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・「「教育/言説」をどう「読む」か − 『言葉と物』読書ノート」『天理大学生涯教育研究』no.4,pp.31-49.天理大学人間学部人間関係学科生涯教育専攻研究室(2000/3/22)


「教育/言説」をどう「読む」か − 『言葉と物』読書ノート
石飛 和彦   

0:はじめに

 本稿は、2年前に筆者が執筆した小文(『教育言説をどう読むか』(今津・樋田編、新曜社(1997))への書評)への、補注となるだろう。その論点は以下の2つである:(1)「教育言説」とは、「教育」についての「言説」であるというより、むしろ、現代的な「言説」は本質的に「教育」的である、つまり、いうなれば「教育/言説」と表記されるべきものである。;(2)「言説」が本質的に「教育」的なものとして聞き手に迫ってくるとするならば、それを「読む」ためには、ある姿勢で臨まなければならない。
 以下では、それをM.フーコーの言説論に倣って展開することになるだろう。

1:「言説」とは何か − M.フーコーの言説論に倣って

1−1:言説=「”語る”こと」をめぐって

 それにしても、「言説」(ディスクール)とはいったい何か? しかし、この単語に独特の現代的・批判的なニュアンスを与えたフーコーの著作『知の考古学』を読んでみても、すぐには明快な定義には出会えないようだ。そこで、ここではとりあえずフランス語の名詞「ディスクールdiscours」の辞書的な語義からニュアンスを汲んで、「言説」=「”語る”こと」と、さしあたりかんがえておくことにしよう。
 「語る」といっても、言語学的ないみにおける「発話」といった、厳密で専門的なニュアンスを想起するのはさしあたりひかえておこう。ここで「語る」ということばを使ったのは、もっと日常的なふくらみをもったニュアンスを込めてのことだ。「あいつは酒を飲むとすぐ”語る”クセがある」 − こういう場合の「語る」という単語には、たんに音声を発する、声に出して言う、という以上のニュアンスがこもっているだろう。ここには、フランス語の「ディスクールdiscours」の語義(「講義」「講演」「演説」「説教、訓辞」あるいは「(事実や行為を伴わない言葉の上だけの)話、談義」等々)に通じるような微妙なニュアンスが含まれているのがわかるだろう。
 フーコーの言説論が批判的であるのは、こうした微妙なニュアンスにおいてである。彼の政治的立場がしばしば曖昧だといわれたのも、そこに理由がある。ようするに、誰もみな、社会正義のために声高に「”語る”こと」こそが望ましく、また義務である、と信じて疑わないのだが、まさにその思い込みをこそ、フーコーは批判しているのだ。じっさい、うんざりするではないか。わたしたちは、むしろ”語り”過ぎなのではないか? 既に誰もが”語って”いるではないか。少しばかり酒が入っただけで”語り”はじめられるような”語り”、そうしたものが既にこの社会に、息苦しくなるほど充満しているではないか。その中で、よりいっそう声高に”語る”こと、他ならぬ自分が”語る”ことでこそ社会正義が実現すると考えるのは、ひどく楽天的ではないだろうか? むしろ、そうした「”語る”こと=言説」が充満して息が出来なくなってしまいそうだというこの状態こそが、わたしたちの不自由、権力がわたしたちの首を絞めているやりかたなのではないか? それはとりもなおさず、この社会が、わたしたちひとりひとりに、よりいっそう声高に、饒舌に、もっともらしく、エラそうに、うっとりと、”語る”ことを強制しているということなのではないか? だとするならば、社会を批判的に検討しようとする者は、この状態をこそ、根本的に批判しなければならないのではないか − ?
 では、彼はその批判をどう肉付けしていくか。彼は、たんに、「”語る”こと」はなんとまあうっとおしいことだね、とだけ言っているわけでは、もちろん、ない。むしろ、そうした皮膚感覚的なものは、批判の出発点にしかすぎない。彼はそこから、歴史的な探求に向かった。そして、フーコーがあきらかにしたのは、「言説=ディスクール」がそのようなうっとおしい「”語る”こと」になったのは、実は西欧においては19世紀初頭から以降であるにすぎない、という奇妙な発見である。それまでは、現在のようなうっとおしい「”語る”こと」は、社会的に成立しておらず、「言説」は全く別の様態で社会的に編成され流通していた、というのだ。

1−2:フーコーの言説論について

 さて、フーコーの歴史的分析を辿るに先立って、ここであらためて「言説=ディスクール」ということばの定義をやり直しておかなければならない。先程さしあたり定義したような、「”語る”こと=ディスクール」という定式は、正確には、あくまでも「言説」のひとつの様態、すなわち19世紀以降の「言説」のありかたであるに過ぎない。では、フーコーは「言説」ということばに対して、より一般的・通歴史的な定義をどのように与えているのだろうか:

ここで、甚だしく異なった意味で用いられ、濫用された、〈言説〉という用語についていえば、いまや、その多義性の理由を理解することができる。すなわち、もっとも一般的、かつ、もっとも宙づりなかたちで、この用語は、言語運用の総体を指示していた。そして、言説とは、そのとき記号の総体から生み出されていたもの(場合によっては、すべての生み出されていたもの)と解されていた。だが、また、定式化の行為の一つの総体とも、一連の文あるいは命題とも解されていた。最後に − そして、つまるところ特権化されているのはこの意味であるが(それの地平として働く第一のものとともに) − 言説は、記号の継起の総体によって、ただしそれらの継起が言表である限りにおいて、つまり、それえらが特殊的な存在様態として示される限りにおいて、構成されている。そして、これから間もなくはじめるように、かような一つの系の法則が、まさしく、私がこれまで〈言説形成=編成〉と呼んだものであることを示すに至るならば、また、言説形成=編成がたしかに分散と配分の原理であって、定式、文、命題にではなく、言表(私が付与した意味での言表)にかかわることを示すようにすれば、言説という用語は定着されうるであろう。すなわち、形成=編成の同一のシステムに属する言表の総体、ということになる。こうして、臨床医学的言説、経済学的言説、博物誌的言説、精神病学的言説、などについて、語ることができるであろう。(『知の考古学』邦訳書163−4頁)

