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・「ふたつの「対抗文化」論をめぐって − ウィリスの「野郎ども」とサックスの「ホットロッダー」 − 」『天理大学生涯教育研究』no.2,pp.31-44.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(1998/3/22)


ふたつの「対抗文化」論をめぐって
− ウィリスの「野郎ども」とサックスの「ホットロッダー」 −
石飛和彦
0:はじめに
私たちが「教育」について語ろうとするとき、往々にして、そこになにかしら「キレイゴト」のニュアンスが漂うことになる。そのことは、皮肉にも、学校教育について語るとき以上に、学校以外での教育を語るときに、よりはっきりとする。私たちは、制度化され日常化された「学校」については批判(あるいは感情的な非難)の言葉をいくらでも口にすることができるが、そのぶん一層、「本当の、あるべき教育の理想像」を、制度的・日常的な学校以外の場面に見出そうとする傾向があるのだ。そのために、往々にして、学校外の教育については、理想化されたイメージが先行する「キレイゴト」(本当の教育はここにこそある)が語られることになる。そうした「キレイゴト」を否定する視点として、「対抗文化」という見方がある。本稿の目的は、P.ウィリスとH.サックスという二人の社会学者の「対抗文化」論を紹介しながら、今日における「対抗文化」と「対抗文化論」の行方を見定めることにある。

1:テキスト読解 − 予定調和のディスクール
例えば、「地域づくりと生き生きする子どもたち」(増山(1995))という論文で語られる次のようなくだりは、いかにも、学校外の子どもたちの活動に「理想化された」イメージを割り当てているように見える:

学校における知的な学習への指導の本質がエデュケーション(教育)であるのに対して、遊びは、大人が教え子どもが学ぶという関係ではなく、アニマ(魂)が活性化する営みにその本質がある。ハラハラ、ワクワク、ドキドキと心が弾み、全身が躍動し、表情の豊かさが生命力そのものの輝きを示し、活動そのものの楽しさ面白さが子どもたちを活気づける。子どもたちを育てる力には、エデュケーションと同時に、アニマシオンという営みがあり、このアニマシオンこそが「生き生き」した姿を生み出す根元的な力であることを重視しておきたい。/学校における諸活動は、カリキュラムにもとづく教授=学習活動であり、エデュケーション(教育)である。しかし、学校外の地域での諸活動は、生き生き、わくわく、共に楽しむアニマシオン活動としてとらえられるべきであり、「教える」という学校的発想や教育主義的捉え方に陥らないように決意しなければならないだろう。(p.3-4)

言うまでもなく、ここで語られている主張じたいにとりたてて誤謬が含まれているわけではない。学校教育によっては得られない重要なものを、学校外での子どもの諸活動は確かに与えてくれるだろう。また、そうした「生き生きしたもの」が、大人の「教え込み」から離れた「子どもの生活圏文化」の自律性によって達成される、という指摘も重要であろう。ところが、議論がより具体的な次元に及ぶと、記述に微妙な揺れが現れ始める:

…地域の子どもたちと大人たちの関係は、子どもたちが一方的に守られ、保護され、育てられ、援助される関係だけではなく、時には大人に抵抗し、対抗するような活力ある緊張関係が生み出されなければ本物にはならないということである。/かつてのガキ大将集団がそうであったように、徒党を組んだ子ども集団は、大人の目を盗んでいたずらもし悪さもする。そして、時には思わぬ反社会的な悪さをする可能性もある。子どもたちの自律的で自治的な活動を保証するということは、大人の願う「健全育成活動」の範囲にだけ押しとどめているわけにはいかなくなるので、常に子どもたちとの間に緊張関係を持った大人集団の大きな配慮が必要となる。(p.4-5)

ここに見られる決定的に重要な指摘は、子ども集団の文化と全体社会の文化との対立の可能性に関するものである。しかしながら、引用文中では、その対立はあくまで「かつてのガキ大将集団」の行ったような「いたずら」「(時には思わぬ反社会的な)悪さ」という範囲内で記されているに過ぎない。そして、次のような喩えは、同論文における「子ども集団」のノスタルジックに理想化されたイメージを表しているだろう:

子どもたちの大好きなアニメ『ドラえもん』の中の、ジャイアンのように腕力の強いガキ大将や、金持ちの息子のスネ夫のように狡猾に立ち回る子どももいる。様々な力関係や人間的能力の多様なかかわりあいによって成り立つ子ども社会の中で、のび太君は、自分の立場を築いていかねばならない。(p.2)
かつて、日本の地域社会のいたるところに存在していた子どものガキ大将集団は、そのすべてが教育的なものだけではなかったが、そこには必ず子どもたち自身で作り上げた規律があり、ガキ大将を中心とする統率力が働き、一人の子を死に至らしめるような陰湿で無分別な暴力やいじめを生み出さない子ども文化が成立していた。(p.2-3)

これらのイメージは、既に現実の「子ども集団」からかけ離れている。そればかりでなく、結局のところ「大人」ないし「全体社会」の求める「子ども」像に予定調和的に当てはまっていく(そこで彼らが行う「抵抗」はせいぜい「悪さ」に過ぎず、最終的には「大人集団の大きな配慮」によって受け入れられる)ものと想定されている、といういみでは、「大人」ないし「全体社会」に都合のいい願望の表現であると言えるのだ。こうした「子ども集団」をイメージしている以上、例えば「かつて地域の子どもたちは、若者組や青年団の姿を近くで見ながら育ったように、若者世代が集団的・組織的に活動できるような施設と空間がもっと保証されるべきであろう」(p.6) という提言がなされていても、それに現に対応しているものとしてゲームセンターやコンビニエンスストアの店先などの「溜まり場」があることは看過されている。この看過こそが、「キレイゴト」であり、ゲーセンやコンビニでたむろす現実の集団を排除(まず文章の上から・そして人々の意識の上から・すなわち社会そのものから)しながら、それをジャイアンやのび太君にすり替えてノスタルジックに「理想の教育」を語るやり方なのである。
「対抗文化」という視点は、そうした「キレイゴト」を否定していこうとするものである。それは、「大人」ないし「全体社会」の文化に鋭く対立する集団の文化=「対抗文化」を、その内側から描き出し、その「対抗文化」がいかに「大人」「全体社会」の欺瞞を暴くか、また、結局のところ「大人」「全体社会」に取り込まれてしまうか、その可能性と限界、そのメカニズムを、冷静に辿ろう、というものである。次節以降、ウィリスとサックスの「対抗文化」論を紹介し検討してみよう。

2:ウィリス『ハマータウンの野郎ども』と階級構造の「皮肉な」再生産
イギリス・バーミンガム大学現代文化研究センター研究員ポール・ウィリスは、1970年代半ばの一時期 − パンク・ムーヴメント前夜 − をある男子校の「落ちこぼれ」生徒グループと共に過ごす。今や古典となった『ハマータウンの野郎ども』(原著1977年)は、そこで得られたエスノグラフィー(民族誌的記録)から生まれた。
急いで付け加えよう。いま「落ちこぼれ」と言ったが、この「落ちこぼれ」という呼び方自体、まさに、「大人」「全体社会」あるいは「学校」「教師」の側からのレッテルに他ならない。そして、それまでの教育学や社会理論もまた、彼らを「落ちこぼれ」、失敗者としてしか見なかった。教育学は、どうすれば彼らみたいな「落ちこぼれ」を無くしていくことができるかを探求しようとし、また、彼ら「落ちこぼれ」たちの家庭背景の、特に経済的水準の低さ(中産階級に比べ労働者階級の子弟に「落ちこぼれ」の傾向が見られた)に注目した社会理論は、そこに、「貧しい家庭の子どもは学校でも落ちこぼれて良い職にありつけない」社会構造のごく単純な再生産を読みとろうとしていた。そこでは、「落ちこぼれ」達は、社会の仕組みからはじき出される不幸な運命をただ諦めて受け入れるだけの、受動的な存在として扱われていたのだ。
ウィリスの研究の画期的な点は、そうした「落ちこぼれ」の連中の中に実際に飛び込み、むしろ彼らの側からのものの見方を生き生きと記述したことにあった。彼らは自分たちを「野郎ども(the lads)」と自称する。ウィリスは、彼らの側から見たパンクでスラップスティックな日常を描き出す:

