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・「神話と言説」『教育・社会・文化』no.4,pp.81-101.京都大学教育学部教育社会学研究室(1997/7/1)


神 話 と 言 説
石飛和彦
Mythology as Discourse
ISHITOBI Kazuhiko

0:はじめに

社会学者は「神話」という概念を用いる。しかし、「神話」とは、奇妙な概念ではないだろうか。それが「神話」であるという限り、いわゆる「客観的な」実態との乖離という事態の指摘がごく自然に含意されており、そこでは神話の内容のネガティヴな虚構性が問題とされている。しかし同時に、それがある社会を遥かに覆う象徴世界に属しているという限りにおいて、「神話」はきわめてポジティヴな実体性を帯びるはずである。本稿の目的は、虚構性と実体性をめぐるこうした「神話」の奇妙なあり方にあらためて注目し、結論的には、社会学的思考において「神話」という語を用いることをやめよう、と主張することである。
本稿の意図が正当化される理由は、@現在、社会現象ないし制度を「神話」と捉える議論が社会学の諸領域において重要な位置を占めていると考えられる(例えば、「学歴社会」を神話と捉えるJ.W.マイヤーの「正当化理論」や、様々な社会問題を神話と捉えるJ.I.キツセらの「社会問題の構築主義理論」等);そしてAそれらの議論が共通してあるひとつの困難を抱えており、その困難の指摘が既に各々についてなされており(例えば、「社会問題の構築主義理論」に対するウールガー=ポーラッチやボーゲン=リンチによる批判、等)、かつその困難がまさに「神話」概念をめぐるものと思われるためであり;さらに言えば、Bそうした困難が発生していることそれ自体が、ひとつの社会学的現象として、すなわち「神話論」を語る論者たちがその個人的知性の多寡に関わらず「神話論」のロジックに則っている限りにおいてあるひとつの社会学的な力の作用の圏内にとらわれてしまっている現象として、論考され得ると思われ、しかもその社会学的な力の作用圏域は神話論的社会学者達のみに限らない社会成員一般を捉えていると思われるため、これを論考することは単に理論上だけにとどまらない意義を持つと考えられるからである。
以上の目的のために本稿で為されねばならない作業は、現在「神話」概念が用いられている用いられ方ないし「神話論」の論じられているそのロジックを抽出・記述し、「神話論」のロジックの限界とそこに働いている社会的な力の作用を浮かび上がらせていくことであろう。本稿では特に、「神話論」の範例としてP.L.バーガーのリアリティ構成論を参照し、さらにそのヴァリアントとしてマイヤーの「正当化理論」を採り上げて「神話論」のロジックとその限界を画定する。
しかし、それに先立って本稿では、社会学的な議論を進めていくための範例として、あらゆる社会学徒によって読まれている古典としてE.デュルケームの『社会学的方法の規準』の特に第1章及び第2章の議論をやや丁寧に辿り直しておくことにする。デュルケームの議論をあらかじめ復習しておくことによって、本稿で問題とする「神話論」のロジックの問題性をより鮮明に提示できるだろう。また、「神話論」の限界を指摘した上で我々はそのオルターナティヴとして、デュルケームの「言説論」を見出すであろう。

1:E.デュルケーム『社会学的方法の規準』第1章及び第2章第1節の復習

ここで復習するのは、『規準』の中で特にその基本を為す命題、社会的事実は物のような固有の実在性を持ち、またそうした物として扱われねばならないという命題が導出される第1章「社会的事実とは何か」及び第2章「社会的事実の観察にかんする諸規準」(第1節「基本的視座」)までのテキストである(第2章後半を為す第2節「右の規準から直接に生じるいくつかの系」については後に見ることにする)。
『規準』において、やや長めの「序文」と短い「序論」に続けて第1章を書き始めるに当たって、デュルケームにとっての課題は、まず社会学の研究対象としての「社会的事実」を規定することであった:

ふつう、社会の内部に生じ、ある程度の一般性を持って社会に関わる何らかのものをいくぶんかでも表現している現象があれば、それらほとんどすべてを指すのに、この名称が用いられている。しかし、この理屈でいくと、いわば、社会的とよばれえないような人間的事象は存在しないことになる。…かりにそれらが社会的事実であるということになれば、社会学はそれ固有の対象を持たないことになりその領域は生物学や心理学の領域と区別がつかなくなってしまおう。/ところが、実際はといえば、およそ社会のうちには、他の自然諸科学の研究している現象からきわだった特徴をもって区別される、ある一定の現象群が存在している。(邦訳書p.51)

その現象群について法や慣習、宗教儀式や貨幣制度等いくつかの例を吟味しながら、デュルケームは以下の暫定的規定に至る:

ここに、きわめて特殊な性格をおびた一群の事実が存在することになる。すなわち、それらは、行動、思考および感覚の諸様式から成っていて、個人に対しては外在し、かつ個人の上にいやおうなく影響を課することのできる一種の強制力を持っている。…以上のような事実は、ひとつの新種をなす物であり、社会的という名称はそれらに対してこそ与えられ、留保されなければならないのだ。(p.54)

この規定の中には個人に対する「外在性」と「強制力」という二つの主要なメルクマールが既に含まれているが、デュルケームはさらに注釈を付け加えることによって「社会的事実」の定義を完成させていく:

…社会的諸現象を特徴づけるのに役立つものは、それらの一般性ではない。あらゆる個人の意識のうちに認められる思考や、あらゆる個人が反復的に示す運動は、だからといって社会的事実をなすわけではない。人々が社会的事実を規定するにこの特徴をもって満足していたとすれば、それは、社会的事実を、それの個人的な具現物とでも呼ぶべきものと誤って混同してしまったからである。社会的事実を構成するものは、集合的なものとして把握された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行にほかならず、他方、集合的諸状態が個人の中で屈折することによってとる種々の形式はといえば、それらとは別種のものをなしている。(P.59)
集合的習慣は、たんにそれが継続的に惹起していく行為のうちに内在的状態において存在しているだけではなく、およそ生物界には類例をみないようなひとつの特権によって、口から口へと繰り返し語りつがれ、教育によって伝達され、文書によっても確定されるというような方式においてまぎれもなく表現されている。法や道徳の諸規則、民衆の中に生きている格言や諺、宗教宗派や政治党派が自らの信念をそこに凝縮させている信仰箇条、文学流派の作り上げている趣味の基準、等々の起源と本質は、まさにこのようなものなのだ。たとえそれらは実際に実現されていなくとも、存在することに変わりはないのだから、それらのうちのいずれひとつも、個々人によって実践に移されるもののなかにまったき姿においてみとめられることはない。(p.59-60)

この注釈は、後に再び第2章(具体的方法論についてのテキスト(p.91,115))において強調され直していることからもわかる通り、純粋な概念規定上のものと言うよりは、「社会的事実」なる概念を実際に用いようとする際にしばしば読者が陥るであろう陥穽についてあらかじめ先回りして指摘している、という種類のものである。じっさい、「個人に外在する」という規定を既に与えた上で、その同じものをさらに、「個人の意識ないし運動(の一般性)に還元され得ない」と指摘することは、論理的には冗長でしかないのだが、にもかかわらずデュルケームがこの注釈を加えているところに注目しておこう。社会的事実とその個人的な具現物との関係、あるいは簡単に社会と個人の関係と言ってもいいが、この点こそは、社会学に接近する者たちにとって必ずや躓きの石となるであろう。デュルケームはそれを予見した上で、敢えて奇怪な(と一般の目に必ずや映るであろう)概念規定を強調しているのだ:

