじめて知ってとてもショックでした。水川さんは、ぼくなどとはくらべものに
ならないほど彼と近いところにおられたから、さらに衝撃が深いんでしょうね。

昨年3月に発病というと、あの詩文集が出された時にはもう病床にあったと
いうことでしょうか。もう少し事情をお聞かせいただけませんか。




No.0153 LARAさん
1999年01月31日 午後01時02分

笠井さん、おひさしぶりです。
水川兄にきいてみましたが、支路遺さんが昨年刊行なさった
ご本は闘病中に出たものだそうです。
3〜5月入院・手術、退院後外来通院。8月再発・再手術。
支路遺さんは、ガン克服・闘病に意欲的で、この間に
絵のほうの個展も開かれたそうです。
しかし、実際は余命「半年」という末期ガンだったそうで
(小腸ガンは非常に少ないそうで発見が遅れたとか)、
(頚部リンパ腫で声がでなくなって筆談で意思疎通)
10月半ばに容態が急変、危篤状態(呼吸困難になり、
喉を切開)になっても、がんばっておられたのですが、
ついに11月30日に亡くなられたそうです。
平成6年に肝臓ガンで亡くなられた恵口丞明さんとともに、
大阪に「他人の街」旋風を起こした支路遺さんの「死」は、
まさに「疾走の終り」の終りかもしれません。
  LARA (橘 恭子)




No.0154 笠井嗣夫さん
1999年01月31日 午後07時02分

支路遺さんについて詳しくおしえていただきありがとうございます。
そうすると、写真や海外旅行記をふくむあの詩文集は、闘病の真っ最中
に刊行されたものなのですね。
そんな事情をなにひとつ知らないぼくは、のんきな感想を書き送った
だけでした。パリを旅行して、「もっと早く来たかった」と支路遺さんが
書かれていたことにも胸がつまります。
ぼくは彼とは結局いちども会わずじまいでしたが、実は会う機会はあった
のです。ぼくの狭量のゆえに機会を逸してしまったのでした。
ともかく恵口さんといい、「他人の街」の主要メンバーが次々と亡くなる
のは悲しいです。なにか怒りのようなものさえ感じます。
水川さんにはくれぐれもお大事にとお伝えください。




No.0155 LARAさん
1999年02月02日 午前03時23分

わたしが詩作を始めたのは70年代後半で、
水川兄の第二次「非人称」も終わっていたのですが、
いろいろ資料をもらったり話をきいて、それなりに
想像を組み立てていますが、当時の状況にあった
方に、それぞれ個別の視点からの回顧記録があまり
みあたらないので、もっと書いてほしいものです。
   LARA




No.0156 笠井嗣夫さん
1999年02月02日 午前10時15分

ぼくが感じるのは、支路遺さんのグループの活動が、きちんと
評価されてこなかったのではないかということです。
といってもぼくも「疾走の終り」という詩集しかはっきりしたかたち
では知りません(地理的にはなれていたということも大きいと思い
ます)。
LARAさんや水川さんがぜひ記録されることを希望します。
センナヨウコさんは、どこかでお名前を拝見したような記憶があり
ますが。




No.0157 LARAさん
1999年02月03日 午前03時10分

わたしなんぞは子供でしたから、
なんのお話もできませんが、
水川兄の場合は、年少で「詩的出発」して
いますから、支路遺さんよりかなり先行していて、
同世代とはいえなくて、直接的に知っている範囲が
かぎられているとのことです。
そう、センナヨウコさんとは交流がなかったそうですし、
そのころ、東京に居ることが多くて、あまり大阪の
メンバーのことは知らないそうです。
つまり、他人の街の最盛期については実見していないとのこと。
どなたが適任かといっても、支路遺さんの行動範囲が
広くて、個々に支路遺さんと接触があったが、他人の街全体については
よくわからないという人が多いように思います。
追悼文集のようなものが編まれるとそのあたり、
はっきりとするかも。
   LARA




No.0158 笠井嗣夫さん
1999年02月03日 午前10時37分

昨日、思い付いて「他人の街」のバックナンバーを探してみましたが
見つかりませんでした。昔のことですからね(^^;

でも、きっとだれかもっている方がいるでしょう。支路遺さんの活動に
関する資料など、手に入るかたちで公開されるといいのですが。
ただ、「秘すれば花」という考えもあるかなとは思いますが。