校外学習は教職員にとっては悪夢としか言いようがない。例えば博物館見学がある。貸し切りバスの後部座席は申し合わせたように空席になっていて、何か不吉な予感がする。案の定〈野郎ども〉が遅れてやってきて、そこに席を占める。そうこうするうちにバスの後部で紫煙がたちのぼりはじめるが、火の点いたたばこだけはどこからも見えない。車庫にもどったバスを点検してみると、後部座席は一面にいたずら書きで汚されている。インク書きだから消しようがない。 … 肝心の博物館では、〈野郎ども〉はまさにイナゴの群と同じであって、展示物の威厳は見るかげもなく台無しにされる。ヴィクトリア時代の薬屋を実物大で再現した展示場では、「手を触れないで下さい」と大書された断り書きのそばで、目に入るものに次から次へと手を出したり、押したり引いたり、あれこれと試してみたり、あげくの果てには傷をつけてしまう。カウンターに並んだ背の高いびんに、昔よく用いられたドロップの風邪薬が入っているのを見つけては、それを一握り失敬してしまう。 … 帰りのバスに乗り込むのもこうして連中が最後になるが、ふたたび後部座席は彼らのために空けられている。そこで若い教師に向けて冗談半分の「告げ口合戦」が始まる、「スパンクシーがちょっと変ですよ、先生、こいつの息、匂ってますよ」、「エディの口が燃えてますよ、先生、消してやってくれませんか」
次の日、バス会社から電話があって一同は校長室に呼び集められた。ところが校長室の前に集まった〈野郎ども〉には「今度は何のことで叱られる」のか見当がつきかねている。「たぶん風邪薬のことじゃないか」、「バスで歌ったことかな」、「酒をやったことだぜ、きっと」、「公園の芝生に火を点けたことだと思うな」、「公園の管理人をからかったろ、あれだぜ」、「たぶん模型の村にいたずらしたことだな」。それが結局はバスにした落書きの件だとわかって、連中は驚くとともに胸をなでおろした。この件にかぎらず、〈野郎ども〉が校長室に呼び出されて最初に思い悩むのは、数ある悪事のうちのどれについて取り調べられるのかということであり、次いで考えをめぐらせるのは、それらのすべての場合について適当な口実を見つけることである。(p.63-65)

〈野郎ども〉は、教師連中を始めとするあらゆる権威に反抗する。同時に、彼らがもっとも徹底的に軽蔑するのは、教師のいいなりになる「耳穴っ子(ear'oles)」ども(要するに、学校に勉強をしに通う「普通の、いい子」たち)である。およそ訳語に反映されようのないこのネーミングの絶妙さこそは、〈野郎ども〉ならではのものだ。〈野郎ども〉は、単なる逸脱者ではなく、学校や社会のウソを自分たちなりに洞察する直感を持っているのだ。勉強野郎の連中は、人の言うことばかり従順に聞くだけの「耳の穴」でしかない。ある意味では、受動的で諦念に満ちているのは(「落ちこぼれ」ではなく)「耳穴っ子」の方なのである:

「ほんとうにさ、やつらの学校生活の思い出ってなにがある?将来思い出になるようなものがなにかあるかい?教室にチンマリ坐って、セッセセッセと無い知恵しぼってばかりいてよ、おれたちが楽しくやっているあいだもさ。パキスタン野郎に喧嘩ふっかけたり、JAども(ジャマイカ系移民)とやりあったり、おれたちにはいっぱい思い出すことがあるだろ。教師にひとあわ吹かせてやったことだっていい記念になるしさ。」
「見てみなよ、やつらちっとも楽しそうじゃないから。それとくらべりゃスパンクシーなんか一日中遊びまわってごきげんさ。バニスターは朝から晩までお勉強、お勉強。スパンクシーはなんやらかんやらやらかして一日中楽しんでら。」(p.27)

さて、ところが、このようにして「自由」を謳歌しているはずの〈野郎ども〉が、結局のところ、社会の「落ちこぼれ」として、稼ぎの少ない単純な非熟練筋肉労働へと吸収されていくことは先に触れたとおりである。ウィリスの分析の優れた点は、〈野郎ども〉を単に英雄視するだけではなく、彼らの「対抗文化」が最終的に全体社会のシステムの中に取り込まれていってしまうまでのメカニズムを辿った点にある。
第一のポイントは、〈野郎ども〉の文化が、親たち・あるいは地域の文化と密接に連続している、という点にある。ハマータウンは、イギリス産業革命がまさに生まれた、史上最初の工業都市の一つであり、〈野郎ども〉の在籍するハマータウン男子校はその労働者街のただなかに位置している。〈野郎ども〉の反権威主義・ふざけた調子・従順さや机上の理屈への軽蔑・身体的な実践と経験の賛美、といった特徴は、そのまま、親たちあるいは地域そのものの持つ「労働者階級文化」と連続している:

「おやじの話を聞いてりゃ、(職場は)まるで学校をでかくしただけって感じだね。学校と変わりないように聞こえるよ。この前もおやじと話してたのさ。 … あのいたずら騒ぎのことをおやじに話してたら、「そんな悪ふざけばかりするもんじゃないよ」っておふくろが口をはさんだのさ。そしたらおやじが、「わしらもやるぜ」ってね…あとの話は工場のゴタゴタのことさ。 … 工場で働くってのはさ、ほんとうに学校のつづきだと思ったね。工場にも同じような仲間がいるんだ、毎日顔を合わせてね、毎日ふざけ半分なのさ。仕事に出りゃ毎日同じような仲間といっしょになるんだよ。(p.197-198)

〈野郎ども〉の文化と労働者文化とが連続しているのは、このように親から子へと語り継がれるからというばかりではない。そもそも、工場と学校というふたつの場が構造的に同じであることを、彼らは経験的に洞察しているのである。〈野郎ども〉は、自らの反権威的な「対抗文化」を、そのようにして自分の環境から経験的に掴み取っているのだ。
ところが、そのことによって、すなわち、経験と直観に頼るあまり、〈野郎ども〉の「対抗文化」は結局、全体社会に対して敗北していく。彼らの洞察は、確かに「耳穴っ子」の受動性を批判する鋭さを持っているが、しかし、あまりに素朴に過ぎるのだ。いわゆる「机上の空論」が現実に対して無力であるのと同様に、単純に素朴な経験主義もまた、現実の社会構造の強いてくる圧力に対しては効力を持ち得ないのである。特に、彼らが伝統的な「男らしさ」に倣って価値観を打ち立てようとしている点に、ウィリスは注目する。伝統的な「男らしさ」という価値観は、単に男尊女卑的で女性差別的であるだけではない。〈野郎ども〉にとって物事は「頭でやる女々しいこと」と「汗をかき手足を使う男らしいこと」とに単純に二分されており、マッチョな後者だけが彼らの理想なのである。これが第二の重要なポイントとなる。彼らは机にかじりつく「耳穴っ子」を「ケチな女々しいオカマ野郎」と軽蔑する一方で、自らの将来像である肉体労働については「男らしい」ものと、(実状に必ずしも合致しないやりかたで)単純素朴に美化してしまうのである。
このようにして〈野郎ども〉は、一方で学校教育や学歴社会のウソを見破りそれに抵抗しながら、結局、全体社会のシステムから「落ちこぼれ」る道を自ら英雄的に選んでしまう、というのが、ウィリスの描き出すシナリオなのだ:

さて、1976年の秋には、ハマータウンの少年たちはまだ気力も活動力もたっぷりもっていた。多少の金もあるし、対抗的な文化に支えられた独特の自負の意識もまだ衰えてはいない。だが、そう遠くない日に幻滅が訪れると予測してもまちがいはないだろう。反学校の文化もその一支脈である労働階級の文化は、一般に勝者の誇りに満ちあふれた文化ではないのだ。それは元来が妥協と開き直りの産物である。厳しくとげとげしい生活条件の中で、なんとか最善を得ようとする工夫の産物である。〈野郎ども〉の言動を観察してもわかるように、この階級文化にはいくつかの強靱な節もあるけれども、節と節のより大きな空隙は諦めと弱さと卑屈で満たされているのであり、決して一枚岩的な構造の文化ではない。人生の限られたある一時期、少年たちは寄せ来る悲嘆の波をきっぱりとさえぎるとりでの住人であるかのように思いこむ。ゆるぎない自身に満ちあふれたこの一時期が、彼らのその後の長い人生を不利な方向に定める重大な選別の時期に当たっていること、まさしくこの事実に、労働階級の文化の、また社会の再生産メカニズムの、大いなる逆説が宿されている。その逆説の過程に公教育の制度と機能が深くかかわっているのである。 … 職場文化の見習工時代がひととおり終わる頃、すなわち、不快な環境で他者の利益のために骨身を削る生産労働の実状がよりくっきりと見えてくるころ、かつて学校がそう見えたように、職場は牢獄の観を呈しはじめる。かつての生気にあふれた〈野郎ども〉は、二重の意味でその牢獄にはめ込まれたのだ。皮肉なことに、職場が牢獄のように見えてくればそれだけ、教育こそがそこから免れうる唯一の脱出口であったという事情が了解される。だが、もはや手おくれなのである。(p.220-221)

