生涯教育場面に導入される「ゲーム」について
−「空気」の協働的管理 −
石飛 和彦
0:はじめに
教育研修・グループワーク・学校での特別活動・キャンプなどのレクリエーション活動・等々といった生涯教育場面では、しばしばゲームという手法が導入される。ゲームは、講義形式とも実務訓練形式とも異なるやりかたで、なにより独特の楽しい雰囲気の中で、ある教育的な効果を生む。そうしたゲームの実践に熟達することは、生涯教育における専門的援助者の重要なスキルの一つだといえるだろう。同時に、そうしたゲームは、理論的な関心のもとに研究の対象ともなりうる。なぜなら、実際にゲームを実践してみると、あたりまえのことであるが、うまく行く場合とうまく行かない場合というものがでてくるのであり、それはとりもなおさず、このゲームの実践的スキルは単純なものではなく、それ自体あるシステマティックな仕組みをもっているはずだということを示しているのである。いわゆる「教育研修ゲーム」のテキストには、うまく実践すれば教育的効果を生むようなゲームをどうやればいいかというやり方は示されているが、それがうまく実践されているそのときにどのようなシステマティックな仕組みでその実践が達成され教育的効果が産出されているのか、については十分に明らかにはしない。ゲームが理論的な関心のもとに研究の対象となるのはこの意味においてである。
「教育研修ゲーム」の理論的背景としては、第一に、社会心理学的なグループダイナミックスを挙げるべきだろう。しかしそれは、参加者(間)の心理的要因(しかじかの心理特性ないししかじかの方向性への心理発達、ゲーム後の振り返りによる参加者の意識的反省、等々)に焦点を当てるものであり、上にあげた関心、実践のその場で起こっていることを明らかにしようとするものではない。そこで本稿では、ひとつの手がかりとして、相互行為論の観点からの考察を試みるものである。なお、この論考は、本年度開講した「生涯教育方法論」の授業を通じてかたちをなしたものである。授業の一環としてゲームをうまくあるいはうまくなく(!)実践してくれた受講生諸君の協力に本稿は多くを負っている。
1:研究対象としての「ゲーム」
1−1:「教育研修ゲーム」のテキストに示された「ゲーム」
教育研修のためのゲームを紹介する多くのテキストは、ゲームを次のように定義している:
・・・ゲームというと、往々にして日本人は「遊び」や「娯楽」を連想する人が多いが、技法としての教育研修ゲームは「勝敗を競う」「試合」「競技」といった意味合いが強く、遊びや娯楽とは本質的に異なったものと考えたい。・・・たしかにゲームとしての面白さを利用していることには間違いないが、むしろゲームを通じて事実や原理原則を証明したり、実際に起こりうることを模擬演習などを通じて、実感として理解させる技法と考えるべきである。したがって教育研修ゲームを厳密に定義すれば、「実際の状況下で起こりうる出来事や事実を模擬的に体験しながら、その背後にある根拠や対応の仕方を学んでいく技法」ということになる。
(『すぐできるすぐ効く 新選 教育研修ゲーム』、p.11.)
・・・[ケーススタディ/ロールプレイ/シミュレーション/アカデミック・ゲームという]この四つの技法を理解するいちばん簡単な方法は、ひとつの基本的な技術から生まれ、洗練さと参加度をしだいに高めてできあがった四つの異なる技法として、これらを見ていくことでしょう。その基本的な技術とは、ある特定の状況に直接身をおくことを通じて一般的な法則を学んでいく技術です。その状況は、通常現実の生活の中で起こりうるものですが、本質的要素がはっきりわかるように、現実の時間の長さや注意力を撹乱するような細部は修正して、扱いやすくしたものです。 / ケーススタディでは、まず文書とか、記述資料、テープ、ビデオ、フィルム、あるいはこれらを組み合わせたものが準備され、話し合いの素材としてグループに与えられます。ロールプレイはもう一歩進んだ段階で行われます。グループのメンバーはケーススタディの素材から得た情報を使いながら、役割を演じたり、当意即妙に状況を切り抜けたりするのです。これが数時間にわたって、かなり手の込んだ印刷物や録音録画資料を使い、ときには講師が新しい問題や厄介な事態を持ち込みながら行われることになると、それはもう完全なシミュレーションです。もしチームや個人の競争として行われ、相互の関係の中で使われる指し手や決定をもとに得点が与えられることになると、それはアカデミック・ゲームになります。
(『おとなを教える』第9章「ケーススタディ/ロールプレイ/シミュレーション/ゲーム」、p.177-178.)