No.0159 LARAさん
1999年02月03日 午後09時10分

わたしの手元には「他人の街」が数冊あるはずですが、
「凶地街」や「詩劇」や「ろんすたあ」など、当時の
リトルマガジン(寄稿誌)の大きな流れとしてみないと……。
実際に書き手は各誌に渡っているし、また周囲の
「新文学(現・樹林)」「関西文学」等の既成誌の
若手との交流もあったし、また水川兄から引き継いだ
涸沢純平さんの「夢幻」もあり、木澤豊さんの旺盛な
活動もあったし、東京の「聖海賊祭」や「黄金の機関車」
(中上さん発行)「歩く見る見せられる」「ゲロ」
あるいは中村義則・天野茂典さんら、もろもろのリトルマガジン
運動のうねりが相互影響していたように思います。
先行して「Doin'」「エスプリ」「Subterraneans」「弾機」と
ビートジェネレーションを追っていた諏訪優さんと連関して、
〔約20字、内容錯誤のため抹消〕
朗読イベントを開催したりするのです。
もちろん、大阪・東京だけでなく、各地で
同様の<行動>的な詩活動をしていた人たちが
いたようですが、ほとんど「詩壇」史的に黙殺されている
ようなものでせう。詩的パラダイムの破壊あるいは乗り超えを
テーゼとしているかのような人たちでしたから、ある意味で
それも当然の帰結かも。(^^;)
   LARA




No.0160 福島敦子さん
1999年02月04日 午前08時28分

やっぱり知りたい・・・・。
木澤豊さんの近くで(勿論、遠いのかも知れない。)
うろうろしているわたしも何も知らないから・・・・。




No.0161 LARAさん
1999年02月05日 午前07時02分

「人としてのお付き合い」ってのと、
「詩人は作品で<勝負>?する」ってのとの
懸隔をどうみるかは、十人十色でせうから、
<行動>派的詩人の評価はむつかしいかも。
「動く」こと自体がひとつの「詩的実践」だったりして。
たとえば、ここ(IPSENON's Sites)が、
ひとつの「詩的オブジェ」かもしれないし、
ある種の運動体のひとつの表現かもしれないし。
新ボード「詩歌サロン」「寸評ジャーナル」を設けましたので、
も少し細かいことは新ボードのほうがいいかも。
ま、こちらでもかまいませんけど。(^^;)
   LARA




No.0162 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月05日 午前10時55分

ぼくも手帖の訃報に接して、心にぽっかり穴が開いたような気持ちです。
ぼくの生まれ育った大阪の港区、その中でもさらに狭い「市岡」という街
のことは、ぼくの最初の詩集「セルロイド界隈」で一貫してその想いを語り
つくしたつもりですが、その地区の同郷の詩人としては、田谷幸雄と支路遺耕治
の名しかぼくは知りませんでした。狭い範囲でしたから、田谷さんも支路遺さんも
実家はよく知っていました。
それで、とにかくぼくの最初の詩集はなによりも同郷の詩人に読んでほしくて
田谷さんにすぐ連絡をとり、私の家で会うことができました。でもその時
支路遺さんの消息ははっきりわかりませんでした。支路遺さんの家の前までは
いったのですが、渡すことはできませんでした。
でも、詩を書き出した頃から田谷さんも支路遺さんもぼくにとって「第一読者」
でした。市岡は、田谷さんの詩集のあとがきに「未処理の戦後そのままの街」と
書かれていましたが、ぼくも幼い頃からずっと未処理の街で生きてきました。
戦災で焼けたままの「パラダイス」という廃墟の劇場で遊んだりしていました。
モノクロのぬかるんだ轍のあとが生々しい「疾走の終わり」の表紙を見るたびに
私の中のある「他者としての国や街、そして詩」という主題がいつもぼんやり浮
かんでいました。あの街の実景のほうが、自分のリアルであると思ってきました。
疾走の終わりで吐かれている言葉は、まったくリアルな傷でありました。
切り方の身体の姿までぼくには見えます。
もう十数年以上も前にミッドナイトプレスに「日本の詩100年を論じる」という企画
があり、その時に書いた原稿で少しだけ支路遺さんのことにふれています。
ぼくにとって、どうしても100年の中で、最も大切な詩人でありました。
ぼくは、今も実家に帰るたびに支路遺耕治という詩人が同じ空気のすぐそばで生きている
ということがぼくの糧でありました。でも、この気持ちはいまもかわりません。
「疾走の終わり」の中で支路遺さんはまだ「疾走」しています。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hag02041/hisyo.html