ウィリスの「対抗文化」論は、このように、アンビヴァレンツに揺らいでいる。しかし、彼の皮肉めいた分析から〈野郎ども〉への揶揄を読みとることは、〈野郎ども〉を過度に英雄視することと同様に、誤っている。実はウィリス自身、労働者階級の出身者である。彼の分析は、彼自身の深い問題意識に根ざした、実践への関心に貫かれている。全体社会のウソを見破る洞察を、より有効な社会変革に結びつけるにはどうすればよいのか。その問いを、あくまで〈野郎ども〉の側から具体的に、実情に即して問い続けること、が、彼の「対抗文化」論なのである。

3:サックス「ホットロッダー」と情報化社会における「自律性」
ウィリスがハマータウンで調査をしていた1975年、アメリカのロサンジェルスで一人の若い社会学者が交通事故で世を去った。エスノメソドロジーの指導者の一人、ハーヴィー・サックスである。サックスは、会話分析の創始者として知られるが、また、彼が初期に探求していた「カテゴリー化」の問題、特に「自己執行カテゴリー」というアイディアは、死によってその探求が未完のまま中断されたとはいえ、「対抗文化」論を新たな段階に導くものであると思われる − いや、正確に言うならば、サックスのアイディアは、彼の意図をもしかすると裏切る形で、「対抗文化論」の死を宣言してしまったのではないかと思われるのだ。ともあれ、彼の「自己執行カテゴリー」のアイディアが提示された唯一の小論、「ホットロッダー」を見ていくことにしよう。
そもそもエスノメソドロジーという学派自体が、60年代カリフォルニアといういわば「対抗文化」のただなかで展開したものであり、論敵からは「マリファナ・スモーカーの社会学」と呼ばれさえしていた。現象学的社会学の流れを汲むエスノメソドロジーは、「事象そのものへ!」という現象学の態度を社会学に重ね合わせながら、常に当事者の視点の内側から、それも多くの場合、全体社会の支配的文化ではなく、マイナーな対抗文化の世界をその内側の視点から描き出していた。ヤキ・インディアンのフィールドワークから神秘主義的な体験の記述を次々と著したカルロス・カスタネダを始めとして、マリファナ喫煙・精神障害・犯罪・少年非行・自殺・性転換者等々についての研究が発表されていた。その中で、サックスが注目したのは、「ホットロッダー」(暴走族)達であった。彼は、一見したところ言語学にも似た手つきで次のように問題を提起する:

私は十代の若者と車に関してあれこれと考えてきた。しかし、これまでの考察では、その現象のもっとも重要な問題にまだまったくふれていない。これからその問題を考えてみたいと思う。これから述べる分析は、強すぎる主張となり、今の時点では立証できないかもしれない。だが、私が述べることは、とても複雑で検討するに値する重要な問題であるので、あえてその考察に取り組みたいと思う。/なぜ若者たちは車の分類学(タイポロジー)を作るのに精をだすのだろうか。この問いを解くことで何とか手がかりをつかむことがまずできる。 … まずこの問題に取り組むには、「ティーンエイジャー」と「ホットロッダー」というカテゴリーの間にどんな相違があるかを見ていく方法がある。私はこの二つがまったく異なったカテゴリーであると論じたい。すなわち「ホットロッダー」とは、あるきわだった理由で非常に革命的なカテゴリーなのである。したがって、私はそれがどのように、またどんな意味で革命的なのか、このホットロッダーというカテゴリーやそれと似た他のカテゴリーについて、とりあえずざっと述べていきたいと思う。(p.21-22)