こうした定義に沿って、さまざまなゲームが紹介されることになる。例えば手元にある『最新版 新しい教育訓練ゲームPart2』というテキストには、「コミュニケーションのトレーニングに役立つゲーム」「チームワークのトレーニングに役立つゲーム」といった大きなまとまりを持つ5つの章で、合計29種類のゲームが紹介されている。たとえば「絵合わせTゲーム」は次のように紹介される:
GAME1 コミュニケーションのトレーニングに役立つゲーム 「絵合わせTゲーム」 (どんなゲームか) ポスターをサイの目に切ってバラバラにする。それを、二つのチームの共同作業で組み立てるゲームである。2チーム合わせて一つの絵ができあがるわけだが、できあがってもなお欠落部分がある。そこで、両チームが綿密な連絡をとりあって欠落部分を探し出し、最後に「ここだ」といいあてる。その早さと正確さが勝負どころとなる。 このゲームを通じて、次のようなトレーニングができる。 (1)いろいろなものを手がかりにして、バラバラな情報を一つにまとめていくためのチームとしての知恵の結集 (2)お互いに組みあげた絵の内容を、言葉で相手に正しく理解させるコミュニケーションの技術 (3)組立係や隣チームとの連絡係、全体のリーダーシップをとるものなど、チーム内で役割を担う人同士の連係動作 (4)洞察力、直観力、分析力、データの集約力など、知的能力の総合訓練 また、チームワークやコミュニケーション上の問題点の発見に役立てることもできるだろう。 |
(同書、p.6.)
このようにゲームの概要とその教育的効果を示した上で、同テキストは、具体的な準備の仕方、実際のゲームの進め方について、図を用いながら詳しく示している。そのあと、最後に「指導メモ」として次の5点が挙げられている:
(1)全員が熱中しやすく、動きのあるゲームなので、おもしろく運営することができる。 (2)元絵となるポスターの選定が重要である。イメージが比較的はっきりしていて、ある程度意外性もあるようなものがよい。 (3)ゲームに夢中になると、ルール違反が出てくる。とくに連絡係がルール違反をする傾向が強い。両チームの連絡を不自由にしていることが、このゲームの一つのポイントなので、十分留意しておく必要がある。 (4)ゲーム後に行う検討会は、チーム内とチーム同士のコミュニケーションの問題、絵の構図をまとめていく知的な能力の発揮と集約の問題など、多方面の内容になる。しかし、研修の目的に応じて、テーマを絞った方がよい場合もある。 (5)このゲームは、チームメンバーの親近感を深めるのに高い効果がある。 |
(同、p.11.)