逆説を好んで探求するのがソフィストであるならば、事実によって否応なしに課されてくる逆説を避けようとするのは、勇気なき精神、あるいは科学に確信を欠く精神である。(p.15)

ともあれ、第1章は次のような定義を結論として閉じられる:

社会的事実とは、固定化されていると否とを問わず、個人の上に外部的な拘束をおよぼすことができ、さらにいえば、固有の存在をもちながら所与の社会の範囲内に一般的にひろがり、その個人的な表現物からは独立しているいっさいの行為様式のことである。(p.69)

第1章の概念規定を受け、第2章においてデュルケームは具体的な「方法規準」を語り始める、かに見える。しかしながら第1章に対する第2章の関係は理論とその実現プログラムといった単純な関係ではないということに注目しておこう。第2章のデュルケームは第1章における自らの自制にいきなり抵触する視点を導入しながら語り始めているのである(そのために第2章のデュルケームはいささかの居心地の悪さを抱え続けることになるだろう)。その視点とは、他ならぬ「(諸)個人の意識」の視点である − すなわち、社会学を実践していこうとしているデュルケーム本人・読者をふくむ「われわれ」、あるいはより通俗的な「人々」といった登場人物の視点が導入され随時参照されることによって議論が進んでいくのである。例えば第2章第1節は次のように語り始められる:

ひとつの新たな種類の諸現象が科学の対象となってくるとき、ふつうそれらは感性的なイメージによってばかりではなく、大ざっぱながらすでに形成されている様々な種類の概念によって、精神の中にあらかじめ表象されているものである。…人間は、諸物からなる環境のなかにあって、それらについて種々の観念をつくりあげ、これをもってみずからの行為を律することにより、はじめて生きていくことができる。ところが、それらの観念は、これが対応づけられている実在よりも、われわれにより近しいものであり、より手のとどく範囲にあるため、われわれはおのずと、それらを実在に置き換え、思弁の対象とさえしがちである。…実在にかんする科学に代えて、もはや観念論的分析を行っているにすぎない。(p.71-72)

そうした観念は、「遮蔽幕」として、あるいはF.ベーコン言うところのイドラとして、科学者の前に立ちふさがるという:

つまり、諸物の真相をわれわれの目にゆがめて映じさせながら、しかも物そのものであるかのように感じさせる一種の幻影なのだ。しかも、この仮想の環境は人間精神に何の抵抗ももたらさないため、精神はいっさいの制約を課されていないと感じ、はてしもない大望にみずからをゆだね、独力でおのれの欲するがままに世界を構成できる、いな再構成できると思いこんでしまう。(p.75)

しかも、そうした困難にもっともおそわれやすいのが他ならぬ社会学だというのだ:

…ベーコンの表現をふたたび借りれば、これら[通俗的観念ないし]予断が精神を支配し、事物にもとって代わろうとする状態にあるのが、他にもまして社会学の場合だということになる。事実、社会的なものは人間によってのみ実現されるのであり、人間の活動の一所産にほかならない。このため、社会的なものは、生得的なものであると否とを問わず、われわれの内なる観念の所産、すなわちこの観念を人間相互間の関係に伴って生じるさまざまな状況に適用したものにすぎないかのように映じる。(p.76)

ところで、デュルケームが筆を進め社会学者の困難を次のように説明するとき、そこで参照されている登場人物(「我々」ないし「人」)は、科学者としてよりも、より一般の社会成員として語られ始めているように思われる。つまり、ここで論じられている困難は、素人であれプロであれ社会学しつつある成員が直面している現象を指している:

このような見方が信じこまれているのはなぜか。それは、社会生活のことこまかな事実が、あらゆる面で意識の外部に逃れでていて、意識はそれらの事実の実在性を感じ取るだけのしっかりした知覚をそなえていないからである。…しかも、社会生活のことこまかな事実、すなわち具体的な個々の形態は、われわれの意識から逃れていながら、少なくとも集合生活のもっとも一般的な諸側面だけは大ざっぱに近似的にわれわれのうちに表象されている。この図式的で大ざっぱな諸表象こそが、ほかでもない、われわれが日常生活のなかでなにげなく依拠しているあの様々な予断を形成している当のものである。このため、われわれは、自分の存在を認めると同時にこれら予断の存在を認めることになり、それに疑いをさしはさむことなどは思っても見ない。これらの観念は、われわれの内部にありながら、それにとどまらず、くりかえし行われる経験の所産であることからして、反復およびそれに由来する習慣のおかげで、一種の支配力と権威を獲得する。…こうしたもろもろの事情が働いて、人はこの予断のうちに真の社会的実在を見てしまうことになる。(p.76-77)

以下、デュルケームはしばらく、コント、スペンサーの社会学、道徳理論、ミルの経済学といった諸科学を例に取りながら、その観念論的なロジックとそれ故の困難(というより、観念から出発してしまっているがゆえの、通俗性への転落の危険)を示していくのであるが、その叙述に区切りがついたところでやおら、段落を改めて次のように宣言する:

ともあれ、社会現象は物であり、物のように取り扱われなければならない。この命題を証明するには…それらが社会学に提供される唯一の与件であることを確認するだけで足りるのだ。…なるほど、社会生活は若干の観念の展開にすぎないと考えることは可能である。ただ、そのように仮定してみたところで、それらの観念は直接的な与件を構成はしない。だから、それらに到達しようにも、直接というわけにはいかず、それらを表現してくれる現象的な実在を通して迫っていくほかはない。…さればこそ、社会諸現象は、それらを表象する意識的主体から切り離して、それ自体において考察されなければならないのだ。すなわち、外在する事物であるかのように、外部から研究されなければならないということである。(p.90-91)

「ともあれ」…! いかにも唐突に、第2章第1節の結論となるべき命題が示され、以下数ページ、その命題への様々な角度からの注釈が続いて節が結ばれることになる。この修辞上のいささかの不整合も、先に注意しておいた第1章と第2章との論理的なズレを考慮に入れれば容易に納得できるだろう。無論、その点についてデュルケーム自身十分に自覚的なはずだ(後に見る、第2章第2節の議論の「ゆらぎ」は、それを十分予測させる)。あるいはこのように言えばいいだろうか − もし不連続を回避したければ、デュルケームは社会学者の困難など最初から説明しなければ良かったはずのだ。第2章においては、第1章に引き続く形でトートロジカルに、ただ「社会現象は物であるから物のように取り扱わなければならない」とだけ語り、その注釈のみを記していればよかったはずなのである。にもかかわらず実際のテキストがこのような形を取っている限り、そこに我々はデュルケーム自身の意図的な選択を読みとるべきなのである。むしろここで再度確認しておくとすれば、デュルケームが敢えて「逆説を避けようと」せず、むしろ敢えて自らの議論の一貫性の危機そのものを賭金とする逆説的な飛躍として社会学の基本命題及び方法規準を提起していたというその点である。
ともあれ、我々はさしあたりここで一旦デュルケームの議論を辿ることを離れ、本稿の対象である「神話論」へと目を転じることにする。