「ティーンエイジャー」と「ホットロッダー」の違い − サックスの解答は簡潔である。「ティーンエイジャー」(青少年)というカテゴリーは、「大人」「全体社会」によって外側から貼り付けられた呼び名だ。そしてその呼び方を受け入れることは、すなわち、「ティーンエイジャー」というカテゴリーが帯びているあらゆるイメージ、あらゆる規範をまるごと受け入れさせられることに他ならない。「ホットロッダー」(暴走族)というカテゴリーは違う。それは、自分達が自称する呼び名だ。「ホットロッダー」とはどういう種類の人間で、どういうイメージを帯び、どう振る舞うべきか、そういった一切のものを、「大人」ではなく「ホットロッダー」自身が自らの手に握っているのである。彼らが例えば自動車について複雑な言葉を操っているとすれば、それは、単に彼らが車好きだというだけの理由からではなく、そうした複雑なやり方で世界の在りようを、「大人」の口の挟めない自分たちのやり方で説明しようとしている、ということに他ならない。そうやって自分の言葉を持つこと、それが、サックスの言う「自立性」であり、それこそが、「ティーンエイジャー」達の(「大人」「全体社会」によって保護され監視下に置かれた)(括弧付きの)「自立」とは根本的に異なる、「革命的」な性格をもつ、ということになるのだ。サックスはそれを、「自己執行カテゴリー」ないし「カテゴリーの自己執行」と呼んだ。
サックスの指摘は非常に単純なものだ。そして、それは一見したところ、単に「対抗文化」論のもっとも基本的な視点の一つを繰り返しているに過ぎないようにも見える − 自分達の呼び名を外側からのレッテルでなく自分で決めることの重要性については、例えば前節で辿ったウィリスも十分に理解していた。ウィリスがその研究対象を「落ちこぼれ」ではなく〈野郎ども〉と呼びその内側からものを見ていこうとしたことは既に見てきたとおりだ。その限りでは、いまさらサックスの単純な指摘を改めて取り上げる必要はないかにも見える。ウィリスの研究の方がずっと厚みのある、〈野郎ども〉の顔までくっきりと見える記述を提供しているではないか。
しかしながら、むしろその単純さによってこそ、すなわち、言語カテゴリーに分析視点を限定したことによってこそ、サックスのアイディアは画期的なものとなっているのだ。なぜなら、サックスにとって、「全体社会の支配的文化」と「対抗文化」との闘争は、具体的な顔の見える小さな集団によって担われるものではなく、より一般的な情報流通空間の中に位置づけられるものに他ならなかったからである。ウィリスがイギリスの具体的な階級社会の中で研究を進めていたのに対し、サックスはアメリカという高度に情報化された社会の中で研究を進めようとしていたのだ:

さて、以上述べてきたことが現実の世界ではどうなっているのか、それを十分に理解するためには次のことに注意しなければならない。まず第一に私たちが扱っているのは、集団ではなくカテゴリーであることだ。(女性、老人、黒人、ユダヤ人、ティーンエイジャー等々の)カテゴリーの大部分は、普通、集団という場合のどの意味をとっても集団とはいえない。けれども、どのカテゴリーについても私たちは豊富な知識を持っている。どのメンバーもこうしたカテゴリーのどれかを代表するものとして見られ、あるカテゴリーに当てはまる人は誰でもそのカテゴリーの一人のメンバーと見なされる。そして、そのカテゴリーについて知られていることはまた、彼らについて知られていることなのである。ということは、一人の人の運命というのは(そのカテゴリーのメンバーである)他の人々の運命に結びつけられており、その結果、内部でもメンバーによって執行されている当のカテゴリーを中心とした社会統制のシステムが規則的につくり出されていくのである。 … こうした社会統制のシステムは、どの政府によっても執行されていないし、それを執行する役所も存在しない。また、大部分のメンバーは互いに面識すらないのだ。だが、彼らは、翌日の新聞に、彼らのうちの誰かが何かをしたという知らせが載るのをずっと気にとめながら、生活し、そして死んでいくのである。(p.33-34)

サックスが「ホットロッダー」達に託したもの、それは、このような形でメディアによってお仕着せのカテゴリーを押しつけ自己統制を強いる情報化社会の「支配的文化」に対して、再び自らの言葉を取り戻し「自律性」を打ち立てるという「革命」なのである。
さて、ところが、そうした「情報化社会」のもうひとつの側面、すなわち「消費社会」という背景を併せて考えに入れていくと、本節冒頭で触れたとおり、サックスのアイディアは彼自身の意図を裏切る形で「対抗文化」ないし「対抗文化論」の死を宣言してしまっているのではないか、と思われるのだ。詳細な議論は別稿に譲るとして、ここでは問題のアウトラインだけを素描することにしよう。