1−2:問題設定 − テキストと実践のあいだ
生涯教育場面にゲームを導入する場合、こうしたテキストを見て、その説明に従ってその通りに実施できれば、おそらくしかるべき面白さとしかるべき教育的効果をもつゲームを実践できるはずである。しかし、この「はずである」というのがくせものである。比喩を使おう。テキストとは、料理のレシピのようなものである。レシピに従ってその通りに料理できれば、写真どおりの料理が説明どおりのおいしさで完成する「はずである」。しかし、問題はそこからではないだろうか? − 同じレシピから実際に料理がうまくいったりいかなかったりするのはどのような仕組みによってなのか − うまく料理する人の実践はどのような仕組みによってシステマティックに常にうまい方向に展開し、うまくなく料理する人の実践はどのような仕組みによってシステマティックに常にうまい方向でない方向に展開していくのか − しかじかの材料をしかじかのレシピで調理すれば説明どおりのおいしさを生み出せる、というその実際の仕組みはどういうものなのか? − 同じ問いを、ゲームの場合にも立てることができるだろう(ちなみに、社会心理学的グループダイナミックスをこの比喩の延長上で喩えるならば、その研究は、材料と調理方法の組み合わせによってどのようなおいしさを生み出せるか、というレシピの次元にある、と言えるだろう)。
テキストに示されたしかじかの材料を準備ししかじかの手順でゲームを行えば説明どおりの面白さと教育効果を生み出せる、というその実際の仕組みはどういうものなのか? 例えば、「絵合わせTゲーム」を行うことで「いろいろなものを手がかりにして、バラバラな情報を一つにまとめていくためのチームとしての知恵の結集」「お互いに組みあげた絵の内容を、言葉で相手に正しく理解させるコミュニケーションの技術」等々の「トレーニング」が実現するというのであれば − おそらく実現するのだろう − その実現しつつある有り様を、実際にゲームを行っている実践の中に見ることができるはずではないか? いったい、テキストに書いてあるゲームが実践の中に具現化されていくときにそこで何が起こっているのか?
2:簡単な実践事例
こうした「実際の仕組み」を明らかにするには、実際にゲームをやってみることが一番の近道だろう。そこで、授業で導入した「自時計」というゲーム(のアレンジ)を事例として参照しよう。
このゲームは、上で問題としたいわゆる「教育研修ゲーム」の典型的なものよりもシンプルなものであり、中学校教員向けの雑誌『中学教育』の増刊号である『〈中学校〉学級活動・移動教室に役立つレクリエーション全書』から引用したものである:
「自時計」 ・ 人数・・・クラス全員。 ・ 準備・・・椅子。 ・ 遊び方 1)姿勢を正し、目をつぶり座る。手はひざの上。 2)10秒間、リーダーが声に出した秒のリズムを心に刻む。 3)リーダーの合図で心でカウントをし、1分たったと思ったら目をあけ、手を挙げて、合図をおくる。 4)リーダーは1分になったら手をぐるぐる回して合図する。 ・ 留意点 ・全体を静かにさせたい時、落ち着いて事を行いたい時に集中することができる。 ・何度かやり、表に記入し、自分の正確さを確認させても面白い。 |
(p.71.)