・・・と、フーコーの論述は万事この調子でいっこう不得要領なのだが、どうやら「言説」とは、(1)「言語運用」「記号」「定式化の行為」「記号の継起」の「総体」、さらに正確にいえば「言表=エノンセ」(この語についてはまたややこしい定義があるが省略)の「総体」である、らしい。そして、(2)さまざまな「言説」は、そうした「言表」がそれぞれ固有の「形成=編成のシステム」によって編成されたものだ、ということである。
 これはかなり無気味な定義だ。なぜなら、「言説」を定義するのに、「言表」の「総体」とだけ言い、その「言表」を書いたり語ったりしたはずの”生きた人間”が登場しないからだ。また、「言説」が「一つの系の法則」を帯びて編成されているといいながら、その法則を統御する主体=人間を登場させず、あくまでも「言説形成=編成のシステム」として、「言説」それ自体の次元で定義を完結させてしまっているのである。フーコーが見たとき、臨床医学の領域でさまざまに語られている言葉は、そこで医師や患者が何を見て何を感じ何を考えてどういうつもりで喋っているかとは関係なく、あくまで、ひとつの「言説形成=編成のシステム」に統御されるかたちで、「臨床医学的言説」として規則正しく配列されている、というのである。いや、むしろ、医師や患者が見たり感じたり考えたり喋ったりすることは、そうした言説の配列の規則に統御された形でしかなされない、というわけだ。
 こうしたフーコーの「言説」観をイメージするには、紙の上に砂鉄をばらまいて裏側に磁石を当てる、あの遊びを想起するといいかもしれない。わたしたちが日々、語っている「言葉=言表」が砂鉄の一粒一粒に当たる。そして、喋っている当人には見えないが、上から見ると、そうした言葉の集まったものが規則的に配列され、美しい磁力線の模様が紙の上に形成されている − 。
 フーコーの歴史的言説分析の美しさは、そうした紙の上に描かれた幾何学的な絵模様が歴史のある時点を境に劇的に形を変えて、新たな配列を作り出す、というところにある。特にフーコーの主著である『言葉と物』では、そうした配列の変化が、あざといまでに鮮やかに描かれているだろう。
 『言葉と物』が分析しているのは、まさに「言説」そのものの歴史といってよい。「誰が − 何について − どう語るか」を、フーコーは辿っていく。この「どう語るか」の部分すなわち「言葉」と、「何について」の部分すなわち「物」との”関係”の変化を歴史的に辿ることが、『言葉と物』でのフーコーの課題となっている。そして、結論を先取りするならば、19世紀以降、「言葉」と「物」との関係の変化、すなわち「言説」の配置の変化が起こって、はじめて、「誰が」という項が「言説」の場に浮上してきた、すなわち、「言説=”語る”こと」となった、ということになるのだ。

2:「”語る”こと」=現代的な「教育/言説」に至る言説編成の3つの様態

2−1:16世紀まで − 「言葉」と「物」の交錯する世界

 フーコーが最初にとりあげるのは、16世紀ルネサンス期の「知」のありようである。パラケルスス、カルダーノといった学者たちが登場人物だ。彼らは医学者であり自然学者であり哲学者であり、同時に占星術師であり魔術や錬金術の研究も行っていた。なによりまず、この混淆の意味するものはなにか? − それは、”科学”の開始と”迷信”の残存との交錯、を意味しているわけではない。そうではなく、彼らの生きた16世紀の「知」の基本的なパターンが「類似」という原理によって一貫して構築されていたのだとフーコーは言っているのだ:

十六世紀末までの西欧文化においては、類似というものが知を構築する役割を演じてきた。テクストの釈義や解釈の大半を方向づけていたのも類似なら、象徴のはたらきを組織化し、目に見える物、目に見えぬ物の認識を可能にし、それらを表象する技術の指針となっていたのもやはり類似である。世界はそれ自身のまわりに巻きついていた。大地は空を写し、人の顔が星に反映し、草はその茎の中に人間に役だつ秘密を宿していた。(『言葉と物』邦訳書42頁)

天空の一面に星が散らばっている様は、大地に一面に草が生え育っている様に類似しているし、おなじく地上に動物たちが生活している様に類似しているだろう。惑星達の輝きや色、動き、また星座たちの形は動物や神々に類似することで天井世界を神話や伝説の世界に結びつける。また、はるか上空の星の輝きは、はるか地中深くに埋もれているダイヤモンドの輝きにも類似しているだろう。16世紀の彼らにとって世界とは、天空の星の世界・地上の自然の世界・地中の鉱物の世界・神話や伝説の世界、等々が互いに「類似」によって何重にも重なり合い緊密に交錯しているようなものだった。そして、その重なり合いの中心に深く埋め込まれている存在、それこそが人間の身体だったのである:

・・・あらゆる方向にすじを引かれたこの空間には、特権的な一点がある。・・・この点こそ人間にほかならない。人間は、動植物、大地、鉱物、鍾乳石、嵐と相応していると同じく、また天界とも相応しているのだ。人間は世界の諸相のまえに立ちはだかり、天空ともかかわりをもつ(人間の顔とその身体との関係は、空のおもてとエーテルとの関係に等しく、その血管に脈の搏つさまは、さながら星がそれぞれの軌道をめぐるのに似ており、その顔の七つの穴は、天なる七つの惑星と同じ相をなしている)。しかし、人間はこれらすべての関係を地上に落下させるのであって、人間という動物とそれが住む大地との間の類比にも、これらの関係が相似したかたちで見いだされることとなる。すなわち、肉は土塊、骨は岩、血管は大河である。膀胱は海であり、人体の七つの主要部分は、鉱山の底に隠されている七つの金属にほかならない。(46−47頁)

だからこそ、彼らにとって、星の動きや自然の有り様や鉱物の変成を研究することと、人間の身体の病気を治すことと、人生の運気を読み取ることとは、すべてひとつながりの「知」の営みだったのである。
 彼らにとっての「知」とは、すなわち、「類似」を手がかりにしながら「しるし=記号(シーニュ)」を「読み取ること」に他ならなかった。すなわち、彼らにとって世界とは「本」のようなものだったのだ:

パラケルススは言う。「神が人間のために創りたもうたもの、神が人間にあたえたもうたものが隠されたままであるのは、神の望まれるところではない。・・・神はある種の物を隠したもうたとはいえ、特別の標識をもったそとに見えるしるし[シーニュ=記号]なしには何ひとつ残されはしなかった − 宝物を埋めた男が、それをまた見つけられるよう、その場所に標識をつけるのと同様である。」相似の知は、これら外徴の摘出と解読にもとづく。・・・世界の相貌は、紋章、文字、暗号、晦冥な語 − ターナーによれば「象形文字」 − によって覆われるのである。かくして直接的類似の空間は、開かれた大きな書物のようなものとなる。そこには無数の文字記号がひしめきあい、ページ全体をつうじて、奇妙な形象が交叉し、ときには反復されるのが見られるのだ。あとはそれらを解読するだけでよい。(51−52頁)