2:神話論

2−1:方法 − 社会的事実としての論理/その顕現/奇怪な比喩を通じての把握
さて、「神話論」を検討していくさいには以下のような手順がふまれなければなるまい。「神話論」のロジックはそれを顕現させる個々の神話論を通じてしか観察することができないから、できるだけ多くの神話論や神話言説を観察・記述し、そこから浮かび上がってくるいくつかの変種を抽出してそこに働いている社会的な力を規定することになるだろう。しかしあいにく、本稿の範囲内で現在流通している神話論を網羅的に観察し形態同定することはおよそ至難に近い。しかし、それとは別の方法によって目的を達することができる − という言い回しを『自殺論』第二編冒頭のデュルケームはいかにもぬけぬけと用いるのだが − 研究の手順を逆にしてみればよいのだ。ここではまず、「神話論」のロジックを社会的事実として同定するためのひとつの類型を規定しておく。そこから、利用可能な若干の資料の助けを借りて導きの灯としながら、演繹を行うのである。あらゆる点からみて、この逆倒的な方法は、筆者の提起した特殊な問題を扱うのに適した唯一の方法である。先に引用した通り、社会的な事実の本質は個々人によって実践に移されるものの中にまったき姿においてみとめられることはない。例えば、「神話論」のテキストの中に「神話」という語が具体的に使用されていない場合を考えることができる:例えば、ある「神話論」のテキストの中に用いられている「神話」という語のみを例えば「イデオロギー」と書き換えたとしてもなお論旨が一貫しているならばそれもやはり完全な意味において「神話論」のロジックを具現化したテキストであることは明らかだろう。つまり、具体的な社会的事実としての「神話論」のロジックを見るためには、無論あくまで社会的事実(その本質は、繰り返すように、具体的現象の世界においては不在である)とその具体現象への顕現という関係そのものを視野に入れる事を確認した上でではあるが、「全体から部分へすすんでいかなければならないのだ」。以下の論述では、まず、ある比喩を提起する。「神話論」の論理そのものをロジックとして把握するためには、「神話論」を語る社会学者達にとっての日常語である術語的概念をここでもまた用いることは、いたずらに議論を混乱させかねない。だからこそ、比喩を、それも社会学者の言語にとって奇怪に映るような比喩を提起し、それを通じて「神話論」のロジックそのものを言い当てることを試みよう。

2−2:「常識=眼鏡」という比喩
とはいえ、その比喩じたいは社会学徒にとってはおなじみのものである:「私たちは社会の常識という眼鏡をかけ(させられ)ている」という比喩は、恐らく社会学の入門的な授業の中で最も頻繁に用いられているものの一つであろう − 私たちは世の中に起こる様々な出来事を、ありのままに見ていると思いこんでいるが、実は「常識という眼鏡」を通して、屈折され色づけられた像を見ているに過ぎない。私たちはその眼鏡をかけていることに普段は気づいていないし、誰もが当たり前だと受けとめている(そのいみではポジティヴな実体性を帯びている)。しかしその眼鏡は、実は透明不偏のものでもなければ普遍的なものではなく、時代や文化を異にすればまた別の眼鏡が一般的であるという例を見れば明らかなように、他ならぬ社会が、私たちにかけさせたものなのだ(そのいみではネガティヴな虚構性を帯びている) − ざっとこういう説明は、社会学徒であれば必ずどこかで聞いたことがあるはずである。やがて社会学徒達はそれぞれ専門用語を勉強し、「常識=眼鏡」という比喩を「イデオロギー」「虚偽意識」「言語構造」「共同幻想」「共同主観的意味世界」「象徴システム」「エピステメー」「身体図式」等々(何でもいいがとにかく)様々に言い換えヴァリアントを生成するが、繰り返すように、ここではそれらを一括して「神話論」のロジックと把握する。以下ではその典型的な例として、P.L.バーガーの議論をとりあげ、彼の理論的主著『日常世界の構成』の序論「知識社会学の問題」の論述を辿っていくことにする。この著作は後に多大な影響力を持ちいわゆる「リアリティの社会的構成(構築)主義」の原典となっているから、ここで取り上げることには意義があるだろう。

2−3:バーガー『日常世界の構成』序論における「神話論」のロジック
バーガー(と、共著者T.ルックマン;以下略)は同著作によって、自らの「知識社会学」を提唱する。彼は極めて直截に、次のように序論を語り始める:

本書の主張の基本的論点はその表題と副題にすでに示唆されている。つまりそれは、現実は社会的に構成されており、知識社会学はこの構成が行われる過程を分析しなければならない、ということである。こうした主張で鍵をなすのは〈現実〉と〈知識〉ということばである。…われわれの目的からすれば、〈現実〉とは、われわれ自身の意志から独立したひとつの存在をもつと認められる現象(われわれは〈それらを勝手に抹消してしまう〉ことはできない)に属するひとつの特性として、そしてまた〈知識〉とは、現実が現実的なものであり、それらが特殊な性格を備えたものである、ということの確証として、定義しておくだけで十分であろう。(邦訳書p.1)

ここでは、先に「眼鏡」と呼んだものが「知識」と読み替えられ、その「知識=眼鏡」を通して映し出された映像が「現実」と呼ばれていると理解していいだろう。このロジックの有効性を確認するために彼は、「チベットの僧侶」や「犯罪者」の「現実」「知識」という例を挙げながら、次のように議論を進める:

このように、〈現実〉および〈知識〉に関する問題への社会学的関心は、まず最初それらの社会的相対性という事実によって正当化されるのである。…〈現実〉と〈知識〉の特定の集合体は、特定の社会的文脈と関係を持っており、これらの関係は、こうした文脈の適切な社会学的分析の対象に含まれなければならないだろう…。(p.4)
知識社会学は現実の社会的構成の分析を問題にする、というのがわれわれの主張である。(p.5)

さて、こうして自らの視点を提示した彼は、以下しばらく、この視点への補足説明を付け加える(序章の残り大部分は、こうした補足である):

知識社会学の独自の領域に関するこうした理解の仕方は、四十年ほどまえ、はじめてこの名で呼ばれて以来この学問によって一般に意味されてきているものとは異なっている。それゆえ、われわれの実際の議論を始めるまえに、この学問のこれまでの発展について概観し、どのような仕方で、そしてまたなぜ、われわれが従来の知識社会学からはずれることを必要と感じるに至ったかについて説明しておくのが有益であろう。(p.5)

以下しばらく(序論の約半分の分量を費やして)彼は、知識社会学の学説史を辿る。1920年代ドイツの哲学者M.シェーラーと社会学者K.マンハイムが知識社会学の始祖として紹介され、またその知的源流として、マルクス、ニーチェ、歴史学が挙げられる。さらに、知識社会学へのアメリカにおける関心(マートンら)についても言及が為されるが、それらはあくまで(彼自身が言っているとおり)彼自らの視点が従来の知識社会学から離脱する決定的な地点を明確化するためである。では、その点とは何か:

…知識社会学の関心は理論的レヴェルにおいては認識論的問題に、経験的レヴェルにおいては精神史の問題に向けられてきた…われわれはこうした特殊な状況が知識社会学を支配してきていることを不幸なことだと思う。(p.20)

ここで彼の言う「認識論的問題」とは、社会学者自身の認識の妥当性の基礎付けの問題である。一方「精神史の問題」とは、社会の人々が各々の社会の「常識=眼鏡」によって認識を行い社会を営んでいた、その様態の経験的研究への関心である。さて、ここで、本稿の議論を辿っている我々は気づかざるを得ない:ここでバーガーが指摘している「二組の問題設定」は、前節で我々が復習したデュルケームの議論を奇妙に屈折させていたあの問題と一致しているのだ。社会学者もまた社会の一成員であることを免れない以上、社会学的方法の認識論的立場はどうなるのだろうか − デュルケームがこの問題に対してまさに「逆説を避けず」むしろ敢えて逆説的な飛躍として社会学の「方法」を提起していた事は、前節で既に指摘しておいた。では、バーガーはどうしただろう:

知識社会学に社会学的知識の妥当性に関する認識論的問題を含ませるのは、自分の乗っているバスを後押ししようとする努力にどこか似ている。…/われわれにはこうした問題を無視しようという気は毛頭ない。ただここで言っておきたいのは、これらの問題はそれ自体は社会学という経験的学問の守備範囲には属さない、ということだ。これらの問題は本来は社会科学の方法論に属するもの、つまり哲学に属する一つの研究領域であり、定義からして社会学…の範囲外に属するものである。…/以上のような理由から、われわれは知識社会学からその二人の主要な創始者達の頭を悩ませた認識論的問題と方法論的問題とを排除する。…われわれは本書の全体を通じて、それが知識社会学自身におけるものであれ、他のいかなる領域におけるものであれ、社会学的分析の妥当性に関する認識論的ないしは方法論的な問題については、すべてすっぽりと括弧の中に入れておいた。(p.20-21)

彼は敢えて、英雄的に、断固として、「逆説を避け」ると、実に堂々たる態度をもって自ら宣言しているのである。その瞬間に、彼はある勝利を手にするだろう。その勝利は、まず、研究対象たる社会成員の日常的認識に対する彼自身の科学的認識の決定的有利の確保という形で現れるだろう。彼は議論を進める:

現実の理論的定式化は、たとえそれが科学的なものや哲学的なもの、あるいはまた神話的なものですらあったにせよ、社会の成員にとって〈現実的〉であるものをすべて汲みつくしているわけでは決してない。こうした理由から、知識社会学はまずなによりも、理論的なものであれ、前理論的なものであれ、人々がその日常生活で〈現実〉として〈知っている〉ところのものをとり上げなければならない。ことばをかえれば、〈観念〉よりも常識的な〈知識〉こそが知識社会学にとっての中心的な焦点にならなければならない、ということだ。意味の網目を織りなしているのはまさしくこうした〈知識〉であり、この網目を欠いては社会は存立し得ないのである(p.23-24)

バーガーはここで、自らの研究対象の認識を、いわゆる科学的認識までを含めすべて「常識=眼鏡」の次元へ、言い換えればネガティヴな虚構性の次元へと還元している。驚くべきは、彼がここで理論の内容にいっさい触れないまま原理的なもんだいとしてすべての理論的認識を「常識=眼鏡」に還元していることである − 具体的に一つ一つの理論を見ていけば、バーガーその人の「理論=眼鏡」より相対的に解像度が高く説得的な「理論=眼鏡」は存在しうるにもかかわらず、彼はその点に一顧だにせず、あくまでも原理を貫いて(自分以外の)すべての理論的認識を「常識=眼鏡」へと還元する。それが可能になったのはバーガーの理論の内容の相対的な優秀さのためではない(繰り返すように、彼はそういう論述をしていない) − ひとえに、自らの認識だけについては認識論的問題を「括弧の中に入れて」語ると宣言しているためである(ここで「括弧の中に入れる」とは、公平な相対主義的態度とは正反対のものである。彼らは自らの認識を現に提示しているということそのものにおいて自らの認識論的正当性を肯定しているし、もしその認識の正当性に嫌疑を挟む者が登場すれば、バーガーには、それを「自分の乗っているバスを後押ししようとする努力」「社会学の守備範囲外の問題」と揶揄し「不幸なこと」と断じる準備があるからである。バーガーがこのテキストで行っていることは、認識論上の居直り以上でも以下でもない)。しかる後に、虚構化された「眼鏡」としての研究対象は、特権的な認識者たるバーガーその人の認識の特権性の主張に相関する形で、あらためて括弧付きの「ポジティヴな実体性」を獲得することになるだろう。かくして、バーガーのテキストにおける「勝利」は、彼の知識社会学に固有の視点と対象領域とを、言い換えれば固有の理論的な場を画定する:

…われわれの目的は〈系統立った理論的説明〉に専心することにある。(p.27)
知識社会学の性格とその領野に関するわれわれの再定義が、知識社会学を周辺的な学問から社会学理論の中心そのものへと移行させるであろうことは、すでに明らかであろう。…われわれがたどることになった進路は、社会学にとってもっとも有名でかつまた影響力の大きい二つの〈行進命令〉を引き合いに出すことによって、もっともうまく表現することができよう。/その命令の一つはデュルケームの『社会学的方法の規準』によって与えられ、もう一つはウェーバーの『経済と社会』によって与えられた。デュルケームはこういっている。「第一の、そして最も基本的な規準、それは、社会的事実をモノとして考えよ、ということである」。一方、ウェーバーはこういっている。「この意味での社会学、そしてまた歴史学の双方にとって、認識の対象は行為の主観的な意味連関である」。これら二つの命題は矛盾するものではない。社会は実際に客観的な事実性をそなえている。そしてまた、社会はたしかに主観的意味を表現する行為によってつくり上げられている。しかも、ついでにいっておけば、ウェーバーが前者の側面に気づいていたように、デュルケームもまた後者の側面に気づいていた。デュルケームのもう一つの基本的用語を借りるならば、社会がもつ〈独特の現実性〉をつくり上げているのは、客観的事実性としてあると同時に主観的意味としてもあるという、まさしく社会のもつこの二重の性格なのである。それゆえ社会学理論にとっての中心的問題は次のように言い表すことができる − 主観的意味が客観的事実性になるのはいかにして可能なのか。(p.28-29)

こうした「勝利」が、しかしながらある限界の内部にあるものに過ぎない事に、我々は既に気付いているだろう。一般社会成員及びプロの社会学者の認識を性急に「常識=眼鏡」に還元していくことによって、彼は、我々が先に読んだ(無論彼も何度も読み返したであろう)デュルケームの『社会学的方法の規準』の第2章に登場してくる、観念論的分析に終始する登場人物達の一例に連なるのである。(バーガーがいかに自らの「理論」に合わせて解釈しようが)デュルケームは、まさにそこから抜け出そうとする逆説的な運動として「科学としての社会学」を提起していたのであり、明らかに「ポスト・バーガー」的な理論を提示している − あるいは正確に言うならば、バーガーの理論が300年以上の時を隔てて「F.ベーコン主義」的なのだ、と言うべきだろうか?
ともあれ、バーガーの同テキストは、それ以降の社会学理論に極めて広範な影響を与える。この影響は、本節で見てきたバーガーのテキストの「勝利」に由来するものであり、言い換えれば、バーガーの論理そのものではなく、むしろ論理の困難を指摘しようとする思考を抑圧することによって理論の固有の場を画定しようとする認識論的な力学の作用、また、そうした力学の作用そのものを我々に見落とさせ、あたかも我々自身の認識がある安定した透明度を有する眼鏡であるかのごとく受けとめさせるものでもある作用が、そうした「影響」を発生させたと考えられる。我々はその力学とその作用をあらためて「神話論のロジック」と呼び直そう。我々はここで、バーガーのテキストという事例を通じて、そこに「神話論のロジック」の顕現ぶりを見てきたのである。