No.0163 LARAさん
1999年02月05日 午後07時30分

萩原さんは、京都のお生まれだとばかり思っていましたが、
市岡の出身どしたか。「文屋」の「秘所かな、疾走。」を拝読しました。
「脳内リンク」のコーナーにも支路遺さんの項目があったのを思い出し、
再読しようとしましたが、「秘所〜」に替わっていたのですね。
水川兄によると、「他人の街」周辺の執筆陣で、支路遺さん以外に
お付き合いあったのは、森泉エリカさんで、その他の方々については
記憶がはっきりしないそうです。支路遺さんとは、在阪中にのべつ
逢ってカンカンガクガクやっていたとか。1969年秋頃から、水川兄は
東京に定住するようになりますが、支路遺さんはしょっちゅう上京しては
しばしば長く滞在していたそうです。中上哲夫さんや佐藤友之さんらの
当時の雑記類に支路遺さんがちょくちょく登場しています。
木澤豊さんとは、滝本明さんの縁で大阪文学協会(新文学協会)に参加
した前後からお付き合いするようになったとか。はっきりしませんが、
詩誌「航海者」の頃ですね。その少し後に、支路遺さんが出現したという
順らしいです。

そもそも水川兄が大阪で「熊の毛皮を撃ちに行く」(1960)に創刊参加した時期、
大阪文学学校系とは接触をしなかったので、関西の詩人の諸氏とはほとんど
お付き合いがなく、度々上京(思潮社Q氏訪問など)をくりかえしたあげく、
その後の第一次在京時代(1962-64)に、八木忠栄・宮園洋・秋山兼三・
望月昶孝・井川博年(「熊の〜」同人)・岡庭昇(「熊の〜」同人)・
杉克彦・中上哲夫・袴田滋・立川英明(「熊の〜」同人)さんらと交流し
(この間に「亜」の加若さんや「三田詩人」の吉増さんや杉さんの「銀河」
周辺の詩人の皆さんと会っているし、「現代詩手帖」東京読者会の事務局を担当
していたので幾人かの著名詩人にも会っている)、各所のグループの例会に
押しかけることをしていたとか。で、1964年前後に帰阪しますが、大阪・東京を
ひんぱんに往来し、1969年に再び東京定住するまでの期間、大阪文学学校および
その周辺の詩人の皆さんと交流し、京都の「首」の例会に出席して清水昶さんに
会ったり、その後、支路遺さんとも個人的に密接になったということだそうです。
(複雑怪奇なので資料見ながらかいつまんで述べています(^^;))
(第一次東京時代については「NECNEC」「IPSENON」誌の水川文を参照)
「聖海賊祭」の佐藤さんらは関西に来ると支路遺さんと会っていたようです。
また、水川兄の詩集『性交の後で』は他人の街社で刊行し、支路遺さんの
ほうで、300部くらい売ったそうです。水川兄は恵口さんの「衛星都市の彼方で」
だったかの校正もしたそうですが、大量のハイミナールを代わりに買ったことも
ある云々、プライベートな事々が多々あるそうです。この時期、支路遺さんの
身近にいらしたのは森泉さんですから、彼女の当時の作品を見ると多少は推察
できる面があります。
   LARA




No.0164 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月06日 午前10時36分

熱風吹きすさぶ時代ですね。ぼくは、最初就職した会社で各務黙という先輩
がおり、のちに永井孝史のイエローブック同人になり
いろいろと、その時代のことは聞いてきました。「首」も
のちに倉橋健一さんからいただいたりして、ある種羨望をいだいておりました。
だからほとんど面識はありませんが、木澤さん滝本さんとは会っています。
その時代の詩人で、首藤憲という詩人に興味をもっていました。
それにしても「熊の毛皮を撃ちにいく」とは、秀逸ですね。




