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エンプロイヤビリティの一考察

井戸 和男

はじめに

 昨今、ビジネスリテラシーやエンプロイヤビリティという用語がしばしば用いられている。リテラシーとは、識字、つまり「読み、書きできる能力」である。社会教育学者であり、識字教育の実践家、パウロ・フレイレは、「読み書きの能力を獲得することは、創造と再創造や現実にかかわる姿勢を生み出す自己変革の力を獲得することだ。」と述べている。ビジネスリテラシーという新しい経営用語は、パウロ・フレイレの主張に照らしてみれば、「ビジネスの基礎・基本能力を獲得することは、ビジネスの創造や再創造や、変革時代のなかで自己変革できる能力を獲得することにつながる。」ということになろう。また、「情報リテラシー」という用語も日常的に用いられている。それは、コンピューターや各種メディアを操作する能力だけでなく、主体性をもって情報収集し、分析し、発信、活用していく能力が高度情報社会においてビジネス上、不可欠となっているからであろう。
 さて、明治維新にも相当するといわれる平成の大変化のなかで、ビジネスの基本・基礎、つまり「ビジネスリテラシー」とは何かが企業にとっても、ビジネスパーソンにとっても重要な命題になってきたのである。明治維新後、わが国の「殖産興業」が順調に推移したのは、江戸時代における約一万五千余りにのぼる寺子屋という教育機関による、庶民子弟の「読み・書き」教育に加え「算術(そろばん)」教育が行われていたからだといわれている。したがって、平成の大変化に対応し、わが国の産業を発展させていくためには、ビジネスパーソンの現代版「読み・書き・算術」能力(ビジネスリテラシー)を高めていくことが重要なのである。さて、エンプロイヤビリティであるが、日経連では、「雇用され得る能力」としている。とりわけ、産業構造が変化し、職業構造が変化するに従い職業能力の変化も強く求められている。なかでも、管理職の求められる職務要件は大きく変わってきていると思う。従って、本稿では「現代の読み・書き・算盤」は何かということと「これから期待される管理者の要件」は何かについて焦点をあて若干の提言をしたい。

1.能力ミスマッチへの対応

 完全失業率が発表されるたびに記録が更新され、昨年末では4.3%となりアメリカの完全失業率と肩を並べるまでになってしまった。今や、大競争時代下の大失業時代を迎えつつあるといっても過言ではないといえる。中でも、若者、中高年の失業率が高い。連合総合生活開発研究所が98年2月に行った調査によると、「定年までに会社から離職を要求される可能性がある。」と考えている人が約85%であり、ほとんどの人が不安感をもっていることがわかった。また、過日、東京・大阪の人材銀行を訪問して、改めて、中高年管理職が、「能力」ミスマッチをはじめ「賃金」ミスマッチなどによって、きわめて厳しい状況におかれていることを強く実感した。ところで、ミスマッチによる失業問題は、中高年層だけではなく、若者層も同様なのである。たとえば、新規大学卒業者の3年間における離職率は約3割となっているのである。ミスマッチの理由は、「能力」「賃金」「職種」「労働時間」など複合的なことからだと思われるが、本稿では、「能力」ミスマッチに焦点をあてながら考えてみたい。これからのビジネスパーソンに求められるビジネス能力は何かと考える上で、最も大事なことは、「時代の本質的な変化」を明確に把握しておくことである。わが国の企業が大競争時代を迎えた今、生き残っていくためには、次の二点に積極的に対応していくことができる能力を備えた人材を育成、獲得することがポイントだと、私は考えている。変化のひとつは、「グローバル化社会の進展」であり、今ひとつは、「高度情報化社会」である。それらの変化に対応していくためには、企業の理念や経営基本戦略などの再構築が不可欠であり、キャッチ・アップ型からフロント・ランナー型に転換していくことによって、新しいビジネスの創造や高付加価値産業へと変貌を遂げていかなければならない。したがって、変化に対応できる能力はきわめて重要になっているのである。しかしながら、忘れてはいけないことは、変化への対応能力ばかりではなく、従来から重要であり、かつ今後とも重要となる能力についてもその向上をさらに図っていくことである。既述したとおり、若者の離職率が高いことの原因のひとつとして、ビジネスの基本・基礎能力の欠如が考えられる。つまり、ビジネスリテラシーがあれば、主体性をもって、自主性を発揮し、早い時期から積極的に仕事にかかわることができる。そして、それによって、働きがいが得られるのである。経済同友会が97年3月に、「学働遊のすすめ」と題して、有意義な提言をしている。その中に、「企業が求めるビジネスの基本・基礎能力」(〈表1〉参照)について興味ある調査結果をまとめている。そのねらいは企業が求める能力を広く社会に伝えていくことによって、学力偏重主義を払拭することにあった。これからのビジネスリテラシーやエンプロイヤビリティは何かということを明確にしていく上で、この調査結果の次の諸点が大変参考になると思う。そのひとつは今後重要となる能力として、「状況の変化に柔軟に対応する力」が第一位になっていることである。従来から重要であり今後も重要である能力として「行動力・実行力」が第一位となっていることと考え併せると、激変する企業環境においては、変化の状況を十分に把握して、それに的確に対応した「行動力・実行力」が望まれていることが理解できる。次に指摘できることは、グローバル化社会の進展によって、従来ほとんど重要とされていなかった「異文化を理解する能力」と「語学力」が、今後重要な能力として採り上げられていることである。また、高度情報化社会に対応する能力として、「コンピューター活用能力」と「情報を収集する能力」があげられているが、きわめて当然のことであろう。さらに、興味あることとしては、「人脈形成能力」がいずれの設問においても著しく低いことである。ビジネスパーソンとして、実力をつけていくためには、若い時期から多様な人脈を形成しておくことだと私は思うのだが・・・。いずれにしても、これからのビジネスパーソンが、主体性をもち職業人生を豊かに送るためには、高度なエンプロイヤビリティを獲得していかなければならないのである。