2−4:神話論のヴァリアント
神話論のロジックは、以上に見てきた「常識=眼鏡」という基本的図式を範例として様々なヴァリアントを産出する。例えば、「現実」を「常識=眼鏡」を介して見る「社会成員」、という基本的図式の三項を巡って、@「現実」と「常識=眼鏡」が一致するか/食い違うか、という論点(社会認識論/虚偽意識論など)が提起され得るだろうし;A「常識=眼鏡」を「社会成員」がいかに用いるか、という論点(行為論、或いは「身体図式」をめぐる身体論、など)が;B複数の「社会成員」を措定した場合の彼ら同士の認識が一致するか/食い違うか、という論点(間主観性論/多元的リアリティ論など)が;Cそのように成立している「社会」を「社会学者」はいかに研究(「理論=眼鏡」の産出)し得るか、という論点(科学論/調査方法論、など)が提起され得るだろう。また、こうした論点に対する解決の試みには、@「現実」の側に秘密を見出そうとするもの(例えば、「現実」と「常識=眼鏡」の食い違いが、しかるべき権力を有する社会的集団による意図的な情報操作ないし「イデオロギー注入」によって説明される場合);A「眼鏡」の側に秘密を見出そうとするもの(例えば同様の食い違いの維持されるメカニズムが、「社会化=神話の内面化」によって説明される場合);B「現実」と「眼鏡」との不断の・あるいは無限の交互作用を強調するもの(例えばある種の調査方法論は、仮説検証の積み重ねによって「理論」を「現実」により近いものへと収斂させる事を訴える;逆に、ある種の相対主義的見解は、自らの「理論」を含めあらゆる「眼鏡」を無限に相対化することによって、「現実」と「眼鏡」の絶対的距離を強調する)、などがあり得るだろう。無論、以上に列挙した例が網羅的だというわけではないしまたおよそ多様に産出されているだろうヴァリアントのすべてを辿る事は本稿の目的ではない。ここではさしあたりマイヤーの「正当化理論」を辿っていくことにする。

2−4−1:「正当化理論」
マイヤーは現代の学歴社会に対するいわゆる技術機能主義的な説明、すなわち学校で教える知識が卒業後の社会生活・職業生活において実際に有用であり・しかるがゆえに高学歴者ほど有能であり・しかるがゆえに高い地位につく、という説明そのものを、論証抜きで信用される事によって維持される「神話」と見做す:

学生が「高校卒業者」である、ということは、歴史と英語と数学の必修単位を取得したということである。それは制度化された教義である。というのも、たいていのばあい人は学生を、そうした知識をすでに獲得したものとして扱わねばならないからだ。しかもいちいち直接たしかめるわけではなく、しかじかの単位が修得されたというそのことじたいによって、そう扱わねばならないのだ。(Meyer1977,p.66)

そして、現代の社会構造そのものが教育システムを背景とした合理的意識=制度に貫かれている以上、実際の高学歴者が有能であるか否かにかかわらず我々は学歴と社会的地位を同語反復的に結びつけざるをえないが、それを「正当化」するのが教育の「神話」だというのである。ところでマイヤーはここで極めて微妙な言い回しを用いている:

教育は現代社会の神話に過ぎないとしても、それは強力なものである。神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、他の誰もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的に見る限り」神話は正しい、という事実のうちにあるのである。我々は皆、教育の役立たなさについて私的に語ることはいくらでもできる。しかし、人を雇ったり昇進させたり、現代の魔術師たちに意見をたずねたり、自らの人生に現代的な合理性を持たせようとする時、我々は教育が権威となるようなドラマの舞台に引き出されることになるのだ。(p.75)
結局、誰が「神話」を信じているとマイヤーは言いたいのだろうか? 或いは、「神話」を信じていない我々がここぞという場面に限ってどうやって当の「神話」にころりと言いくるめられてしまうというのだろうか?
バーガーであれば、上の問題に対して、「内在化のメカニズム」という解答を与えるだろう(上述「社会化=神話の内面化」):

正当化には客観的と主観的との両方の局面がある。正当化は客観的に確実で有効な現実規定として存在する。これは社会の客体化された〈知識〉の一部をなしている。しかしながら、それが社会的秩序を支持するのに有効なものであれば、それはまた内在化されて主観的現実をも規定するのに役立たねばならない。いいかえれば、効果的な正当化とは、現実の客観的と主観的との両規定のあいだに対照的調和を確立する事なのである。(Berger 1967)

しかし、少なくともこの解答だけを見るならば、その主張は極めて単調でスタティックな決定論に直ちに滑り落ちかねないものであるかに見える。そこでマイヤーは、理論モデルの中に「ゆらぎ」の要素を導入すべく、「現実の客観的と主観的との両規定のあいだ」の齟齬にこそ注目し、制度化された組織における必然的な齟齬の発生を「脱連結」なる概念を用いて強調している。かくして、マイヤーにおいては、学歴社会のシステムの中で学校卒業者は実質的な能力を身につけている必要はなくまた世間の人々も教育の神話を信じている必要もない(「内面化」の否定)という点が強調される事になり、先に提起された問題 − 「神話」はいかにして作動しているのか − があらためて先鋭に提起され直すことになるのである。
さて、マイヤーが準備した解答は、「信用と誠意の論理」ということになっている:

整合化とコントロールを欠きながらも、脱連結された組織は混乱に陥る訳ではない。…制度化された組織を正当化しているもの、すなわち組織が技術的な確認ぬきでなお有用という外観を可能にしているもの、それは、諸組織の内・外部参与者双方の、信用と誠意である。 (…) 効果的に不確実性を吸収し信用を維持するためには、人々は、誰もが誠意を持って行為するという想定を持たねばならない。物事はその見かけどおりのものである、という想定、雇用者もマネージャーも彼等の役割を全うしているという想定、これらがあることによって、組織はその日常的ルーティンを、脱連結的な構造によってもやっていくことができるのである。(Meyer&Rowan 1977,p.357-8)

マイヤー(と共著者ロワン)によるこの解答は、一見したところ、「現実の客観的と主観的との両規定のあいだ」の齟齬の危ういバランスを的確に描いているようにおもわれる。@「脱連結」によって組織の実態はコントロールを欠いており、その限りでは技術的な意味での有用性の保証はない;Aしかし、人々は「信用と誠意の論理」によって、組織の外観(有用性の見かけ)を、さしあたり(「儀礼的に」)、信用する、というのである。
しかし、ここにはトリックが含まれている。「脱連結」すなわち「眼鏡」と「現実」との乖離が発生した場合に、「信用と誠意の論理」なるものが論理として自らを貫徹するならば、「眼鏡」のみが信用され「現実」は棄却されるということになるだろう。すると、マイヤーが導入しようとした「ゆらぎ」の要素そのものが抜け落ちてしまう。つまり、ただ議論の焦点が実体の次元から信念の次元へと移し換えられるだけ、という結果に終わるのである。しかもこの議論は、単に決定論に陥るだけでなく、さらに悪いことには、ごくごく常識的な神話言説の反復に陥っている。例えば「学歴社会はなぜ起こるか」というテーマで学歴社会論の授業に先立って小レポートを課された学生(学部1回生、5月)は次のように書いている:

いい大学を出ている人がいい行いをし、いい仕事ができると、会社や社会がかんちがいをしていて、大卒者ばかりを社員として採用しようとするので、外の人もその会社に入りたいがために一生懸命に勉強するから学歴社会がおこると思う。いい大学を出てる人がいい人だという風潮が日本の中に浸透しているから学歴社会が直らないんだと思う。

この学生は、「かんちがい」「風潮」という語を挿入することによって技術機能主義的見解から距離を取ろうとしているが、先に述べたとおり、議論の焦点を信念の次元に移し換えただけで論理的には何も新たなものを付け加えていない。マイヤーもまた「信用」「儀礼」という語を用いて同じ事をしてしまっているのである。無論、マイヤー自身この困難について自覚的である。正当化理論の中で「神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。(…)我々は皆、教育の役立たなさについて私的に語ることはいくらでもできる」(前出引用文)と強調されるのはそのためである。しかし、ここで我々は、まさに本節冒頭の問いに三たび、連れ戻されるのである。