No.0165 LARAさん
1999年02月07日 午前04時17分

各務さんは「しぐま」という詩誌をやってらした方かしら。
初期の現代詩手帖でお名前を見たような気がします。
(手元には、各年代の手帖があるけど、抜けている号が多いので
正確なところはわかりませんが。)
首藤さんもいろいろ詩誌をやっておられたようですが、
ちと手元にはありません。(水川兄のところにはあると
思いますが。そういえば、永井さんと連絡がとれないような
ことを言ってましたが、神戸から引っ越されたのかしら。)
「熊の毛皮を撃ちに行く」は、当時の各誌の投稿欄や
同人誌から細木克彦さんが集めた書き手が多かったようですが、
(千葉の斎藤正敏さんや、埼玉の大畑善夫さんらも参加してらした)、
長谷康雄さん・柳瀬繁さんら、当時の投稿「特選」組が
中心で、創刊号の「マニフェスト」が、「詩学」に転載されています。
この同人たちが当時、来阪した小田久郎さんと歓談していますが、
氏に対して、歯に衣きせず言いたい放題だったようで、
氏の「戦後詩壇私史」には触れられていません。これに
限らず、東京とその周辺以外の記述が極端に少ない。
ま、「詩壇」はそんなものでせうが、その人脈でできた
「詩史」=詩の系譜はもとから眉に唾つけて接しないと、
話の通じないことがあるようです。(なんのことやら)
倉橋さんは、やはり、「列島」「山河」の流れの方だと
思いますが、懐の広い方のようで、水川兄の「NECNEC」にも
寄稿なさってたはず。
  LARA


※「しぐま」は粂(隼人?)さんという方だったようです。




No.0166 笠井嗣夫さん
1999年02月07日 午後09時34分

数日パソコンを離れていたら、いろいろと興味深い事柄が書かれて
いました。
萩原さんと支路遺さんとのかかわりにびっくり。ぜんぜん想像して
いませんでしたので。やっぱり「関西」なんですね。同郷なんて。
ぼくのように北海道にいても、支路遺さんの」活動には近親感を
もっていました。というか、60年代の詩のある部分をささえていたのは
「凶区」のエリート詩人たち(とあえて書きますが)ではなくて、支路遺
さんたちだったと思います。「詩壇」は結局認めなかったようだけど。
そのあたりの雰囲気にういて、ぼくはすこししこりというか強くいえば
憤りのようなものをずっと感じてきました。「手帖」の時評欄にも支路遺
さんが亡くなったということをちょっとだけでもしるしておこうかなと
思います。
支路遺さんについては倉橋さんの評論集に論じた文があるようですが
みておりません。ミッドナイトプレスでの萩原さんの文章は、どこかで
読めますか?




No.0167 笠井嗣夫さん
1999年02月07日 午後10時00分

いま文屋に行ったらすぐ萩原さんの「秘所かな、疾走」を拝見することが
できました。あわててすみません。これから読みます。




No.0168 LARAさん
1999年02月08日 午前00時07分

ちょと、訂正です。
井川さんは、大阪の「熊の毛皮〜」の例会などに
いらした(松江から?)ことがあるそうですが、
同人ではなかったようだ、ということです。
準同人みたいな方もいらしたようで、詳細不明です。
その後、上京して、「銛」(国井克彦・杉克彦・丸山辰美・
小柳玲子(木原れい子)・辻征夫・木下博子・板並暎子・
門倉訣さんら。平田好輝さんや平井照敏さんらも書いていたかも)の
同人として活動するのですが、まもなく(1962年夏)、
「銛」は解散してしまい、杉さんがリトルマガジン「銀河」で
詩のネットワークを作りはじめます。
  LARA


※「銀河」は初め、誌名が「銀河の道」だった(8号まで)。
 杉さんの逝去により、34号で活動を終えた。
 誌代を前納する100名前後の固定読者が活動を支えた。




No.0169 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月08日 午前09時29分

各務黙は、「極」という詩誌をやっていて、村上一郎が
寄稿したりしていました。ぼくにとっては「前史」なのですが
「同志社詩人」のメンバーそして「白鯨」の人たちには
なにか憧れのようなものを感じていました。
永井氏はいまもたまに電話で話をします。
連絡先はまた、メイルでお知らせします。




No.0170 LARAさん
1999年02月09日 午前05時46分

萩原さん、さっそくのメールありがとうございました。
水川兄に伝えておきます。なんか、永井さんと、
「日本異史」という点で通じるものがあるとか。(うーむ)
「極」というのは手元の資料にはありませんが、
「同志社詩人」は1冊あります。「白鯨」は何冊かあります。
CREEKのMUG2でしたかに、書かれていますが、
「白鯨」の佐々木幹郎さんは、水川兄の高校社研部の後輩でいらして
初期に、佐々木氏が執筆中の作品の用語について兄にいろいろ意見を
求めらしたこともあったとか。(あ、プライバシーかも、かも。(^^;))
   LARA