クルミの実が頭蓋の病気に効くのがなぜわかるか? それは、クルミの実の形が頭蓋骨とその内容物に似ているからだ、それを自然という「書物」の中からの中から「読み取る」ことこそが学者の役目だ、というわけである。
 こうなれば、いまや、彼らにおいて科学と魔術、占卜とが混淆しているかに見える事情も理解できるだろう。それらはすべて、「類似」を手がかりにする16世紀の「知」のスタイルなのである:

人生という広大な織物のなかでの運勢、偶発事、障害がどのようなものであるかを、掌の襞あるいは額の皺が人体のうえに描きだしているということに、人はどうして気づきうるであろうか? それは、共感が人体と天とを通じさせ、惑星の運動を人間の出来事に伝達するからにほかならない。それはまた、掌の筋の短さが短命の端的なイメージを、二本の襞の交わりが障害との遭遇を、上向きの皺のより方が成功めざすその人の上昇を、それぞれ反映しているからにほかならない。幅ひろさは富と権勢の記号であり、連続性は好運の、不連続性は不運の標識である。(52−53頁)

 さて、こうした16世紀の「知」の世界においては、「言葉」と「物」は、まさに同じレベルで混在していた。「物」を観察することは、「言葉」を読むのと本質的に同じ事だった(なぜなら、彼らの「知」は「物」の姿から「しるし」を読み取ることに他ならなかったから)し、同様に、「言葉」を読むこともまた、「物」を観察することと区別を付けられていなかった:

・・・〈古代〉から伝わった財宝のなかでは、言語は物の記号としての価値をもつ・・・。われわれに地中の秘密を知らせるため、神が地表に残したあれらの可視的な標識と、伝承によって救われた典籍のなかに、聖書なり、神の叡智に導かれた〈古代〉の賢者なりによって残された、読むべきものとしての語のあいだには、何ら相違はない。テクストとの関係は物との関係とおなじ性格のもので、いずれの場合にも、とりあげられるのは記号[しるし、シーニュ]なのである。・・・〈古代人〉の遺産は、自然それ自体とおなじく、解釈されるのを待っている広大な空間である。いずれの場合にも、記号をとりあげ、すこしずつそれらに語らせていかなければならない。換言すれば、《占卜》と《博識》とは同一の解釈学なのである。(58−59頁)

まさに世界と書物は、相互に幾重にも分厚く重なり合っていたのである。  この時代の「知」の特権的な表現形態は、当時生み出された「百科事典」である。ただしそれは、17世紀後半以降に登場する、アルファベット順に事項の配列されたものではなく、まさに「書物としての世界」そのものを紙の上に再現しようとするものであった。そこには、17世紀以降の「知」の視線からすればおよそ混濁したとしか見えない、16世紀の「知」がぎっしりと記載されている:

・・・「蛇類一般について」という一章が次の順序で展開されていく。多義性(すなわち《蛇》という語のさまざまな意味)。同義語および語源。種類。形態とその記述。解剖学的構造。性質および習性。気性。交接および生殖。声。運動。棲息地。食物。容貌。反感。共感。捕獲法。蛇による死傷。害毒の症状と徴候。治療法。形容語。名称。驚異および前兆。怪蛇。神話。蛇にゆかりのある神々。教訓談。寓話および神秘譚。象形文字。寓意画および象徴図。格言。貨幣。奇蹟。謎。金言。紋章。歴史的事実。夢。画像および彫像。食物としての用途。医学上の用途。その他の用途。(65頁)

のちに18世紀フランスの博物学者ビュフォンは、これを読んで「これらすべては記述ではなく伝説(legende)」だ、と言った。そしてそれはまさにその通りであり、16世紀には、言葉は書物として「読むべき物(legenda)」だったのだ、とフーコーは言う。そこには、「”語る”こと」といういみでの「言説=ディスクール」は存在しない。16世紀に「言説」は、「言葉」と「物」とが錯綜しながら際限なく連鎖するという形で配置されている。そこで人は、世界の中に自ら埋め込まれながらただ世界という書物から「しるし」を読み取ってはまたそれを書物に書き記し世界に付け加える。この分厚く自己完結的なありかたこそが、16世紀の「知」のシステムだったのだ。

2−2:17−18世紀「古典主義時代」 − 「物」からの「言葉」の分離・独立

 「知」のシステム、と一口に言っても、当然、研究領域によってその歴史はそれぞれ異なるはずだ。例えば、「言語学」の歴史を見てみるならば、通常は、17世紀中葉にまとめられた『ポール=ロワイヤル文法』が重要なメルクマールとなっている。同じく、「生物学」の歴史では、18世紀の博物学者リンネによる植物の体系的分類法の確立の時期が重大な転換点であって、それまではアリストテレス自然学・スコラ神学・デカルト的機械論モデルといった様々な思弁的生物観が、合理的・実証的な生物学の成立以前の前史をなしていた、とされる。また、「経済学」の歴史を見てみるならば、通常は、16世紀以来おこなわれた「重商主義」の政策がその起源に挙げられている。ところが、フーコーが明らかにしたのは、これらの諸学の、個々の学説史の時間的な(タテの)一貫性よりもむしろ「知」のシステムの同時代的な(ヨコの)一貫性の方が、じつはよほど深くかつ強力だ、という事実である:

たとえルネッサンス以来今日まで、ヨーロッパの《ラティオ[理性]》の動きに、ほとんど断続がないという印象を与えられようとも、それは偽りのものである。リンネの分類は、多少整備すれば、おおむね有効性のようなものを持ちつづけるだろうとか、コンディヤックにおける価値論は、部分的には十九世紀の限界効用学派のうちに認められるとか、ケインズは彼自身の分析とカンティヨンのそれとのあいだに類縁関係を感じていたとか、《一般文法》の意図は(ポール=ロワイヤルの著者たちやボーゼのうちに見いだされるもののことである)、今日の言語学からそれほど隔たってはいないとか、そのように考えても無駄である − 観念やテーマのレベルでのこうした擬=連続性は、おそらくすべて表層的現象にすぎまい。考古学のレベルに立ってみれば、十八世紀と十九世紀の曲り角で、実定的諸領域の体系は全体として大きく変っているからだ。といっても、理性が進歩したのではない。ただ、物とそれらを類別して知にさしだす秩序との存在様態が、根本的に変質してしまったのである。トゥルヌフォールやリンネやビュフォンの博物学が他の何かに関係があるとすれば、それは生物学や、キュヴィエの比較解剖学や、ダーウィンの進化論にではない。ボーゼの一般文法にであり、ローやヴェロン・ド・フォルボネやテュルゴに見られる貨幣と富の分析になのである。(21頁)