2−4−2:学生レポートの分析
ここで、筆者が以前発表した調査データを再確認しておこう。調査はある地方公立進学校2校(A,B校)と大阪近郊の私立有名進学校1校(X校)の3年生に対して行なわれ、以下の知見が得られた(詳しくは拙稿(1995);特に、紙幅の関係で今回割愛した数表を参照されたい):@設問「学校の勉強や受験勉強で得られる知識は仕事の役に立つ」に対しyes=20.3% という数字は、受験生の受験行動が「技術機能主義的神話」によって導かれている訳ではないと予測させる。A設問「出世のためには高い学歴が必要」に対しyes=37.9% という数字は、調査対象がいずれも進学校である事を考慮すれば決して高い数値とは考えられない。B設問「「一流企業」に入社するのはほとんどが「一流大学」の卒業生である、と思う」に対しyes=39.0% だが、同内容で、「親(保護者)が思っているだろうと思う」に対してはyes=58.5% 、また「世間一般の人々が思っているだろうと思う」に対してはyes=82.0% と高い数値が得られている。「神話」は、さしあたりマイヤーが言う通り、他人の信仰として間接的に信じられているに過ぎない − 「神話の効力は、諸個人がそれを信じているという事実のうちにあるのではない。むしろ彼らが、他の誰もが信じていると「知っている」という事実、そしてそれゆえに「実際的に見る限り」神話は正しい、という事実のうちにあるのである」(前出引用文)。
言う迄もなく上記の「データ」だけから現代日本の「学歴社会」の具体的なメカニズムを解明する事は困難であろう。しかし本稿の関心は「神話」そのものにある。「神話」のありかたを辿るために、ここで新たに補助線として、上記の調査データを大学生(筆者の担当する講義「教育社会学」受講者)が解釈するやりかたに注目する。授業の一環として十数枚の数表の解釈を求められた学生のうち相当数が、次のような特徴的な「解釈」に到達した:@このデータから、私立有名進学校の生徒達が特に「神話」を信じている事がわかる。A受験生本人よりも親や世間の方が「神話」を信じている事がわかる。B従って、受験生が「神話」を信じるのは親や世間がそう教え込んだためだという事がわかる − これらの「解釈」を含む例は以下の通り:

◎ X校はA・B校と比べて、ほとんどの質問でYESと答えている割合が多く、逆にNOが少ない。全体的にA・Bの2つは割合が似ていて、XはA・Bとは違うといってもいいのではと思う。高い学歴が就職に必要という考えが3校とも現在まで残っていることはいるのだが、10年前と比べてという質問に対してはA・BとXはそれぞれ違う結果がでている。しかし、僕の印象ではX校が強く高い学歴を意識しているのでは?と思っています。
◎ @X校は有名私立進学校だけあって、幼少から親にうるさく言われ、塾に通い、難関を突破してきたからなのか、「勉強や努力は仕事にも役立つ」という回答がA・B校に比べて多かった。又、親とだけでなく友人間でも学歴が話題に登るのも、常に競争意識を持って勉強しているという感じがでている。A気になるのは、X校に於いて「よい就職に学歴は必要」という回答(60.5%) と、「出世に学歴は必要」という回答(37.9%) の差である。A・B校は両回答にあまり差がないのだが。思うに、X校では就職してしまえば後はストレートに実力で出世すると思う人間が多いのではないか?B10年前と今とを比較する問にもA・B校は「今」、X校は「昔」と対照的だが、これも、A・B校に比べX校の生徒は自分が今できているから、そんなに深刻に学歴社会の影響を感じないのではないか?
◎ 統計を見ると、ただいい所に就職するだけのための高学歴だと思う。表2−1、表2−2を比べると、学歴の話を友達より親と話すほうが多いということは、表4−2で一流大学を卒業するといい所に就職できるという考えを思っている親からその時せんのうされていると思う。
◎ 学生は、一流企業に入社するのは一流大学の人であるとは多くは思っていないが、保護者、世間一般の人ではそのように思っている。その部分の考え方はわかれてしまうが、よい就職をするためには、高い学歴が必要であると思うのは学生にもある程度ある。保護者、世間一般の人が学歴重視するために、親との間で、学歴は大切であるとか、実際、就職難である現在会社側はすぐに使える人材を求めるから学歴が大切になるという話が出てくるのだと言える。私立高校は高校の時から学歴重視という考え方があるから、学歴が必要であるという考えが多くなる。
◎ ”生徒は学歴社会を、親・学校・地域(社会)から押し付けられ、刷り込まれている”という事が全体から分かる。中高一貫で6年間も進学について厳しく指導を受けたX校は、さすがに”学歴神話”が続いているようだ。親が子供に高学歴を望むのは(どの学校のデータを見ても)同じである。又、出世は自分の努力次第と思っている傾向があるのか、”出世に高学歴が必要”と答えた人は予想より少なかった。しかし出世をして甲斐のあるような所に就職できるかどうかは、努力よりむしろ学歴で決まると、とらえている(→特にX校)。一番頑張って勉強していそうなX校で10年前より今の方が学歴社会は薄くなっていると感じているのは、意外だった。

これらの「解釈」は端的に誤っている(当然ながら、回答者の親や世間が実際に「神話」を信じているかどうかをこのデータだけから判断することはできない。また、数表の中にはむしろX校(私立有名進学校)生の「神話」懐疑的態度を示すものもある)。にもかかわらず多くの学生がまさにこの「解釈」に到達し得たとすれば、我々はそこに何らかの力学を読み取ることができるだろう。すなわち、自分の信じていない「神話」を他人が信じているだろうと信じる、という形式がここでもまた反復されているのである。
ここで確認しておくならば、意識調査の回答者はいずれも進学校の受験生であり、その意味では学歴社会に最も適合的に受験行動を行なっているはずである。また、データ「解釈」を行なった大学生は当然ながらしかるべき進路選択とそれに見合う受験行動の結果として大学に在籍しているはずである。にもかかわらず彼等は一様に「神話」への不信を表明する。さらに付け加えよう。彼等が「神話」の信奉者と見做した「親や世間一般」は果たして本当に「神話」を信じているのだろうか。受験を題材にしたドラマや小説、新聞や雑誌の記事や投書もまた、自らの「神話」への不信を訴えてはいないか。
要するに、現代の明らかな学歴社会の中で、その成員は皆、口を開けば「神話」への不信を訴えているのである。それは、それぞれが他人を「神話信奉者」に仕立て上げる事によって事態を納得しようとしていたためなのではないか、と考えられる。学歴社会は、デュルケーム的な社会的事実として我々自身の意識に絶対的に外在するにもかかわらず、なお我々自身は学歴社会の参与者=部品としてその一部を成してしまっている。これは不条理な事実である。我々は「神話」への不信を語ることによって自らの意識の上からその不条理を解消しようとしているのではないか、と考えられるのである。だとすれば、極端に言えば、この社会の誰ひとりとして自分では「神話」を信じていなくても、むしろその不信を互いに表明し合う為にこうした「スケープゴーティング」が言説の次元で行なわれることによって「神話」の実体性は維持され得ていると言えるのだ。ここで再び「神話」を「眼鏡」と置き換えてみよう。学生達の言説方略は、バーガーが自らの理論を主張するときに取った方略と重なり合う事がわかるだろう。ここでもまた話者の認識論的「勝利」を達成させているのは他ならぬ「神話論のロジック」なのである。この意味において、バーガー、マイヤー、学生といった話者達は等しく「神話論」のヴァリアントを語り、かつそれによってデュルケーム的な意味における「社会的事実」そのものを取り逃がしている、と言うことができるのである。ここで我々はデュルケームの『規準』に立ち戻ろう。