No.0171 LARAさん
1999年02月09日 午前05時56分

>170
あ、MUG2ではなくて、MUG1の
高橋秀一郎さんのことを書いた項のようです。
そのころは、佐々木さんは京都に定住してなくて、
大阪の実家にいらしたころだったとか。
  LARA




No.0172 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月09日 午前10時11分

O高校ですね。永井氏からは、その異史というか偽史について
少なからず影響受けました。ぼくは、水川さんが、大阪の方だということ
知りませんでした。




No.0173 LARAさん
1999年02月10日 午前04時51分

>172
水川兄には、そのかみ、日本一万年史をテーマとする
叙事詩の構想があって、それはオリエントから発祥する
ものだったそうです。ここの、Club のわたしの文集
「オリエント幻想」にあるような言語のあとをたどる
ようなものかもしれませんが、最近の縄文の発掘成果を
みますと、またぞろ、構想を再燃させはるかもしれません。
もっとも最近は長篇詩を書く気はなくなってはるみたいですから、
叙事詩より、『軍艦茉莉』みたいになるかもとのことです。
どんなんかようわかりませんけど、大阪では、安西冬衛さんの、
ひそかな影響を受けている人が案外と多いみたいやし。
  LARA




No.0176 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月10日 午後08時19分

関連リンク拝見しました。ていねいなお仕事感服いたします。
笠井さんの日誌も拝見しました。
「自分が書いているような」という感慨、ぼくにも
そんな気がして好きになる詩人がいます。
それから、恵口さんの詩を始めて読ませていただきました。
チベベ。大阪、天王寺、環状線の下町の土
ぷんぷん香っていました。高貴なる詩だと感服しました。
打って、切って、捨てていく、潔い高貴さといいましょうか。




No.0177 LARAさん
1999年02月11日 午前03時12分

恵口丞明さんの詩集『チベベの唄』は、跋だっか、
解説だったか、あとがきが小海永二さんで、
ずいぶんほめていたのが当時注目されたようです。
恵口さんは、船乗りでしたから、なかなか直接に
会えないわけで、その点でも「伝説」的だったのかも。
   LARA




No.0178 LARAさん
1999年02月11日 午前03時32分

>177
あ、恵口さんも南市岡の人で、水川兄は、ここの
ライブラリー収載の承諾を得るために、南市岡の
親戚の方を探して、そこから、東京の遺族の方に
連絡がとれたのだそうです。
(そこからさらに、所在のはっきりしなかった支路遺さんに連絡がとれたのが、
2月末か3月初めで、とてもお元気な様子だったのに、
3月下旬に入院なさったわけです。)

   LARA




No.0179 笠井嗣夫さん
1999年02月11日 午後08時46分

萩原さん、日録まで読んでいただき恐縮です。いま読み返してみたら
支路遺耕治という名前を誤記していたりして、はずかしいです(^^;

「川井清澄」さんの作品を読むと、「ねむり」ということばが頻出します。
「わたしは死者ではないという呟き」「なにも語るべきものなどありはしな
い」「ねむる者わたしたちとはなんであるのか」といった詩句も。

とても痛ましいという気がします。




No.0180 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月12日 午前10時29分

恵口さんもそうですか。ぼくは南市岡小学校に通ってました。
それからうちの親父も船乗りです。両親が知っているかもしれません。
チベベ、チベベ、という響き、忘れられません。
恵口さんは、筆名ですか。ひょっとしてほんとに実家、ご近所の人だったかもしれません。




No.0181 LARAさん
1999年02月13日 午前07時28分

恵口丞明さんは、ご本名で、名前の丞明は
「としあき」と訓むのですが、
周囲が「じょうめい」と呼ぶので、
「じょうめい」が筆名のようになったそうです。

滝本明さんの、「めい」も通り名が筆名の読みに
なった例だと思いますが、土井晩翠も、みんなが
「どい」と呼ぶので、「後に」本姓の「つちい」を
筆名としては「どい」とすることにしています。
(晩翠夫人の証言あり)
   LARA