授業では、この「自時計」をアレンジして実際にやってみること、という課題を出すことにした。
その前に、例として、筆者自身がいくつかのアレンジ・ゲームの案を示した:
・「10秒ポン」 「自時計」の要領で、時間を10秒にしておこなう。10秒たったら、全員が手を叩く。うまくいけば手の音がきれいに揃って気持ちいい。集まりの終わりなどに、「〆め」としてやってもおもしろい。また、グループ対抗にしても可。 ・「10秒ジャンプ」 上の要領で、拍手の代わりにジャンプする。動作がつくことで、より思い切りを必要とし、ドキドキ感が高くなり、また見栄えも大きくなり、気持ちいい。 ・「10秒イエー」 上の要領で、ジャンプしながら全員で声を出し「イエー」と言う。さらにドキドキ感が高くなり、それだけ、声が揃うと気持ちいい。グループ対抗にする場合は、最初に「決めのポーズ」を相談しておくといいかもしれない。 |
また、学生一人一人に小レポートで問うた時に出た案としては、例えば:
・グループで手をつないで輪になり、一人10秒ずつカウントしてはとなりの人の手を強く握って合図し、リレー形式で全員で1分を数える。スキンシップとチームワークを育てる。 ・グループで手をつないで輪になり、10秒たったときに全員で立ち上がる。うまく立ち上がれるグループと、バラバラになるグループがでてくる(手をつないでいるのでバラバラに立ち上がると面白い)。 |
これらをふまえ、グループに分かれてゲームを作ることにした。その結果、6つのグループがそれぞれのアレンジ・ゲーム(10分程度でおこなえるもの)を実演することになった。各グループの作った「ゲーム」はそれぞれ以下の通り:
・(「自時計」+「たたいてかぶって・・・」) ハリセンを準備する。二人のプレイヤーが並んで立つ。先攻後攻を決めて、攻撃側がハリセンを持つ。合図とともに両者それぞれ目を閉じて心の中で10秒数える。10秒たった瞬間に、攻撃側は(ハリセンを水平に振って)相手の頭を叩き、守備側はそれを避けてしゃがむ。頭を叩かれたら負け。また、叩くのやしゃがむのが早すぎても失格。 ・(「自時計」+氷リレー) 氷の入った袋を準備する。6人一組のグループに分かれて、グループ対抗戦。ひとり人10秒ずつ心の中でカウントしながら氷を次々と隣にわたしていく(氷が冷たいことで、秒数がわからなくなる)。最後の人が10秒数えたら手を挙げる。1分に一番近かったグループが勝ち。 ・(「自時計」+鬼探し) 全員で手をつないで輪になる。最初の人が心の中で10秒数え、10秒たったら隣りの人の手を強く握って合図する。以下、順次10秒ずつカウントして行く。その際、輪の中にひとり、「鬼」を決めておく。「鬼」は10秒以外の秒数をカウントする。全員が終わったあと、合計の秒数と全員の推理で、「鬼」が誰で何秒カウントしたかを当てる。 ・(トランプ組み上げ) トランプを準備する。1分の時間を決めて、グループ対抗でトランプの「城」を組み立てる。高く積みあがった方が勝ち。 ・(「自時計」+言葉作り) 6人1グループになる。出題者が6枚の紙片を次のように準備しておく。紙片には、6文字の単語(例えば「こ・と・ば・あ・そ・び」といった)を1文字ずつと、それを言う秒数を書いておく(例えば「こ・1」「と・2」「ば・3」「あ・4」「そ・5」「び・6」)。