4:消費社会と「対抗文化」の蒸発
「ホットロッダー」達のカテゴリー・システムが「革命的」であるための条件は何か?ごく当然のはなしとして、それは、「大人」ないし「全体社会」のカテゴリー・システムに対抗するようなものでなければならないはずだ。ところが、サックスの議論を辿ると、彼がカテゴリー・システムの供給する具体的な意味内容をまったく問題にしていないことに気づくだろう。つまり、サックスの議論を辿る限り、「ホットロッダー」が革命的なのは、彼らの用いる言葉が大人や社会に対する反抗に満ちているからではなく、単に彼らが独自の言語システムを自立的に運用しているからという理由のみによって「革命的」なのである。このことは、ウィリスの〈野郎ども〉が具体的な反権威主義的価値観をもって描かれていたこととは対照的である。無論、だからといってサックスの議論が不完全であるということにはならない。むしろ、繰り返すように、階級社会という「具体的な敵の見える」社会における対抗文化を記述したウィリスの分析に対し、サックスは、情報化社会という「具体的な敵の見えない」社会における対抗文化の在りようを的確にモデル化していたと言える。ただし、「具体的な敵の見えない」社会に於いて「革命的」であることが果たして可能だろうか、と、更に問い直す事はできるだろう。それは、ウィリスとサックスの理論モデルの優劣を問う問いではなく、両者が属し記述を試みた社会そのものの差異をめぐる問いである。この問いは、改めて問われるに値する問いであろう。
一方、より身近な経験に引きつけて考えるならば、サックスが「ホットロッダー」達のものとして描き出したカテゴリー・システム、すなわち、「大人」「全体社会」の言語からは自律したマイナーな言語、余所者にはわからない内輪のマニアックな言語、は、今や我々の身近なところで、特に「革命的」と顕揚するまでもないほどに、あふれているではないか。「ホットロッダー」達が自動車について産み出していた詳細な分類学は、今や、さして反社会的でもない文化のあらゆる領域で展開されている。ファッションや小物について、音楽について、食物について、スポーツや趣味について、我々は、詳細なカタログや蘊蓄を与えられており、それぞれのジャンルの部外者にとっては理解不能なやりかたで、あれはイケてる、これはダサい、とこだわりながら生活を営んでいるのだ。いわば、「分衆の時代」に相応しい形で、「ホットロッダー」的なマイナーなカテゴリー・システムが社会全体を覆ってしまっているのである。この事態は、社会の「消費社会」化に対応している。
「消費社会」を、ここでは簡明に、「生産システムの自己展開が進んで、消費が生産に追い付かなくなる危機に直面し、そのために改めて大量の消費欲望を産出するためにメディアを介して細分化された「イメージ」のカタログを供給する必要が全面に展開する社会」と理解しておこう。
近代=資本主義社会の前期にあっては、生産システムを合理化し効率化することが社会の課題だった。ウィリスの分析した階級社会とは、イギリス産業革命以来のそうした生産主導の社会である。そこでは、資本主義的な合理主義に対する労働者文化、そしてそれと相似をなす図式として、学校に対する〈野郎ども〉の文化、が描き出されていた。ウィリスの分析は、反合理主義的な「対抗文化」がいかにして合理主義的な資本主義的生産システムに吸収されていくか、あるいはその吸収を逃れ社会を変革する手掛かりとなりうるか、という点に焦点を当てていた。ところが、そうした産業革命以来の生産システムの展開は、ある時点で決定的な危機を迎える。生産システムの拡大再生産的な展開はある時点で、社会の総需要のラインを踏み越えてしまうのである。それ以降、社会の課題は、いかに生産システムを効率化するか、ではなく、拡大再生産を続ける生産システムの自己展開に見合うだけの大量の消費をつくり出すこと、消費者の側に大量の消費欲望を煽り立てること、になる。そのために、資本主義はメディアと連結する。単なるモノではなく、モノにまといつく「イメージ」を売ることが、危機の解決戦略となるだろう。今や、1台の自動車を最後まで乗り潰す者はいない。車を買い換えたからといって通勤時間が短くなるわけでもないのに、我々は次々と車を買い換えるだろう。それは、車が単なるモノであることをやめ「イメージ」商品となり、シーズンごとに次々とカタログ変更されるモードの論理に従い始めたからにほかならない。「消費社会」=「情報化社会」の成立である。
「ホットロッダー」的なマイナー・カテゴリー・システムは、まさにそうした消費社会のメディア戦略に端的に適合している。それは、「革命的」であるどころか、まさに消費社会の中核的装置=メディアに連結してしまったのである。そこでは確かに、マイナーな内輪の言語が交わされ、部外者の入る余地のない、サックスの言う意味での自律的な世界が営まれている。しかし、そのようなマイナーな世界が大量に分立し、個々の消費者が「価値観の多様化」を享受するようにマイナーな世界で自らの欲望を「自律的」に追求することそのものによって、消費社会がより安定して展開することになるのである。
サックスのアイディアが彼自身の意図を裏切って「対抗文化」「対抗文化論」の死を宣告してしまった、というのは、大まかには、こういう意味である。「対抗文化」は、全体社会によって圧殺されるのではない。むしろ、社会の中核に取り入れられることによって、その可能性そのものが蒸発してしまうのである。