3:神話と言説

「神話」なるものが我々の現実を覆っているのが確かだとしても、それを「眼鏡」という比喩でモデル化するのでは「社会的事実」を取り逃がすことになる。デュルケームの言葉を想起しよう:「集合的習慣は、たんにそれが継続的に惹起していく行為のうちに内在的状態において存在しているだけではなく、およそ生物界には類例をみないようなひとつの特権によって、口から口へと繰り返し語りつがれ、教育によって伝達され、文書によっても確定されるというような方式においてまぎれもなく表現されている…それらのうちのいずれひとつも、個々人によって実践に移されるもののなかにまったき姿においてみとめられることはない」(前掲引用文)。すなわち、デュルケームが焦点を当てている対象は個別に具現化された(あるいは「され得る」)「眼鏡」ではない。「神話」は「常識=眼鏡」が語られ・流通される次元の中に初めて浮かび上がるのであり、その流通から切り離されたいかなる「眼鏡」の中にも「集合的なものとして把捉された集団の諸信念、諸傾向、諸慣行」が全き姿において現れることはないだろう。デュルケームが焦点を当てるのはこの言説流通の次元であり、この次元にこそ社会的な力の作用としての「社会的事実」が生起しているのである。
無論、ここで次のような疑問が生じる事はあるだろう:彼は個々の「眼鏡」の次元にこそ注目していないが、それらすべてに具現化するイデアルな社会的原型としての象徴システム=(大文字の)「眼鏡」にこそ照準していたのではないか? しかし、「実証主義者」たるデュルケームは、具体的現象の世界から切り離されたイデアルな対象を直接把握する事の不可能性を十分に知っている:「なるほど、社会生活は若干の観念の展開にすぎないと考えることは可能である。ただ、そのように仮定してみたところで、それらの観念は直接的な与件を構成はしない。だから、それらに到達しようにも、直接というわけにはいかず、それらを表現してくれる現象的な実在を通して迫っていくほかはない」(前掲引用文)。そして、われわれが読んできたデュルケームは、そうした(大文字の)「眼鏡」が単に認識論的に到達不能だと言うだけではなく、存在論的にもその実在性に対して十分懐疑的であるように見える。確かに我々は(大文字の)「眼鏡」を分有することによって自らの存在そのものを成立させている:「我々は、自分の存在を認めると同時にこれら予断の存在を認めることになり、それに疑いをさしはさむことなどは思っても見ない。これらの観念は、われわれの内部にありながら、それにとどまらず…反復およびそれに由来する習慣のおかげで、一種の支配力と権威を獲得する」(前掲引用文)。そのいみで、社会成員の主観の側から見る限りは、(大文字の)「眼鏡」の存在こそが個人に超越した社会的実在であるかに映るかもしれない。しかし、「こうしたもろもろの事情が働いて、人はこの予断のうちに真の社会的実在を見てしまうことになる」(前掲引用文)と言うときのデュルケーム自身は無論その社会的実在性に対して否定的である。むしろ同箇所でデュルケームが言及する次のような事象の次元にこそ実在性が見られている:「…社会生活のことこまかな事実が、あらゆる面で意識の外部に逃れでていて、意識はそれらの事実の実在性を感じ取るだけのしっかりした知覚を備えていない」(前掲引用文)。無論、ここで彼が「ことこまかな」という言葉を用いているからと言って、そこでいわゆる「ミクロ社会学」のようなものが構想されているわけではない。むしろ、ミクロと言いマクロと言う場合のその相対的判断の規準そのもの、いわば微視/巨視と言う際の「視」という概念そのものを解体する形で「意識の外部に逃れでて」いるような次元にこそ、「社会的事実」が位置づけられているというべきなのである。しかし、そこに社会学者が到達するとはどういうことなのか。『規準』第2章第2節のデュルケームは、「社会的事実」を観察するための具体的方針を提起しようとしながら、ある揺らぎを見せている。彼が提起した方針は

@すべての予断を系統的に斥けなければならない(p.97);
A[まず研究対象に客観的な定義を与えること]共通に見られる若干の外部的特徴によってあらかじめ定義されている一群の現象しか決して研究の対象としてはならない、またこの定義に当てはまる現象は、すべて同一の研究の中に包含しなければならない(p.102)
感覚を経ないでつくられた概念からではなく、感覚によってつくられた概念から出発しなければならない(p.114);
B[とはいえ、感覚も主観的なものになりやすい]したがって、社会学者は、なんであれ、ある種類の社会的諸事実の研究を企図するにあたっては、それらの個人的な諸表現とは別個のものとして現れてくる側面から、これを考察するようにつとめなければならない(p.117)

の3つの系である。既に見たとおり、『規準』第2章のデュルケームはひとえに、イドラとしての社会通念を超出する逆説的方略として社会学的方法を構想している。そのいみでは、上記の3つの系のうち第二のものが最も先鋭的な問題を孕んでいる事がすぐさまわかるだろう。というのも、社会学者が「定義」のために用いる概念が「通念」の汚染から自由であるという保証はなく、それどころかむしろ社会学者自身が元々「通念」に満たされた存在である事こそがここでの議論の前提であるはずなのだ。デュルケームはここで破綻の危険を冒している。例えば彼がその「定義」に用いる指標の「客観性」を主張する根拠は次のようなものである:

事実をかくかくしかじかのカテゴリーに位置づけるのに役立つ標識は万人に示され、万人によって認知されうるし、また一観察者がこれについて行なう主張は、他の観察者たちによって吟味、検討に付されることができる。(p.104)

この論拠は、しかし、的をはずしている。「通念」というものがそもそもその社会の「万人」の間を流通しているものであると考えられる以上、引用文のような事態は「共同主観的」ではあってもデュルケームが望むいみにおいては「客観的」ではなく、とうてい「直接に実在のうちに立脚する」(p.103)ことにはならず、従って彼のここでの論点を補強することにはならないのである。無論その点についてもデュルケームは十分に承知しており、それが上記第三の系の提起につながっていると理解できるだろう。しかし、それより重要だと思われるのは、第二の系の中にデュルケームが記した有名な註である:

実地においては、われわれが出発するのはつねに通俗的概念、通俗語からである(p.105)

つねに通俗語から出発するデュルケーム − しかも、「客観的定義」の必要性を説く瞬間に同時にその実地における不可能性を説いているデュルケームの揺らぎに、我々はあらためて驚くべきだろう。そこには「意識の外部に逃れでていく社会生活のことこまかな事実の実在性を感じ取るだけのしっかりした知覚」を方法化しようと苦闘しながら、まさに「通俗的な」言説の流通する次元に腕を差し入れて、そこで「語りつがれ・伝達され・確定され」つつある具体物の中に反映的に顕現している「社会的事実」として何かを掴み取ろうとしている「実証主義者」デュルケームの姿があらわれているからである。
先に強調しておいた通り、デュルケームは「社会的事実は物であり、物のように取り扱われなければならない」という命題を、単なる「発見された真理を伝える」ようなやり方で述べていたわけではない。そこでは、自己矛盾の危険を賭けた、いわば複数の言葉を語るデュルケームが語っている。我々はややもするとデュルケームの命題をごく単純な一義性を帯びたものとして(すなわち、各人のデュルケーム理論解釈に多少の相違はあれ、その解釈の内部にある限りは矛盾を含まないような一義的命題として)受け取りがちであるが、例えばの話、そうした我々の理解に苛立ったデュルケームがアメリカに渡り、異なる名において次のように語り始めたとしても、我々は驚くべきではないのかもしれない:

…社会的事実の客観的現実性こそは社会学の基礎的第一原理であると教えるいくつかのデュルケームの翻訳異版[certain versions of Durkheim]とは対照的に、むしろ、次のような教訓[the lesson]が採用され研究方針とされるであろう、すなわち、社会学しつつある成員達にとって、日常生活の協働的諸活動の不断の達成である限りにおいて社会的事実の客観的現実性は、その達成をなすところの、彼ら成員達自身によって知られ・用いられ・自明視されている平凡な/技巧的なやり方とともに、基礎的な現象である。
例えば、「社会的事実の客観的現実性は社会学の基礎的第一原理である」という自然言語でできた公式がプロたちの耳には、場合によって、学界の成員の諸活動の定義として・彼らのスローガンとして・彼らのタスク・目的・達成・自慢・宣伝文句・正当化・発見・社会現象・あるいは研究の制約として聞こえることになる。他の色々なインデックス的表現と同様、その使用時の一次的な環境がその意味の確定性を定義として・あるいはタスクとして・などなどとして、それを聞くすべを知っている誰かに対して保証するのである。
…デュルケームのアフォリズムの要約の仕方が、両者の違いを示している。/『社会的行為の構造』においては、デュルケームのアフォリズムは手付かずのままである:「社会的事実の客観的現実性は社会学の基礎的第一原理である」。/エスノメソドロジーにとっては、社会的事実の客観的現実性は、まさにそれがあらゆる社会の、ローカルに内生的に産出され・自然に組織化され・反映的に説明可能であり・不断であり・実践的な達成であり、あらゆるところで・いつも・ただ・精確に完全に成員達のワークであり、休むことなく、回避・消失・パッシング・延期・足抜けの可能性もない、という限りにおいて、そしていかにしてそうであるかという事、それによって、社会学の基礎的な現象なのである。

註:翻訳について。ここでは[versions]の語意(聖書等の翻訳/訳書/訳文;特殊個人的な視点からの説明、叙述、意見;等)を汲んで、「(オリジナルに対する)異版」という含みを生かして訳した。この語釈の含意するところは以下の通り:@テキスト筆者は、デュルケームが読者達の間に複数の理論解釈を産出させるような能産的・複数的な言葉を語っていると理解している;Aしかし多くの解釈者達は、一方でデュルケームを一義的な聖典として絶対化しながら、それぞれ自分の言葉に合うようにデュルケームを翻訳(解釈)し、各々の版のデュルケームを産出し、デュルケームの名においてしかじかの命題をそれぞれの解釈者が教えてまわる(流通させる);Bそのうちのいくつかの翻訳異版は、「社会的事実の客観的現実性」というものを何の限定もなく(「…不断の達成である限りにおいて[as…;ここで[as]がイタリックで強調されている]」という限定を抜きにして)すなわち無限定の絶対的存在として語っているし;またC「社会学者」という概念が一義的であるかのように(言い換えれば、「社会学者/非社会学者=一般成員」の区別がそのまま「社会学している/していない」に対応しているかのように)「社会学者」「社会学的方法」概念を無自覚に措定しているし;またDもともとデュルケームにとっては社会学的方法を用いる社会学者(デュルケーム自身を含む)もまた通俗語から出発しかつ観念を用いずにはいられない「一般人」との間で揺らぎを生きつつある者なのであり、その意味において社会学的方法は自らの基礎づけそのものまでを現象の一部として対象に含みつつそれを超出して認識しようとする、独特に屈折したいわば「メタ理論」的性格を帯びるはずであるのに、異版ではその屈折がなくなり命題は絶対的に安定した「第一原理」として提示されている;といった理由のために、ここでのテキスト筆者の議論とは「対照的[in contrast]」である。すなわち、ここでテキストの筆者が「対照的」という言葉で指しているのは具体的人物としてのデュルケームの言葉そのものではない、むしろデュルケームの言葉の屈折した姿とその能産性を、ある教訓として、このテキスト筆者はあたう限り復元しようとしているのだ、という語釈を試みたわけである。こうした解釈をしている翻訳を寡聞にして知らない。例えば次にあげる訳文は、原書がアメリカで出版されたエスノメソドロジーの標準的な教科書の一つの中に同テキストが引用されている例である。引用の翻訳ということもあり、ここには教科書著者による解釈が含まれ・また教科書邦訳者による解釈も含まれているであろうが、本稿での翻訳とはかなり文意自体が異なっているように思われる:

デュルケームの教えの一部であるところの、社会的事実は客体的リアリティであるということが社会学の根本的な原則であるという説とは反対に、我々は、社会的事実の客体性は、日常生活の一致した行為によって不断に達成されつつあるもの、そしてその当り前で見事な達成のされ方が、その成員によって知られ利用され自明視されているものととらえて、それを、社会学者にとっての根本的な現象であるとみなそう。それが[フッサールからの]教えであり、エスノメソドロジーの研究の指針である。

いったいなぜそこまでしてデュルケームとガーフィンケルとを対立させなければ気が済まないような風土が制度的に出来上がってしまっているのだろうか、と不思議な感慨を覚える。それらはまさに先に述べた「翻訳異版」の事例となるものであって、デュルケームとガーフィンケルをともに一義的に聖典化した上で恣意的に解釈し両者を善悪に振り分けて対立させ流通させているものだと言え、本稿の立場からは、まさにそうした一義化こそはデュルケームとエスノメソドロジーの共に批判するところであると思われるのだが。なお、日本へのエスノメソドロジーの初期の紹介を果たした加藤は問題の箇所を「デュルケムのある種の言辞(certain versions)」と原語を補いながら訳し、註として「versionには訳文という意味もあるので、ガーフィンケルはここでアメリカへのデュルケム紹介の偏りを指しているとも考えられる」と認めている(加藤1981)。また、氏は同論文でガーフィンケルとデュルケームのある種の親近性を指摘してさえいる。なぜこうした理解や語釈が我が国の同箇所の翻訳において後退していったのか、それはそれでひとつの言説の抑圧・産出・流通現象として社会学的な研究の対象になるであろう。
4:おわりに

本稿では社会学における「神話論」のロジックを批判的に検討してきた。その検討は、純粋に理論的な関心にとどまらず、極めて実践的なものとなった − なぜなら、「神話論のロジック」を用いることによって他者のリアリティをアイロナイズし他者を神話盲信者に仕立て上げていたのは社会学者だけでなく、学生をはじめ社会学者ならざる一般の人々にまで同じ語り方が共有されているからである。そこで、本稿冒頭に予告した通り、本論文を結ぶに当たり、社会学的思考において「神話」という語を用いることをやめよう、と主張しよう。言うまでもなくこの主張は「神話論のロジック」への理論的論駁とは次元を異にしている。比喩的に言うならば、行動療法のような実践性がそこには期待されている。社会学の研究を、代替的な「理論=眼鏡」の提起と捉えるのではなく、再び比喩を用いるならば、コンピューター・ウィルスのように人々の思考様式そのものに侵入し異物としてその意識を再組織化していくような装置として捉えること。デュルケームの『規準』に続くそうした装置を流通させることが、われわれの課題となるだろう。(以上)

* 本論考は、教育社会学研究室の院生・学部生による読書会・研究会での会話に多くを負っている。このテキストは、「ドイツ・イデオロギー研」「マイヤー研」「アルチュセール研」「サックス研」「広松研」といった場で、研究会参加者の間で交わされたコミュニケーションが、凝結したものである。また、本稿のデュルケーム解釈は、薬師院仁志氏のデュルケーム論に決定的な方向付けを負っている。氏の同テキストはあまりに高密度なため容易に引用を許さないが、にもかかわらずその効力は本稿の隅々にまでわたっている。

【文献】
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− (1997)、「教育社会学教育の社会学」『天理大学生涯教育研究』第1号
加藤春恵子(1981)「エスノメソドロジー」
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