重要なのは、ある時代の「知」のシステム全体の基層に一貫している「言説」配置の様態なのだ。そして、その観点からフーコーが見出す二つの大きな「断層」は、17世紀初頭から中葉にかけての時期(つまり、この断層は、16世紀ルネサンスの財政・貨幣論と17世紀以降の貨幣価値分析とを画然と切り分け、また、互いに正反対の発想とされているデカルト的機械論と博物学との一貫性を明らかにするだろう)と、19世紀初頭の時期にある。その間に挟まれた二世紀を、フーコーは「古典主義時代」と呼んでいる。では、そうした「古典主義時代」の「知」のシステムとはどのようなものだったのか。
 古典主義時代の始まりを代表する哲学者デカルトは、『方法序説』の中で自らの哲学の誕生の瞬間を次のように語っている:

そのころ私はドイツにいた。戦争がまだ収まらずに、私もそれに参加していたときのことである。皇帝の戴冠式もおわり部隊へ戻る途中、おりしも冬の初めで、ある村里に滞在したのであったが、そこには談話をかわして私の気を散らすような相手もなく、そのうえなお一つ有りがたいことには、私をなやますような煩わしいこと、亢奮をおぼえることもおこらなかったので、終日ただひとり炉部屋にとじこもり、ゆっくり落ちついて、さまざまの思索に耽ったのであった。(『方法序説』第二部冒頭部、22頁)

ここには既に、先に概観してきた16世紀ルネサンス期の「知」のありようとは決定的に異なる「知」が開始されようとしている。16世紀の「知」は、世界=書物に直に向き合っていた。世界=書物から”しるし”を読み取り、それをまた書物=世界に書き残すことが「知」の営みであった。しかし、デカルトは、たったひとりで、部屋の中にこもって思索に耽る。そして、自らの「理性」の導きだけに従いながら、生まれてこのかた自分が見聞きしてきた事の一切を疑った後に、「我思う、故に我在り」という命題に到達し、そこからこんどは様々な命題を演繹的に順次、導き出していく − すなわち、神と人間精神の存在について、また、自然的世界の諸法則について、論じていく。
 すなわち、ここでは”読み取り、書き記す”という「知」のシステムではなく、”思考=論理分析し、語る”という「知」のシステムが稼働し始めているのである。あるいは次のように言い換えることもできる。16世紀には、「言説」は、「言葉」と「物」とが錯綜しながら連鎖し分厚く重なり合う形で配置されていたが、今や、「言葉」が「物」から分離し、「思考」の内部において「言葉」が「思考」そのものと一体化した形 − フーコーはそれを「表象」と呼ぶ − で、自律的な抽象的・普遍的・論理的空間=「表象空間」を形成した。「古典主義時代」における「知」とは、この「表象空間」の内部を思考によって論理的に分析して秩序づける − 「一覧表」をつくる − 営みをこそ、意味するようになったのである。
 17世紀中葉に『ポール=ロワイヤル論理学』『ポール=ロワイヤル文法』が刊行されたのは、こうした文脈においてである。そこで扱われている対象としての「言語」は、16世紀にそうであったような、そこから古人の知恵のしるしを読み取るべき”暗号”の体系を、もはや意味していない。いまや、「言語」は「思考」の最も近くで「思考」を分析する道具なのである。そこで、文法学とは論理学あるいは観念学と密接に連動することになる。この時代に追求された「一般文法」の企ては、「言語」の歴史や系譜を辿ることに無頓着になる。むしろ、各地域の諸々の「言語」がそれぞれどのようなやりかたで「思考」(それは、いかなる国の人々であろうが共通の普遍的「論理」からなるはずだ)を分析し秩序立てている(すなわち「言葉」ないし「命題」に表現している)かを、「一覧表」にすることこそが目指された。
 18世紀の博物学者リンネが体系づけたのもまた、植物の「一覧表」をつくるための分類法であった。デカルトが彼一流の思弁と力学からの連想で打ち立てた「機械論モデル」に対し、18世紀の博物学者達は、生きた動植物たちの活き活きとした多様性をそのまま捉えようとして、実証的な観察の目を自然に向けた − というのが現代の「生物学」から振り返って見たリンネ評価である。そして、やはり同時代のビュフォンが16世紀のアルドロヴァンディの『蛇と龍の話』を批判した(先述の)言葉からも、この時期の生物に対する視線がいかに実証的かつ客観的な観察の情熱に満ちていたかがわかる − と言われている。しかし − とフーコーは言うのだが − 彼らは必ずしもルネサンスの博物学者たちより熱心に”見て”いたわけではなかった。例えばビュフォンがアルドロヴァンディの記述を批判したのは、そこに書かれていたものがあまりに”多過ぎ”たからであり、地を這う蛇の姿から”読み取る”ことのできるあらゆる博識を書き留めようとするアルドロヴァンディに対し、ビュフォンは、ちょうどデカルトが炉部屋でひとり、みずからの「理性」だけに導かれて思索したのと同じように、みずからの目で見ることのできる(それはすなわち、”誰の目にも”普遍的に見ることができる、ということに通じる)ものだけを、見ようとしたのだ。そして彼ら18世紀の博物学者たちが実際に「見た」のは、植物の「構造」ないし「特徴」(雄蕊や雌蘂の数や形状、等々)であり、その極めて体系的に限定された要素だけを観察し、それぞれを名付け、「一覧表」を作ることこそが、彼らにとっての「知」の営みだったのである。彼らの「観察」の営みもまた、従って、「表象空間」の中での言語的な秩序づけにほかならなかったのであり、デカルト的機械論との差異は、この次元では極めて表面上のものに過ぎないのである。
 同じことは、「重商主義」経済政策の中でも起こっていた。16世紀の貨幣論者にとって、貨幣が価値をもつとはすなわち、貨幣の材料としてどのような金属(とくに金)がどれだけ含まれているか、ということをいみした。貨幣は金属の”しるし”であり、金属は富の”しるし”であった。その象徴的性格は究極的には、地中深くに産する金属の輝きが天空高くに瞬く星の輝きに類似する、といった形で保証されるものであった。貨幣は質が悪いほど急速に流通し金属含有量の多い鋳貨ほど退蔵されやすい、「悪貨は良貨を駆逐する」という「グレシャムの法則」は、この時代のものである。ところが17世紀に入って事態は逆転する。貨幣の価値はあくまでそれが貨幣として流通し交換に用いられるという点にこそ存する。貴金属の価値は、むしろ貨幣の交換機能から派生するものだ、と見られるようになるのである。そこから、「古典主義時代」の貨幣論・価格論はひとえに、この交換のメカニズムに関わるものであり、その目的は、通貨の適正な流通状態を実現するような交換の秩序 − これもまた貨幣の価値をめぐる「一覧表」として「表象空間」内に描かれるだろう − を実現することなのである。
 さて、これらの諸領域で一貫して見出された古典主義時代の「知」のシステム、「表象空間」を形成する言説の配置は、ある種の「”語る”こと」=ディスクールを実現しているかに見える。なによりまず、通常『方法序説』と訳されている書名は、"DISCOURS DE LA METHODE"、すなわち「方法のディスクール」を意味しているのである。しかし、慎重に考えてみよう。
 デカルトがこの著作を、哲学書としては初めてラテン語でなくフランス語で発表したことに、あらためて注目しなくてはならない。デカルトは、明らかに”語って”いる。しかし彼は孤独な想念を呟いているわけではない。むしろ、ラテン語ではなくフランス語で、すなわち、自らの「思考」をそのまま平易な母国語を用いることによって、およそ言葉を理解するだけの「理性」をもつすべての一般の人々に聞き取られるように”語って”いるのである:

私の教師達の用語たるラテン語をもってせずに、私の国の言葉をもって書くのは、古人の書物のみを尊信する人人よりも、全く単純な生得の理性のみを活用する人人の方が私の所説を正しく判断されるであろうと思うからである。(『方法序説』末尾直前部、92頁)

16世紀の不透明で錯綜した「”書く”こと」ではなく、また、現代的な「”語る”こと」 − 奇妙に生暖かい”うっとおしさ”を帯びた − とも異なる、「古典主義時代」における言説は17世紀の初頭から中葉にかけて、「表象空間」の中で自らの思考がそのまま言葉となってすべての人々に普遍的に届くような、透明な「”語る”こと」=(むしろ論理学・数学的な意味での)「”論証する”こと」=ディスクールとして成立した。ここでの語り手は、人間理性に深い確信を抱いているだろう。しかし彼らは、少なくとも現代の我々のような意味で「人間的」であるよりは、純粋な観念の徒であったといえる。「表象空間」の中で「一覧表」の論理を順序立てて辿っていくことしか知らない彼らは、まさに「透明な存在」だったのだ。
 我々がそうであるような「人間」の誕生は、実は19世紀初頭に起こった「知」のシステムの再度の変動から派生したものにすぎなかった、というのがフーコーの(とても薄気味悪い)主張である。さて、それはどういうことか?

2−3:19世紀 − 「不可視のもの」を取り巻く「言葉」の再編成

 19世紀の経済学者リカードにとって、前世紀の経済学が「交換」を理論の出発点に据えていることはとても信じがたい事だった。どんな交換レートの一覧表が設定されようが、世界を貨幣がただ円滑に交換され続けているだけでは経済の本質など何も理解できないではないか。経済活動は、なによりまず「生産」の場を源泉として産み出されるはずだろう。経済学は「生産」にこそ注目しなければならない − これが、19世紀初めに経済学に起こった転換である。
 ちょうど同じ頃、キュヴィエにとっては、前世紀の博物学が動植物の「分類学」にかまけていることが信じられなかった。各種の動植物たちがいかに美しく分類配列されていようとも、それはあくまで、表面上に顕れた特徴・構造の一覧に過ぎないではないか。生物はなによりまず、体内の諸器官の有機的な組織・システムによって活動しているはずだろう。生物学は「有機体システム」にこそ注目しなければならない − これが、19世紀初めに生物学に起こった転換である。
 ちょうど同じ頃、グリム兄弟やボップのような文献学者たちにとっては、前世紀の一般文法が、あたかも思考にとっての取り替え可能な色眼鏡のようなものとして諸言語を扱っていることが不可解であった。どんなに見事な翻訳対照辞典や美しくアルファベット順に整序された百科辞典が編まれても、「ことば」を理解できはしないだろう。言語には、それが表す「思考」や「観念」や「論理」の次元ではないところに、純粋な文法そのもの、各々の言語にそれぞれ独自の規則があって、それが私たちの話す「ことば」を組織していくだろう − これが、19世紀初めに言語学に起こった転換である。
 フーコーに倣って、このように3つの、互いに関連があるとも思われないような領域において同時期に起こった転換を列挙するならば、この時期に起こった「知」のシステムの変動がどのようなものであったかを透かし出すことが出来るだろう。
 「古典主義時代」に「知」の舞台であった「表象空間」は、今や、破綻してしまった。「言葉」と「論理」だけの透明な世界を形成してその中に閉じこもってどんなに見事な「一覧表」を作っても、何もわかったことにはならない。観念的な分析は終わりを告げ、われわれは再び、「物」に目を向けはじめる。しかも、表面的に顕れた「可視的なもの」に目を奪われることなく、その深奥に眠っている「不可視のもの」にこそ視線を集中しなければならない。その「不可視のもの」が、その最も奥まったところから「可視的なもの」を産み出してくる、そのメカニズムに、目を凝らさなければならない。「不可視のもの」の自己運動・自己展開のありさまを、捉えなければならない − このようにして、19世紀に始まった現代的な「知」のシステムは、17世紀初頭に「言葉」の世界から切り離された「物」の世界を、謎めいたやりかたで再びその中に迎え入れることになる。生物学は、動物たちの可視的な姿の深奥に、「生命」という目に見えないものを維持し続ける存在を見出す。植物の分類学ではなく動物の解剖学が、生物学の特権的な領域となるだろう。そして、「生命」の自己展開を捉えようとするダーウィンやラマルクの「進化論」が登場してくるだろう。経済学は、表面上の流通交換の背後に、「労働生産」という得体の知れないものを見出す。交換の背後にあり交換価値そのものを可能にするような生産過程と生産の社会的条件の分析が、特権的な領域となるだろう。そして、生産関係の歴史社会的展開を辿るマルクスの史的唯物論が登場してくるだろう。言語学は、言語が普遍的論理を表現できるという自負を捨て、個別の社会で人々が語ってきた、個別言語の歴史の厚みと重みを見出す。個々の言語体系の深層構造の探求が、特権的な領域となるだろう。そしてグリムらの文献学は、言語体系の歴史的変化を再び見出すだろう。
 16世紀には、「物」はすなわち「書物」と同じく、”しるし”によって語りかけていた。「言葉」と「物」とは交錯しながら円環を描き、互いに複雑に反映しあいながらこの「世界」そのものを形成していた。それに比べ、19世紀に始まったわれわれの「知」のシステムにおいては、「言葉」は、それぞれの領域で究極的に不可視な一点(労働生産・生命・言語体系といった)を外側から取巻くように − たとえていうなら、一つの真空状態を「目」にして発達していく台風のように − 組織される。われわれの「言葉」によっては絶対に捉え切ることのできない常に自己運動・自己展開しつづけている「不可視のもの」を常に焦点としながら、そこに向けて「言葉」が無限に増殖していく、というのが、われわれの「知」のシステムにおける基本的な言説配置である。そして、こうした言説配置に相関する形で初めて、「人間」が誕生する。