5:おわりに
以上、本稿では、ウィリスとサックスという二人の社会学者の「対抗文化」論を辿りながら、「対抗文化」の行方を見定める事を試みた。
無論、前節までに行ってきたアウトラインはあくまで理念型的なほんの素描に過ぎず、また、それ自体としては「強すぎる主張」でもある。実際の経験的研究に際しては、恐らく、ウィリス的な階級論も、サックス的な自己執行カテゴリー論も、場合に応じて有効であろう。従って、本稿の結論的な主張は次のようなものとなるだろう。
本稿冒頭で述べたとおり、「対抗文化」論は、もともと、「教育」といった言葉が陥りがちな「キレイゴト」を覆すという批判的な問題意識に導かれていた。ところが、前節で辿ったとおり、ウィリス的なものであれ、サックス的なものであれ、こんにち「対抗文化」を語る場合、「社会変革の可能性」「革命性」といった原理的な次元で批判的主張をすることが極めて困難になっている。こんにち、従来と同じスタンスで「対抗文化」を語ることは、ともすれば「メディアの中を浮遊する若者文化」を顕揚することによって、批判性を欠いたかたちで社会の中核そのものの言葉を語らされる危険と背中合わせになっていると思われるのだ。もしそうだとするならばそれは、裏返しの「キレイゴト」に再び陥る危険性だともいえるだろう。そうしたなかで、我々は、なにをなすべきか。
ごく当然の結論として、我々もまた、ウィリスやサックスが行ったように、具体的な現実の中に入っていくことになるだろう。ただしその際に、研究対象たる「対抗文化」のいわば「対抗性」を、逆の意味でノスタルジックに理想化してしまわないこと、あくまでも具体的な現実の分析に常に立ち返ること − ごく当然のこうしたことを再確認するのが、本稿の結論となるだろう。

【註】
本稿第1節は、97年度開講「コミュニティ教育論」の中で論文を持ち寄り輪読・検討した際の議論がもとになっている。第4節の消費社会に関する議論は極めて単純化したものであるが、より正確な理解の手掛かりとしては、薬師院(1995)の明解な説明を是非参照されたい。また同節で触れたウィリスの図式の「近代性」に関連する文献として、山本(1988)の刺激的なテキスト分析を挙げておく。併せて参照されたい。

【文献】
増山均(1995)「地域づくりと生き生きする子どもたち」『地域開発』'95.6月号
サックス,H.(1979=1987)「ホットロッダー」山田・好井・山崎編訳『エスノメソドロジー』(せりか書房)所収
ウィリス,P.(1977=1985)『ハマータウンの野郎ども』(筑摩書房) (=1996,ちくま学芸文庫)
薬師院仁志(1995)「生産と消費に関する社会学的研究」 『教育・社会・文化』no.2.(京都大学教育学部)
山本雄二(1988)「自己訓育と教育関係 − 『ハマータウンの野郎ども』を読む」 『教育社会学研究』第43集(東洋館出版社)