No.0182 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月15日 午前09時39分

いろいろとわかってきました。
ありがとうございます。
こんどメイさんと会ったときにゆっくり
大阪の詩人について聞いてみようと思います。




No.0183 笠井嗣夫さん
1999年02月17日 午前00時37分

そういえば、センナヨウコさんという方がおられましたね。
「ヨウコ」として支路遺さんの作品にも登場したと記憶して
いますが、いまも詩を書かれているのでしょうか。ちょっと
気になっています。




No.0184 LARAさん
1999年02月17日 午前03時53分

「ヨウコ」がセンナヨウコさんかどうかは
知りませんが、当時「不良少女ヨウコ」に
関心があったように聞いています。
センナさんのことは、大阪在の方でないと
ちょとわからないと思います。
前にも述べたかと思いますが
水川兄(ipsenon)とセンナさんとは
交流がなかったようです。
もっとも奥野さんや涸沢さんが発行を
引き継いだ「その日何処かで」や「夢幻」で、
お付き合いがあったかどうかは不明だそうです。
水川兄が帰阪していた1964-69年の間に、
ほとんどセンナ作品を読んだ記憶がないそうです。
(名前には記憶があるので何か読んではいるだろうが、
ということでした。「他人の街」の初期かも、という)
当時、大阪にもたくさんのグループがあって、水川兄も
一時それらのほとんどの詩誌を閲覧しているはずですが、
「異端」的存在でしたから、同じように突出している人以外にはあまり注目しなかったのかもしれません。
ま、とにかく、わたしにはこの辺、さっぱりわかりません。
多分、いちばん詳しいのは倉橋健一さんでせう。
あるいは、福中都生子さんや、島田陽子さん、三井葉子さん、東淵修さんあたりかも。
   LARA


※後日、当時の詩誌等を調べたら幾つかセンナ作品が
 出てきたそうです。




No.0185 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月17日 午後12時00分

島田さん三井さん倉橋さん涸沢さんとはたまにお会いしますが
60-70年代のことはあまり話題にはなりません。
今度会った時に聞いてみます。
センナさんの名は、ぼくも記憶あります。
「同志社詩人」と「白鯨」を見ましたが名前ありませんでした。
「首」でしょうか。清水昶のエッセイ「詩の根拠」で名前見たような気がします。
調べてみます。
ちなみに「同志社詩人」創刊号のメンバーは
首藤成憲(以前ぼくは憲と書いてました)、各務黙、田坂定子
季村敏夫、永井孝史、高橋善彦の各氏でした。
たまたま、ぼくはこのうち3人の方とは今も会っています。
センナさんも、京都の詩人であると思います。




No.0186 LARAさん
1999年02月17日 午後05時46分

1980年代初期の資料をみますと、
センナヨウコさんは、京陽出美さん主宰の「ふらん」に
参加していますね。京さんは豊中市庄内で、センナさんは、
堺市ですね。(いずれも当時)
「ふらん」には、寺島珠雄氏、担ケ真理子さん、清水正一氏(故人)らが
執筆していたようですが、京さんは、支路遺さんにいろいろ
イベントに協力してもろてたようだそうです(伝聞)。
センナさんは「海とユリ」というグループにいらしたらしい。
1971年に、支路遺さんの他人の街社からセンナさんの
詩集『無菌地帯』が出てますね。1977年には投錨社(?)から
詩集『踊り女』、そのほか『変奏律』『喪われた時間』等が
あるようで。水川兄はいずれも実見した記憶が無いそうです。
(つまりは、京さんやその周辺の方たちとは無縁だったということでせう)
(もっとも「新文学」誌上で並ぶことはあったかも、ということです)
1960年代初めの堺市では、女子高生グループの「HNTY」が人気で、
日和佐勝美さん(手帖賞佳作。のちラジオで活躍)や中浜睦子さんら。
日和佐さんは杉さんや水川兄の詩誌にしばしば寄稿していました。
   LARA