2−4:「言葉」を”語る”「もの」=「人間」の誕生

 18世紀末までの西欧文化においては、「生命」が存在せず(「一覧表」が分類する「成長するもの」「感覚を持つもの」「動き回るもの」等々の区分はあったにせよ)、「労働生産」が存在せず(流通交換の空間の彼方此方に「富」は存在していたにせよ)、「ことば」が存在しなかった(思考を引き写すような、”論証”する「言説」には絶大な信頼がおかれていたにせよ)。「生命」「労働生産」「ことば」は、19世紀初頭に初めて誕生した。それに伴って、結果として誕生したのが、生まれてから死ぬまでの生を”生き”、その生活の糧を得るために”労働”し、そして互いに自らの言葉にできない言葉を”語る”、あの存在、すなわち「人間」、なのである。
 今や、「人間」は、二つの次元に引き裂かれて存在している。一方で「人間」は、生物学・経済学・言語学において認識を追求し「言葉」を紡ぎ出す主体的な存在である。しかしもう一方では、「人間」は、まさにそれらの科学の対象として、生き・労働し・語る客体的な存在、それじたいは不可視のまま自己運動・自己展開する「物」として誕生した当のものなのである。17世紀初頭のデカルトにとって問題なく一致していた「我思う」と「我在り」との間に口を開いたこの裂け目を完全に意識化した18世紀末のカントは、いわば「古典主義時代」の終わりを告げたことになるのだが、さらに19世紀初頭のヘーゲルになると、この裂け目そのものを主題としはじめるだろう(ヘーゲルの「弁証法」)。そしてこの時期以来、同様にこの裂け目の孕み持つダイナミズムを糧とする、「人間」に関する諸学 − 「人間諸科学」 − 心理学・社会学・教育学・文学・人類学・精神分析学・等々・・・ − が次々と誕生する。フーコーによれば、これら「人間諸科学」は、本当の意味では「科学」ではない。それらはただ、生物学・経済学・言語学、あるいは哲学や数学や物理学といった周辺諸科学のモデルから様々な表現を借用しながら、「不可視のもの」としての「人間」を巡って、疑似科学的な「言説」=「”語る”こと」を際限なく増殖させているに過ぎない。言い換えるならば、ここにいたってフーコーの議論は、単に「学問」の歴史を描くに止まらない、科学から溢れ出す「言説」=「”語る”こと」一般にまで拡がっていることがわかるだろう。
 前著『狂気の歴史 − 古典主義時代における』においてフーコーは既に、西欧文化の内部での「狂気」の位置づけの変化を辿りながら、社会意識そのものの変容を摘出している。ルネサンスにおいて「狂気」は、社会の内部に独特の存在感をもって位置づけられていた。喜劇における狂言回し、恋人たちに恋を、若者に人生の真理を囁く道化者、批判精神、威嚇、嘲笑、「痴愚神礼賛」、「阿呆踊り」、等々、等々・・・。ところが、17世紀、すなわち「古典主義時代」の幕開けとともに、「大監禁」が実施される。17世紀半ば、パリに設立された「一般施療院」にはあらゆる貧困者、犯罪者や浮浪者、同性愛者、病人、そして「狂人」が、無差別に − 実にその割合は人口の1%にものぼった − 「受け入れ」られた。すなわち、「理性」が、みずからの純粋さを確認するかのように「非理性」を、いわば「非存在」として社会の外側に押しやり位置づけたのだ。こうした大がかりな排除は、しかし、19世紀初頭に形を変え、心理学によって・さらにはフロイトの精神分析学によって新しい形を完成させる。いまや、この社会に生きる誰もが心の奥底に「無意識の欲望」「トラウマ」「コンプレックス」「ほんとうの自分」等々を秘めながら生きているのであって、「狂気」とはそれらの無意識の心理的機構がたまたまある水準以上に変調をきたした状態であるに過ぎない。われわれ(とはしかし、誰か?)は皆、「患者」が精神分析家と共に自分の夢や幼児体験や無意識の欲望を”語る”ことによって治療的に生き直そうとしているような生を、そっくり自らの人生において生きているのだ。従ってわれわれは常に既に「患者」であり「子ども」であり、同時にわれわれ自身にとって(すなわち自分自身にとっても互いにとっても)、常に既に、精神分析家であり心理学者であり、医師であり親であり教育者であるのだ。言い換えるならば、「人間諸科学」的な「言説」の増殖は、いまや、「知」のシステムのみに限らない現代社会全体の「言説」の配置として、われわれの「生」そのものを構成しているのである。
 かくしてわれわれは、われがちに”語る”。自分自身について、自分の思いや自分の経験や自分の秘密や自分の考えについて、あるときは(患者や子どもたちのように)おずおずと、生物に特有のなま暖かく湿った声で、またあるときは(医師や教師や親たちのように)声高に、「自説」によって相手の・あるいは自らの置かれた社会的状況を改善させるべく、”語る”。それは、場合によっていかに「古典主義」的な「”論証する”こと」に似ていても、やはりそれとは似て非なるものである。かつて存在した普遍的「表象空間」はすでに存在せず、われわれの「言説」にはあくまで”自分の”考え、という刻印が押しつけられている − いうまでもなく、それは実際にその「言説」の内容がオリジナリティに溢れたクリエイティヴなものであることを一向に意味せず、単に19世紀以来現在に至る言説配置がわれわれにそのような「言説」=「”語る”こと」を強いている、というだけに過ぎない。むしろ、かくも強迫的に「”語る”こと」を強いる社会においては、いかにオリジナリティのない「意見」「体験」「秘密」等々であっても、強迫的に”語られ”てしまうだろう。それらはまさに、現代の言説配置によって治療・教育・発達・自己実現・良心・社会改良・発展・等々といった価値づけを自動的に与えられながら増殖していくだろう − 現代的な「”語る”こと」=「言説」が、本質的に教育的である、すなわち「教育/言説」である、というのは、大まかにいうならばこういうことなのである。