また、グループの中で、あらかじめ「決めのポーズ」を決めておく。出題者は6人にそれぞれ1枚ずつの紙片を渡す。合図とともにゲーム開始。紙片にある秒数に従ってその文字を叫ぶ。すると、あらかじめ決めてあった単語(例えば「こ・と・ば・あ・そ・び」)が出来上がる。さらに最後の人が叫んだあと5秒後に、グループ全員で声を合わせてその単語を言って「決めのポーズ」。それがきれいに決まっているかどうかを判定する。 ・(タイマーを使った「自時計」) 6人一組のグループ対抗戦。タイマーをグループの数だけ準備。タイマーを1分にセットし、合図とともに、一人10秒心の中でカウントして次の人に渡す、というやりかたでリレーしていき、最後の人が10秒カウントしたら手を挙げる。そのときにタイマーのアラームが鳴るので、一番タイミングが近かったグループが勝ち。 |
授業では、これらの実演をビデオカメラで録画し、見直しながら検討し、各ゲームに関するコメントを小レポート課題とした。
詳細なビデオ分析は別稿にゆずることにし、次節では、この簡単な課題を出発点として「ゲーム」をめぐる簡単な考察を試みよう。
3:簡単な考察
3−1:「ゲーム」の相互行為的基盤 − 「空気」の協働的管理
いくつかの即興的なゲームを試みる中で気付かれたのは、ゲームが「ただ単に」行われているのではなく、ある基盤がその場に成立した上で行われている、という点である。この点については、E.ゴフマンが論文「ゲームの面白さ」で(H.ガーフィンケルの当時未刊行の論考に触発されて)相互行為論的な考察を展開している。ここではその論考を参照しつつ、より感覚的に「空気」という比喩を導入して、その点に注目してみよう − つまり、ゲームが行われるときには、同時にその場にそのゲームをやる「空気」が作り出されており、ゲームはその「空気」の中で行われている、ということである。「空気」がうまく作り出されれば、参加者はその中で「熱のこもった」ゲームに興じることもできるが、逆に「空気」がうまく作り出されなければ、参加者は皆、「気が散って」うまくゲームに打ち込めないことにもなる。ゲームに後から参加する人は、すでに出来上がっている「空気」にどれだけスムーズに溶け込むかが重要であるが、それは後から参加する人に限らないすべての参加者について多かれ少なかれ言えることであり、参加者は皆、その場に「空気」を作り出してそれを壊さないように協働的に管理しながら、その中に溶け込んでゲームをプレイしている、というわけである。
この「空気」というものは、いうまでもなく、物質的な実体を持つものではない。にもかかわらず、「そこにある」。ゲームの参加者は、誰でもその「空気」の存在を、その場にありありと見ている(それをうまく見ることのできない者は、いわゆる「空気の読めないやつ」ということになる)。そこで、本稿の問い − ゲームの実践のその場で起こっていることを明らかにしようとする − を、次のように言い換えることができる:ゲームがうまくあるいはうまくなく行われているとき、参加者はそこで、物質的な実体を持つわけではない目に見えない「空気」をどのように「見て」あるいは「見損ねて」いるのか、また、その「空気」をどのようなやりかたで協働的に管理し(損ね)ているのか、そのエア・コンディショニングのシステムの機能ぶりはどのようなものなのか?