No.0187 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月17日 午後05時56分

そうそう、「ふらん」は、数年前なにかの会の折に
京さんから直接いただいたと思います。
それにしても橘さん=LARAさんも、大阪出ですか?
めちゃ、お詳しい。




No.0188 LARAさん
1999年02月18日 午前01時46分

>187
ここの、Club LARAの「幻のレコード」のように
取材・リサーチの仕事を長くしていたことが
ありますので、資料をあたって、推測し、再構成する
ことにちょっと慣れていますが、「講釈師、見てきたような
嘘を云い」に陥らないように(つまり、尾鰭をつけた
創作にならないように)注意はしています。
今日も古書店で、4冊ほど近代詩と短歌関係の資料本を
店頭の埃擦れた山の中から拾い出して買ってきました。
水川兄が持っていて、わたしも欲しかった「資料・現代の詩」
(現代詩人会編・講談社)も、この店で入手したものです。
これもかなり偏った資料ですが、たいへん面白いものです。
   LARA




No.0189 LARAさん
1999年02月18日 午前02時14分

近年、近代詩の年表作成に着手したことがあって、
一部をPC−VANに掲載したことがありますが、
江戸時代から中世へとさかのぼる必要を感じて力不足で
中断したままになっています。
日本書紀の記事年表やオリエント史の作成も試みたことが
あります。(^^;)、ま、素人の遊びですが。
(資料をきちんとそろえるだけの時間もお金もないので)

北海道に、戦後詩史のための資料を収集している方がいらして、
水川兄もいろいろの詩誌を寄贈したことがあり、わからないことがあれば
問い合わせたりしているそうです。
古い「詩学」などは国会図書館にいけばありますから、
その消息欄や雑記欄でさまざまなことがわかります。
しかし、座談・対談や聞き取りなどがいちばん参考に
なりますね。ひとつのことに関して当事者の視点の違いが
興味深いし、つきあわせることで、別のことが浮かんでくる
こともありますし。(^^;)
   LARA




No.0190 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月18日 午前09時08分

北海道の方には、ぼくの詩集もリクエストがあり送ったことがあります。
昨日、ユリイカの臨時号「白州正子」の追悼特集で
車谷長吉と野々上慶一の対談は、いろいろ文壇史の裏面を読むようで
面白かった。「中原中也はもてましたか?」聞いたら
「ありゃ全然」なんて。
以前にも富士正晴が伊東静雄のことにふれて
「会うといつも猥談ばかりしていた」という発言があり
伊東静雄が、もっと好きになったことがあります。
文学の歴史なんかは、もっと生身の記述が欲しいですよね。




No.0191 笠井嗣夫さん
1999年02月18日 午後08時04分

  北海道というと美幌の方かなあ。名前は忘れたけれど。
  ずいぶん以前から詩書の収集をやっておられる方がいるようです。
  センナヨウコさんの詩集「無菌地帯」は、表紙に写真を使ったグレイのじゃなかったかと
  記憶しているんですが。探せばでてくるかも。
  富士正晴はともかく伊東静雄みたいに悲壮なまでに美しい詩を
  書いた詩人が猥談をするというのは、いいですね。




No.0193 LARAさん
1999年02月19日 午前07時13分

>191
えと、美幌町の井谷英世さんです。
ipsenonから戦後詩史あるいは詩誌についての
寄稿もお願いしてあるそうですが、残念ながら、
たいへんお忙しい時期だそうで、実現していません。

CREEK第三号の作品も集まりませんね。(^^;)
体調を崩している水川兄がさぼっているのかも。(^^;)
   LARA




No.0194 文屋・萩原健次郎さん
1999年02月19日 午後03時06分

そうそう、井谷さんでした。
セルロイド界隈とガルシアを送ったと記憶しています。




No.0195 笠井嗣夫さん
1999年02月19日 午後08時55分

 井谷さんですね。ずいぶん以前に詩誌の送付以来があったので送りましたが、
 それをどう活用しているかについてはぜんぜんわからないんですね。
 目録を作るってたいへんかもしれませんが、送った方としては張り合いがないです。




No.0212 文屋・萩原健次郎さん
1999年03月02日 午後01時02分

LARAさん、ちょっと勝手なことしてしまいました。
このごろずっと恵口丞明さんの詩に魅せられていまして
日誌でふれて、チベベの唄にリンク貼ってしまいました。
ご確認の上、ご容赦ください。