3:「教育/言説」をどう「読む」か

3−1:考古学的な記述

 さて、このようにフーコーの言説論を辿るならば、言説を「読む」ことじたいが非常に問題的なものであることがわかってくる。
 通常、われわれが言葉を「読む」という場合には、われわれは詰まるところ、「言葉」を解釈してその背後にあるはずの「作者(書き手/話者/等々)の言いたかったこと」を取り出す、という作業を想定しているだろう。しかし、おかしなはなしではないか。「作者の言いたかったこと」なら、作者がげんに「言葉」にしている以上でも以下でもないはずなのに、われわれは、その背後に、それ以外の別の「言葉」を読み取り・”語り”直したがっているのだ。あたかも、精神分析家が患者の「言葉」を聴きながら、そこから患者の無意識的欲望を読み取り・”語り”直そうとするように、あるいは社会学者が学校教師や生徒の「言葉」を聴きながら、そこから支配的階級の欺瞞的イデオロギーやマイノリティの抵抗の可能性を読み取り・”語り”直そうとするように。こうした、作者/患者/等々の「言葉」とその背後の「もの」との間の裂け目を糧として”語り”直される「読み」の言説こそは、先に「人間諸科学」と呼んでおいたものである。この新たに”語り”直される言説の価値は、元々の作者の「言葉」が正しく語っていない、すなわち作者における「言葉」と「もの」との間の裂け目そのものによって決定されているのだが、そもそもその裂け目そのものが、19世紀以降の「知」のシステムの言説配置によってはじめて措定されるものである以上、この新たな言説は、トートロジカルであることを免れ得ない。それを指摘してしまった以上、フーコーは、まったく別の「読み」の戦略を編み出さねばならないのである。では、どうすればいいのか。
 フーコーは自らの「読み」の方法論を「知」の「考古学」と呼び、さしあたり例えば次のようにその方針を提起している:

1.考古学が明確化しようとするのは、決して諸々の言説中に隠されあるいは示されているさまざまな思考、表象、イメージ、主題、執念などではない。そうではなくて、それらの言説そのもの、諸規則に従う実践としての言説、である。考古学は、言説を〈記録〉として、他の事物の記号として、透明たるべき要素として、扱わない。そうではなくて、・・・その固有のまとまりの中で、言説に − 〈モニュマン〉としてのそれに − 差し向けられる。それは、一つの解釈的な学問ではない。すなわち、それは、もっと隠された一つの「他の言説」を探し求めない。・・・
2.・・・考古学の問題は、・・・さまざまな言説をその特殊性において明確化することであり、言説が実現する諸規則の働きが、いかなる点で他のすべてに還元され難いかを示すことであり、その外的な綾のすべてにわたってそれらをたどること、いっそう適切には、それらについてアンダー・ラインを引くことである。・・・それは決して「臆断[ドクサ]の学」ではなく、言説の諸態様の示差的分析である。
3.・・・作品は考古学にとって、・・・十分に適合した裁断ではない。考古学は、個別的な諸作品を貫き、ときとしてそれらを完全に指揮下におき、・・・それらを支配する・・・言説=実践の諸類型および諸規則を明確化する。一つの作品の存在理由としての、その統一性の原理としての、創造的主体なる審級は、考古学にとっては無縁なものである。
4.・・・考古学は、人々が言説を発する瞬間にさえ、彼らによって思考され、意欲され、目指され、試され、欲求されたところのものを復元しようとしない。・・・それは起源の秘密自身への復帰ではなく、一つの言説=対象の体系的な記述である。
(『知の考古学』邦訳書210−213頁)

例によっていたって不得要領(その理由の一つは、同書でフーコーが、伝統的な解釈学と当時フーコーがそう目されていた構造主義とを、二つながら批判しようとしているという点にあるだろうが)なのだが、さしあたり本稿の文脈に沿って言い直すならば、考古学とは、「言説」をそれ自体の水準において扱い、その諸類型・諸規則を明らかにしながらその全体的な配置を体系的に記述する試みである、ということができるだろう。

3−2:「教育/言説」の匿名的な拡がり

 ある領域に分布する言説の全体的な配置を記述すること − 紙の上にばらまかれた砂鉄を辿っていくことによって磁力線の模様を浮かび上がらせること − これは、気の遠くなるような作業である。しかし、逆に言えば、その出発点はどこでもいいのだ。なぜなら、われわれはこの社会で既に、いたるところで「”語る”こと」=「言説」に取り囲まれているからである。たとえば、新聞の投稿欄はどうだろう。毎朝大量に印刷されては各家庭に配達される新聞には、たとえば、次のような文章が掲載されている:

「自然の空間は街にも欲しい」会社員 *川*郎 (**市 28歳)
久々に山を歩いてみた。山といっても、造成地の裏にわずかに残る丘のような所である。しかし、その狭い自然に思いがけず感動させられた。/早朝のことで、一面にもやがかかり、幾筋もの木もれ日が差し込んで、神秘的な美しさを見せていた。そこに、あちこちに残るクモの巣が光を反射して、中空に光の糸が踊っているようだった。枯れ葉が一枚一枚落ちていく音が聞こえてくる。こんな時期に落ちる病葉(わくらば)とは全く対照的に、倒木の幹からは、われ先にと何本もの若木が成長を競っていた。すぐ隣の住宅地とは別な世界の、精力的な営みが絶え間なく続いていた。/私は、何か場違いな侵入者のような気がしたが、それでも辺りに満ちている生き生きとした空気が体にしみ込んで、何かがわき返るように体中にみなぎってきた。と同時に厳粛な、謙虚な気持ちになった。/普段めったに自然に触れることはないが、時には体ごと、ぽんと飛び込んでみると、大切なものを思い出させてもらえるような気がした。また、そのために、わずかでも街の中に自然の空間が残っていて欲しいと思った。