以上の問いに答えるには詳細な分析が必要になるが、予備的に単純な観察をするだけでも、「ゲーム」場面での「空気」の変化がどこにあるかを捉えることができる。たとえば、なんのことはない、上記のゲームの実演でしばしば見られたのは、「自時計」ゲームの開始の合図であるベルの音とともに、雑談が消えてその場が「シーンとする」という事態である。この「シーンとした空気」は、その場におけるゲームの「空気」だと言えるだろう。この「空気」は、それぞれのゲームが一段落つく瞬間まで続く。例えば、上記の実演で比較的好評なコメントを得ていた第一班のゲーム(「自時計」+「たたいてかぶって・・・」)を見れば、それがよくわかる。ゲームの始まる前は、プレイヤーも進行係も観客もリラックスしたり談笑したりしているのだが、進行係が時計とベルを構えてゲーム開始の態勢に入り、プレイヤーが立ち位置を決めて目を閉じうつむき加減に態勢を決め、それにつれて次第に「空気」が醸成されてくるのがわかる。そして、進行係が「3、2、1、」と秒を読んでベルを鳴らすと、「シーンとした空気」が成立する。その空気はおよそ10秒間続き、そして攻撃側がハリセンを振るのと守備側がしゃがむのがほぼ同時に行われ、それによって「一段落」がついて、瞬時に、歓声とともに緊張感が解放され「シーンとした空気」から「ゲームを評価する空気」に変化し、またそれが徐々にほどけて雑談交じりの「通常の空気」に変化していく。
こうした「空気」の変化は、ゲームの進行と一体になっている。例えば上記のゲームで「歓声」が起こるのは、単に派手に頭を叩くハリセンの音に(あるいはきわどく頭をかすめるハリセンをかわしてしゃがむ守備側のすばやさに)観衆が反応しているだけのものではない。それは、何度かの実演の中で、攻撃側がハリセンを振るタイミングが守備側のしゃがむタイミングから一呼吸遅れたケースにおいて確認できる。ここでも歓声が起こっているのだが、それは守備側がしゃがんだ瞬間にではなく、そのあと攻撃側がハリセンを空振りした瞬間に同期してはじめて歓声が上がっている。つまり、実質的に勝負がついた時点にではなく、ゲームのルール上勝敗が確定した瞬間、言い換えれば、そのゲームがゲーム内の論理に従って進行上の「一段落」のポイントとして指定した時点においてはじめて、歓声が上がって「空気」が変化しているのである。このように、うまくいっているゲームは、その進行に伴って「空気」を変化させるエア・コンディショニングの仕組みを作動させている、ということができるだろう。
このような「空気」は、ゲームの進行によってコントロールされるものであるが、同時に逆に、それ自体がゲームの進行の基盤ともなっている。ゲームが「空気」を作り、「空気」がゲームを支える、というわけである。このことを確認するには、逆にうまくいっていないゲームを参照すればよいだろう。うまくいっていないゲームは、エア・コンディショニングの機能不全を起こし、それによってそのゲームそのものがいっそううまくいかなくなってしまう。具体的には、ゲームの最中に「空気」が散逸してしまい、参加者がきょろきょろとしはじめ、雑談や私語が出てきて、(かといってすぐさま「通常の空気」が復元されるわけでもないので、宙吊りの時空の中で)ゲームが「ただおざなりに形式上進行されているだけ」になり、あとから参加者が「何をやっているのかよくわからなかった」という感想を持つ、といった現象である。ゲームのルール(レシピ)の次元でいうならば「空気」が醸成されていなくても、すなわち参加者がきょろきょろとしたり雑談や私語にふけったりしていても、ただ参加者がルールに従って動いていることによってゲームは成立していると呼ぶことができるだろう。しかし、実際には、そうしたゲームは、参加者にゲーム参加の感覚を十分に供給できず、ゲームとして成立していない。「空気」がゲームの基盤となっている、というのは、こういう意味においてである。
3−2:生涯教育場面での「ゲーム」の特性
すぐさま気が付かれるように、こうした「空気」の比喩は、ただ生涯教育場面に導入される「ゲーム」だけに当てはまるものではなく、いわばあらゆる社会的場面での活動について、同様の「空気」の比喩は有効なものだろう。あらゆる社会的場面にはそれぞれその場の「空気」というものがあり、それを基盤としてあらゆる社会的活動は行われているのであり、またそのために、人々は皆、その場その場に応じた「空気」の協働的管理を行っているといえるだろう。先に触れたゴフマンの「ゲーム」をめぐる考察自体が、単にゲームについて考えるものではなく、むしろ広く一般の社会的「集まり」のシステムについて検討するものであった。あるいはそれをさらにさかのぼれば、E.デュルケームの『社会学的方法の規準』に示された、社会的事実の一種としての「社会的潮流」の指摘があるだろう:
たとえば、一つの集会の中に生じる熱狂、憤激、憐憫などの大きな感情の動きは、いかなる個々人の意識をも起源とするものではなく、外部からわれわれ各人にやってきて、有無をいわさず各人をその中に巻き込んでしまう・・・われわれがすすんでそれに適応し、そのために、こうむっている圧力がおおい隠されてしまうとしても、だからといってその圧力が消滅せしめられてしまうわけではない。ちょうどそれは、人が空気の重さを感じないにもかかわらず、依然として空気が重さをもつことをやめないようなものである・・・いったん集会が解散し、その社会的影響がわれわれのうえに作用することをやめ、われわれが自分ひとりに返るや否や、さきほどまで経験していた諸感情は、あたかも、われわれのもはやあずかり知らないよそよそしい何ものかであるような効果をおよぼす。
(岩波文庫版、P.56-57.)