No.0213 LARAさん
1999年03月02日 午後08時28分

>212
萩原さん、拝見しました。萩原さんに共感していただけて
恵口さんの奥さまも喜ばれると思います。どんどんリンク
していただいてけっこうです。
細かいことですが、1966年は「リトルマガジン他人の街」が
版元になっての詩集「チベベの唄」が刊行された年で、
個々の作品はそれ以前に発表されています。といっても、
おおかたはほんの1,2年の差ですから、訂正いただくほどの
こともないと思いますが、いちおう念のために。
こないだ水川兄にききましたら、手元に「記憶の唄」が
掲載されている号があったとか。また、1970年代初めの
リトルマガジン「聖海賊祭」か「風」にセンナさんと
支路遺さんについて書かれた文が載っていたとか。詳しくは
聞いてませんが、当時のリトルマガジン運動は、こんにち、
まったく理解されていないようで、多少そのなごりが
あるのは「鰐組」ぐらいでせうか。
   LARA




No.0214 LARAさん
1999年03月02日 午後08時40分

>213
あ、誤解のないように追記しますと、「鰐組」は
寄稿料が要ったときいていますが、60〜70年代の、
諏訪さん、水川兄、支路遺さん、佐藤友之さん、中上さん、
群馬の中山さん、袴田さんらが発行していた一連の
幾多のリトルマガジンはいずれも発行者・編集者の
自己負担・掲載無料、持ち出しで運営されていたものです。
80年代前期の水川兄の「NECNEC」「IPSENON」誌も、
月刊なみのペースで刊行していましたが、自己負担でした。
すべて、利害をからめぬ編集方針を
貫くという意志表明の手段だったのかも。
   LARA


※訂正、寄付は何号か受付ていたが、
 僅かだったそうです。




No.0215 文屋・萩原健次郎さん
1999年03月05日 午前09時10分

「鰐組」は、寄稿料がいりました。
でもそれだけ自己裁量の幅があって自由な雰囲気でした。
ぼくは、多分、はじめて会った「東京の詩人」は
仲山清さんだったと思います。
水川さんのNECNECも、多分、1、2冊いただいたと思います。
「ガルシア」を送っていた記憶もあります。




No.0217 LARAさん
1999年03月05日 午前09時45分

>215
リトルマガジンといえば、杉克彦さんの「銀河」も
そうですし、桜井さん(未来工房)の「弾機」や、
経田さんの「ブルージャケット」もそうかしら。
天野さんの「ドラムソロ」は個人詩誌だったかも。
(ま、実質的には、リトルマガジンでせう)
リトルマガジンとしてのマニフェスト的なものを
前面に出していたのは、諏訪優さんの「エスプリ」等の
一連の雑誌や、中山健夫さんの「風」、佐藤・中上・長谷
邦夫さんらの「聖海賊祭」あたりで、
ま、「挑発的メッセージ」でムーブメントをおこすという
感じですね。
   LARA




No.0116 LARAさん
1999年12月31日 午前08時03分

支路遺耕治作品年表、更新 V.0.1.3
Diary 更新 12.31.
おおみそかは、おおつごもり。
こもる。
                 LARA




No.0129 LARAさん
2000年01月02日 午前07時13分

(水川兄の方から)支路遺耕治さんの、手札サイズの写真を
2枚スキャナにかけて、1枚が1.5メガバイトほど。
それを「gif に転換」して、
約450KB ほどになったのを送ってきたので、
まず、もういちど、bmp に戻して、1.5 MB。
それを50% サイズ縮小します。
(画質をあまり劣化させないbmp用の縮小専門のツールを使って、約400KB)。
さらに、不要な周囲を切り落とす。
トリミングしたものを、今度は、
フリーソフトの「 Dibas32 」で、
暗くつぶれている部分をはっきりさせるために、
「明るさ変更」の加工をします。
かげんを見ながら、明るいほうへ、50%。
ダークな部分の細部が見えてきます。
(そのかわり、ハイキーな部分は多少飛んでしまう)
で、それをホームページ用に、jpg に圧縮転換、
「100%に対して75%」にして、2枚の写真が
23KB, 13KBと軽く小さくなります。
 と、こんなぐあいにして、
CREEK に支路遺さんの若き日のポートレイト 2葉。
               LARA




No.1207 LARAさん
2001年11月13日 午前05時22分

ライブラリに、
支路遺耕治集(3)が入りました。
詩集『ゆめゆめゆめ』全篇です。
                LARA




No.1257 LARAさん
2002年01月13日 午前00時58分

ライブラリーに、支路遺耕治集(4)(5)が入りました。
両ページで、詩集『疾走の終り』(1969)の全篇です。


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