〈 表1 ビジネスの基本・基礎能力 〉
(複数回答)
項目 従来から重要であり今後も重要である 従来重要でなかったが今後重要となる
行動力・実行力 57.8% 8.9%
人間関係を円滑にする力 45.5% 1.3%
常に新しい知識、経験、学力を身につけようとする力 37.3% 20.9%
論理的に考えられる力 36.3% 11.6%
問題を発見する力 33.7% 24.8%
熱意、意欲を継続する力 21.5% 4.3%
状況の変化に柔軟に対応する力 20.1% 53.3%
情報を収集する力 13.9% 31.5%
交渉力 10.6% 9.3%
自己表現力 8.9% 16.9%
語学力 4.6% 25.2%
人脈形成力 4.0% 4.6%
コンピューター活用能力 0.7% 49.0%
異文化を受容する力 0.4% 32.8%
(経済同友会調べ(1997.3))

2.期待される管理者の要件

 ロバート・カッツは、上級管理職になればなるほど「テクニカルスキル」よりも「ヒューマンスキル」が、「ヒューマンスキル」よりも「コンセプチュアルスキル」のほうが重要になると述べているが、これからのビジネスパーソンは、階層にそれほど関係なく、これらのスキルを複合的に発揮することが期待されていると思うのである。したがって、21世紀の管理職に求められる不可欠の能力要件のひとつとして、既述したビジネスリテラシーをより高いレベルで備え、自ら率先垂範して職務を遂行することができることである。さらに、変化に対応した中長期の戦略目標を構築し、それを達成していくために、強力なリーダーシップを発揮して部下を育て、活用していく能力が必要とされている。本稿では、誌面の都合上、管理職としてこれからますます重要となる能力要件に焦点を絞って述べることとしたい。私も委員として参加した労働省の「労働の知的集約化に関する調査研究」(96年)によると、「創造的部門」における上司に対して、「他部門との調整能力」と「企画力」が「定型部門」に比べて特に強く望まれていることが分かった。戦略性があり、独創的・創造的な仕事であればあるほど、社内外の理解・協力が必要とされるだけに、上司に期待する能力として、「プレゼンテーション能力」と同時に、優れた「調整力」が重要なのである。また、「創造的な部門」の社員から上司に対して「企画力」が求められているのは、部下の仕事の内容を理解して、適切な助言・援助を必要としているからであろう。もちろん、管理職が自らの仕事を遂行する上でも「企画力」が必要であることはいうまでもない。グローバル社会に活躍できる管理職は、自らの主体性をもって多様な価値観を受容し、高度な専門知識を活用していくことができる能力を備えた人材でなければいけない。中でも、国際感覚に基づく自律性が求められている。つまり、幅広い教養を身につけ、倫理感をもって、自らを律し、率先垂範して行動できることなのである。また、高度情報化社会における管理職としての重要な能力は、戦略的意図に基づき、コンピューターなどを活用して情報を収集・分析し、自らの経験と優れた識見により、新たな価値ある知恵を創造することができることである。いつの時代においても、人の上に立つものには、「徳」と「才」のバランスが求められている。これからの管理者には、「徳」とか「人望」とかいわれる「人間力」が「才」に増して重要になってきていると思うのである。現下のマネジメントシステムの改革の方向は、個性尊重・実力主義・雇用システムの多様化などであり、ややもすると人の力が分散化してしまう危険性を秘めている。また、世代の違いをはじめとする種々の価値観がある中で、コミュニケーションギャップが目立ち始めている。したがって、個々人の力を十二分に引き出し、集団の力として、最も効果的に活かしていくためには、管理者のコミュニケーション能力をはじめとする「人間力」がますます重要な意味をもってくる。集団が活性化し、大きな成果を上げていくためには、リーダーである管理者を中心にして、協力し合っていくことが必要なのである。つまり、「あの人のためになるのであれば、もてる力を十二分に発揮しよう。」と思うか、「あの人のためになるのであれば、おもしろくない。」と思うかでは、天と地ほどの差が生ずるのである。

3.生涯学習時代の自己啓発

 ビジネスパーソンとして、生涯にわたり、有為な人材であり続けるためには、自己の主体性に基づく「自己啓発意欲」がすべてであるといっても過言ではない。生涯学習時代といわれる中で、本人の自己啓発意欲が高ければ、「いつでも」、「どこでも」、「だれでも」ビジネスリテラシーやエンプロイヤビリティを高めることができる環境が整備されてきている。かつては、仕事が人を育てるといえたが、激しい変化の時代にあっては、仕事からだけではなく、自ら積極的に「学ぶ」ことが不可欠になってきているのである。昨今、職業再教育のプログラムが、専門学校、大学、大学院や雇用促進事業団のアビリティ・ガーデンなど、多方面において充実してきている。したがって、企業としても、個々人の自己啓発意欲を喚起し、援助していくための諸制度の拡充が望まれる。そして、計画的に人材を育成するためには、社員の自発性を尊重した、育成のためのローテーションがきわめて重要であることを、最後に強調しておきたい。