われわれは常に、システマティックにエア・コンディションされた「空気」の中で社会的活動を行っている。にもかかわらず、本稿で注目している、生涯教育場面での「ゲーム」における「空気」の協働的管理には、特に注目に値するある意義があると考えられる。その意義を言い当てるために、「レディメイドなゲーム/スポンテニアスなゲーム」という二分法を導入しよう。
私たちの社会的活動の舞台となる様々な場面は、多くの場合、「レディメイドなゲーム」、すなわち、既に社会的に強力に制度化され組織化されている。私たちが会社のオフィスや銀行の窓口で何をすべきか、電車の車内やサッカー観戦のスタンドや家庭の食卓でどのように振舞うべきか、は、それぞれ、私たちがその場に実際に参加するはるかに以前から、社会的に制度化されたひとまとまりのルールのシステム、「ゲーム」として組織化されている。その場合、我々にさしあたりできることは、それがどのような「ゲーム」であれ、その「空気」の中に溶け込みその「ゲーム」に参加することである。
教育、とは、このような観点からすれば、そうした「ゲーム」への参加のやりかたを教え学ぶ機会、ということになるだろう。そこでまず思い浮かぶのは、学校教育における「授業」という「ゲーム」である。「授業」とは、それ自体がひとつの、強力に制度化されたレディメイドなゲームであり、そのルールおよびエア・コンディションのシステムは近代社会の他の社会組織のそれと相似的なものであって、その「空気」に馴染みそのゲームで成果を挙げることができればそれが他の多くの主要な社会組織への参入を有利にし(学歴社会)、かつ、そこでの「空気」に容易に溶け込むことを可能にするもの(学校的ハビトゥス)である。それゆえにまた同時に、その「空気」があまりに制度化され、他の「ゲーム」と連動しながらありふれて透明であるがゆえに、我々にはその「空気」の存在や、そのエア・コンディションの組織的な働きそのものに気付くことがほとんど困難である(近年ようやく例えば「学級崩壊」という言葉によってそれが注目され始めた。ちなみにいわゆる「学級崩壊」に相当する現象については、筆者自身の小学生時代に、都市部の学校に転校した同級生の経験談として既に耳にしていたと思う。その意味で、現象の発生とその社会問題化にはずれがあることを確認しておく必要があるだろう。「学級崩壊」の社会問題化の背景には、学校教育のゲームと経済社会のゲームとの連結が緩みを見せはじめた(学歴社会神話の動揺)という事態があるだろうが、さしあたり、現象としての「学級崩壊」すなわち授業における「空気」の消失と「ゲーム」の破綻という事態は、学校教育という場にはつねに、少なくとも潜在的危機として存在している)。
そこで、生涯教育場面における「ゲーム」である。多様な生涯教育場面において導入される様々な「ゲーム」は、それがまさにいわゆる「ゲーム」として導入されることによって、他の制度化された社会的諸ゲームに比して、レディメイドな型を欠いた、すぐれてスポンテニアスなものとなるだろう。それは、会社組織内の人材育成プログラムの中で導入される「教育研修ゲーム」であってさえそうであり、例えば学校の「授業」に比較してみればその違いがわかるだろう。学校の「授業」に参加する生徒は、それを「ゲーム」として感じることもなく、いわんや、その「空気」が社会的にエア・コンディションされているという事実に気付くことなどほとんどない。一方、生涯教育場面の中で導入される「ゲーム」は、まさに「ゲーム」としてその場に導入され、その場で「ゲーム」としての空間を立ち上げられ、その場に応じて臨機応変に変形されながら維持されなければならない。そのために、ここで焦点を当てている「空気の協働的管理」という実践が、運営者と参加者の双方によってより積極的におこなわれる必要があるのである。またそれゆえにこそ、「ゲーム」は、運営者と参加者の双方に、「空気」を読むこと、「空気」を産出すること、「空気」を過熱・冷却すること、「空気」を変えること、といった諸々の技術について、自覚をさせ訓練をさせる機会をあたえるのである。