この軽い随想風の小文が、特に内容的に優れているあるいは劣っているとここで指摘したいわけではない。むしろ、この小文が優れてもいなければ劣ってもいない、言い換えれば「オリジナリティ」がない、という点にこそ問題があるのだ。この会社員氏がある日早朝の散歩に出かけ、そこでいかなる空前絶後の霊感を得たかは知る由もないが、それをいちいち憶測するまでもないだろう。じっさい、この文章がほかの人に書かれ別の日の別の紙面に載っていてもわれわれは全く違和感を持たないだろう。つまり、この文章は、極めて「個人的」なことが書いてありながら、同時に極めて匿名的な「言説」を構成しているのである。従って、われわれが読みとるべきは、この小文の「作者が言いたかったこと」ではなく、むしろ、さしたる必然性もないままこのような”語り”が大量に噴出されているという言説産出の構造そのものであり、また、そうして産み出される言説が、往々にして、「教育」そのものに似てくる、という事態である。たとえば上の小文は、「自然に触れることによって自分の中の”大切なもの”を思い出すことができる」という、極めて教育学的な命題に還元されるのであり、従ってこの小文がそのままたとえば次の文章に繋がっていってもさほど不自然は感じられないだろう:

現代高学歴社会の中で育った子供たちは、果たして”人間”としてよりよく成長しているのであろうか。幼い時から、よい大学に入学するためだけに教育を受けてきた子供たちは、最終段階の大学に入学して、その後、自分が実際にどう生きていくか、分からないという。勉強、勉強で缶詰になり、人をけ落として育ってきた子供の心が広く大きなものであるとは言えない。教育とは勉強ができるできないの問題ではなく一人一人の個性、その人だけが持っている魅力を引き出して、より一層、磨いていくことである。実際、そういう人間を育てていくには、 − 青い空、白い雲、緑の木々、鳥、虫たち、そして水 − つまり、自然とふれあわせることだと考える。現在の教育には、この自然との触れ合いがあまりにも少ない。学歴を重視して人間が人間として成長するはずがない。”見せかけ”だけの学歴虚像論の大きな問題点である。真っ青な空を見て、きれいな花を見て、心やすらかにならない人はいない。しかし、それに目をやっている余裕すらなく勉強一途になっている子供たちが、未だぞっとするほど、存在する。”勉強ができる”というみせかけだけの − 虚像 − 人間ではなく、もっともっと心広く大きく自然と触れ合える − 実像 − 人間がマルなのである。まずは自然破壊やエコロジーなど、身近に取り上げられている社会問題から、自然との触れ合いの場を増やしていくことが、今後の一番重視する必要のある課題である。そうすれば学歴がどうのこうのという小さな器の話ではなくもっと広く、大きな意味での人間が、育ち、地球が大きくなっていくのである。(大学生による試験答案、薬師院(1998)より転載)

繰り返すならば、この答案の内容が優れているとか劣っているとかいうわけではない。重要なのは、こうした”語り”が、個々の”語り手”の個人的な経験や意図の差異を超えて「言説」として規則的に産出されているという事実である。これらの”語り”は、総体として、「教育/言説」として「教育」を語る。しかも、文明・対・自然あるいは学歴社会・対・子どもの心、といった二項対立の裂け目を糧として、いわば「言葉」と「もの」との裂け目を糧として際限なく語られる「人間諸科学」のヴァリアントとして、無限に変奏・産出されているのである。「教育/言説」を「読む」とは、こうした「言説」の産出・流通の様態そのものを辿っていくことに他ならない。

3−3:見取り図

 現代の「教育/言説」の産出・流通の様態の全体像を一挙に明らかにすることは難しいが、ある程度の見取り図を示しておくことは出来るだろう。
 ここで確認しておくべきなのは、現代の「知」のシステムが、「古典主義時代」の「言説」配置や、「ルネサンス期」の「言説」配置をいかに扱っているか、という点だろう。というのも、「古典主義時代」の「”論証”すること」=「言説」は、現在、消滅してしまったわけではなく、むしろ破壊された断片の形で学校教育のカリキュラムの重要な部分を形成している(学校で勉強する「表」の多さ! 百科全書的な「資料集」の愉しみ! 数学的・合理的・啓蒙的な「知」の訓練!)。一方、「ルネサンス期」の「”読みとる”こと」といった「知」のありようは、「占い」「民間療法」の類いとして活き活きと生きている。これらの「知」は、相互に別々のやりかたで世界を解釈・説明するものであるが、それが現代の「知」のシステムの中に、巧妙に共存させられている、という点に注目しておこう。例えば、誰が最初に言ったか思い出せないぐらい誰もが口にするエピソードであるが、「小学校の理科のテストで、「氷が溶けたら何になりますか」という質問に「春になります」と答えてバツにされた」というエピソードがある。これが”語られる”とき、学校教育のカリキュラムが収まっている均質に合理的な「知」への批判と、子どもの奇妙に混乱した魔術的な(しかし微笑ましい)「知」への一定の評価、が、達成される − 言うまでもなく、だからといってこのエピソードを口にする人々とて子どもの答をそのまま全員の正解にするべきだと訴えているのではない以上、最終的な「知」は、それらの二つの「知」をユーモアとして位置づけることの”できる”、”語り手”自身の大人としての”語り”の側に置かれているのだが − このような形で、現代の「知」のシステムが、他の「知」の様態を吸収統合しているのか、を、「言説」の流通の次元で確認していくのは、興味深い作業になるだろう。

4:おわりに

 以上、本稿では、フーコーの「言説」論をおさらいしてきた。おさらい、という限りは、ここにはさしたるオリジナルな言葉は含まれていないこともあらかじめ明らかである。本稿は、むしろ、これから「教育/言説」を「読む」ための、下準備となることを目的としている。いうまでもなく、こうした「読み」はまた、教育を”語る”みずからの姿勢を同時に正してくれるだろう。
 − ではわたしたちはいったいどのように「教育」を”語る”ことができるだろうか?

【註】

本稿は、筆者が執筆した小文(拙稿(1998))への補注である。あわせて参照されたい。また、「教育言説」の分析の好例として、本文中でも参照した薬師院(1998)を挙げておく。教育社会学受講生による試験答案の類型を記述・分析した、痛快な論文である。ぜひ参照されたい。

【文献】

デカルト、R(1637=1953)『方法序説』岩波文庫
フーコー、M(1961=1975)『狂気の歴史 − 古典主義時代における』新潮社
  −   (1966=1974)『言葉と物 − 人文科学の考古学』新潮社
  −   (1969=1981)『知の考古学』河出書房新社
今津孝次郎・樋田大二郎編(1997)『教育言説をどう読むか』新曜社
石飛和彦(1998)「書評『教育言説をどう読むか』」『教育社会学研究』no.62,pp.94-96.
薬師院仁志(1998)「学歴についての諸言説 − 学生答案の質的考察」『教育・社会・文化』no.5,pp.85-97.