「ゲーム」を設計し・運営し・参加する者 − スポンテニアスな生涯教育場面においてはこの三者の役割はしばしば重なってくる − は、なによりまずその場の「空気」を適切に管理しなければならない。教育ゲームはその訓練を大きな要素とする。それは、先に触れた「自時計」とそのアレンジのゲームでも、また、最初に触れた「絵合わせTゲーム」でも同じである。「絵合わせTゲーム」が「コミュニケーションのトレーニングに役立つ」とすればそれは、まず「チームとしての知恵の結集」「チーム内での連係動作」といった作業を可能にするように適切に「空気」をアレンジする協働的作業のトレーニングがそこに含まれているためである。こうした協働的作業のありようは、ゲームそれ自体にとってはあくまで「基盤」となるそれこそ空気のようなものであり、それ自体としては、おそらく「見られていても気付かれない」種類のものであるために、ゲーム後の振り返りによる反省によっては(特に、完成された「教育研修ゲーム」であればあるほど)意識化されにくい。にもかかわらず、ゲームを活気付け、参加者の主体的参加を促進し、参加者達のゲーム空間への没入や知識共有・連係動作を可能にするのは、なによりまずこの協働的「空気」管理作業なのである。無論、それは、「空気」を単純に生成し適度に加熱する、という程度の単純なものではなく、それぞれの「ゲーム」の設定する課題やその行われる実際の状況に応じて細やかにアレンジされなければならないだろう。参加者が十分に「熱中」することを可能にしつつ、同時に効率よく冷静な「知識の伝達」と共通理解の形成を可能にするような、その場に応じた「空気」の管理には、それぞれ複雑な実践が必要とされるだろう。「レシピ」の次元で言うならば、「ゲーム」とは、現実を適切に単純化・縮減したシミュレーション・トレーニングなのだが、ここで焦点を当てている「空気」の協働的管理の実践という次元についていえば、それは、「実際の社会的場面」で行われるのと同様の、あるいはむしろより非レディメイドで複雑な、実践を必要としている。その実践を明らかにすることが理論的実践的関心の対象となる、という本稿冒頭の主張は、大略このようなことをいみしている。
4:小括 − 研究/実践のプログラム
日常生活の基盤をなす、「空気」のように目に見えない、しかしその場に参与している人々には当たり前のように実体性を持つ、「見られてはいるが気付かれてはいない」ような次元というものが存在する、ということ − そして、物理的実在性を持つわけでもないのに実体性を持つというその次元の現象を支えているのは、ほかならぬその場の人々の協働的作業である、ということ − そして、その場の会話記録なりビデオデータなりを分析することによって、その人々の作業を辿ることができ、そこに「空気」のようなものが独特の実体性を帯びて受肉する − 参与者相互によって「観察可能」になる − ありさまを経験科学的に描き出すことができる、ということ − こうした主張は、実は、エスノメソドロジーによって行われてきたものである。したがって、本稿で前節までに照準した、生涯教育場面に導入される「ゲーム」における「空気」の協働的管理、という実践の研究には、エスノメソドロジカルなワーク研究が有効だと考えられる。
ただし、繰り返し述べるように、「ゲーム」の実践は、「自時計」のように最も単純なゲームであってさえ、非常に複雑な要素を含む。学生によって少しずつアレンジを加えられたゲームがそれぞれまったく別のものになり、またそれがわずかな原因でうまくいったりいかなかったりした、というのは、「ゲーム」実践の複雑さのなによりの証拠となるだろう。いわんや、「絵合わせTゲーム」に代表されるような教育ゲームにあっては、どのような参加者が・どのような機会に・どのような場所で・どのような道具を使い・どのようなやり方でゲームを行ったらどのようなしくみで教育的効果が生み出されたか、をその状況の中から読み出すためには、詳細な分析が必要となるだろう。
ゲーム設計者によって設計され従来のゲームテキストに指示されていたような「レシピ」の次元、ゲームの指導者によって体得され実行されていたようなゲーム運営のコツ・ファシリテーターとしての心得や資質や経験則といったものの次元、ゲーム参加者がゲームをやりながらあるいはゲーム後の振り返りの際に感じるような参加者の意識の次元、また、それらを従来「理論化」してきた教育学・組織論・社会心理学といった理論の次元、といったものを、「ゲーム」の実践されている状況の分析において縫い合わせていくこと − これが、本稿の提案する理論的/実践的なプログラムとなるだろう。
【 文献 】
ゴフマン、アーヴィング(1961=1985)「ゲームの面白さ」『出会い』誠信書房
高橋浩(1998)『最新版 新しい教育訓練ゲーム Part2』日本経営協会総合研究所
田中久夫(2003)『すぐできるすぐ効く 新選 教育研修ゲーム』日本経団連出版
デュルケーム、エミール(1895=1978)『社会学的方法の規準』岩波文庫
ロジャーズ、ジェニー(1997)『おとなを教える 講師・リーダー・プランナーのための成人教育入門』学文社
山崎誠也(2003)『中学教育7月号増刊〈中学校〉学級活動・移動教室に役立つレクリエーション全書』小学館