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学歴と生涯学習

大串 兎紀夫

はじめに

近年、「学歴」の評判が極めてよくない。学歴を頭に冠した「学歴社会」という言葉が、現代の日本社会の負の面についてふれるときの、キーワードのひとつになっている。
高度経済成長により物質的には豊かにはなったが、その過程で個人、家庭、地域から企業、役所、学校、病院、警察などの官民の各種組織なども、そのあり様にゆがみとでもいうべきものが生じ、家庭生活から政治・経済や教育・文化まで社会のあらゆる面で深刻な問題が次々と噴出し、閉鎖状態(ゆきずまり)に陥ってしまったが、適切な対応ができない・見つからない状況が最近のわが国の実態であろう。このような状況をもたらしている原因の一つとして「学歴重視の人物評価」が指摘され、現状を打破する方策として、「学歴社会の是正」が叫ばれた。現在の日本社会の様々な問題を改善・改革し解決するための検討、論議する際、「学歴」が克服すべき大きなテーマとして取上げられている。
例えば、神戸の小学生殺害事件(いわゆる「酒鬼薔薇」事件)をきっかけにした現代の子供の問題を特集した『AERA SPECIAL 子どもがあぶない(1997,11)』で、フリースペース主宰者の水郷星河氏は「子供達はなぜ死に向かうか」の見出しで小・中学生に接してきた経験をもとに、“命より学歴重視の親”として、そうさせている社会を批判している。また、同誌は戦後教育の歴史を振り返り(「戦後日本と子ども」)“受験戦争への投資は効果があるか”“中学受験の過熱”とともに“学歴社会の王者東大卒の落とし穴”と、学歴および・学歴社会を、現在の状況を生み出した本質的弊害の一つと位置付けている。(下線筆者)。
また、別の例として、バブル崩壊後、ソニーが新しく取り入れた専門職社員採用方式として「学歴不問の採用」が話題になった。これは、当時一般に行われていた、まず出身大学をランク分けしてそれが第一条件になっていた採用手続きを変えて、出身大学名を一切不問にして選考を行う方式だが、この場合、学歴は「受験勝者=一流大学(学歴)=一流企業=幸福な人生」という図式の一部として用いられており、これが企業にとっても望ましいものではない、ということを表明したことで話題になったのであり、学歴にこだわることは職業上の能力や可能性をみるうえでも良くないことだという文脈で用いられている。 二つの例を挙げたが、学歴は教育の世界の課題として批判的に議論されるばかりでなく、現代日本が克服すべき社会問題、社会のあり様としての認識が一般的になっている。
しかし、改めて考えると、学歴自体は悪いことばかりではないはずである。それどころか、むしろ国民の多くが“高い学歴”を身に付けるのは“近代社会の目標”であり、教育に課せられた使命のひとつであったはずである。それがどうして、“社会の発展を阻害する原因”と見られるばかりでなく“現在の様々な不合理・不公正の象徴”とでも言うようになってしまったのだろうか。学歴は現代では、意味のない、邪魔なもの、否定すべきものなのだろうか。
以下、学歴について、改めて見直し、生涯学習時代における学歴の意味、意義と機能、役割を考えてみたい。

1、「学歴」、「学歴社会」

@「学歴」の意味
先ずは、辞書にある「学歴」の言葉としての意味を確めてみたい。
『広辞苑(第五版)』によれば、“学業に関する経歴”とあり、また『日本語大辞典』では“学校へ行って学習した経歴”とし、さらに“educational background 対義 職歴”と解説している。また、『新明解国語辞典(第四版)』では、“その人が、どういう学校を卒業したかの経歴”と説明している。
『広辞苑』の定義は、いま問題になっている「学歴」よりも極めて広義で、一般的な言葉の説明である。これにたいし、『日本語大辞典』は、「学業」をより具体的に“学校での学習”に限定しているが、続けて説明しているように“職業の経歴に対して教育的経歴”として、卒業にはこだわってはいない。一方、『新明解国語辞典』は“学校を卒業”と限定した上“どういう学校を”とさらに限定して定義している。この解説の違いは「学歴」の社会的意味の歴史的変化を物語っている。“学ぶこと”自体の経歴だったものが、近代になって学校制度整備されることにより“学校で学ぶ”になり、近代化が進展するに従い“学校を卒業”になり、さらに“どういう学校を”と限定的に変化してきている。すなわち、われわれの目標であった、近代化の進展が学歴の持っている社会的意味を変化させたといえる。
前述の批判の対象になっている学歴は、この最も新しい意味合いである、『明解国語辞典』の定義が最もよく当てはまる。しかし、これらの辞書の意味も、それだけでは、悪い、マイナスの意味もイメージも浮んでこない。むしろ、“学業”や“学校卒業”の経歴は、その人にとって誇るべき、プラスの意味を持つし、プラスイメージである。
問題なのは“学歴偏重”、すなわち“学歴に重きをおき過ぎる”あるいは“学歴ばかりを尊重する”ことにあり、人々にそうさせている、いわゆる「学歴社会」にあるのだろうか。次に「学歴社会」についてみてみたい。

A「学歴社会」の意味
個人の学歴は古代から何時の時代でも重要視されてきたし、現在でも個人が学歴を重ねることは、決して否定されてはいない。前述のように、批判されているのは個人よりも個人を学歴偏重にさせてしまう「学歴社会」であり、「学歴偏重社会」である。
例えば、昭和60(1985)年、『臨時教育審議会(いわゆる臨教審)の第1次答申』は“教育改革の基本的考え方として個性重視の原則を挙げるともに、当面の具体的改革として、学歴社会の弊害の是正、(中略)などについて提言”している(注 1) 。
この「学歴社会」を早く、批判的に取り上げたのは、イギリスの社会学者R.P.ドーアである。ドーアの書“The Diploma Disease ”(直訳すれば卒業証書病)は、松居弘道により『学歴社会−新しい文明病』と翻訳されて1978年に出版されて話題をよんだ。その中でドーアは、この「学歴病」を近代社会の体質病であるとして、近代化・産業化の進展はこの病理現象を避け難い形で生み出すとし、日本はもっとも“先進的”な事例であるとしている(注 2) 。
しかし、学歴の場合と多少ニュアンスは異なるが、「学歴社会」も本来は前向きの“望ましい社会”として考えられていた。
例えば、『新教育学大事典』の「学歴社会」の項を見ると、まず始めに“人々の将来が過去にどのような教育を受けたかによって規定される度合いの高い社会。”としたうえで“個人の将来が生まれた家柄とか身分によって決められる(中略)「身分制社会」”と対置して“近代化とともに(中略)一人一人の才能、能力、才覚、努力によって社会的地位が規定される傾向が強くなると予想されている“としている(執筆)(注 3) 。 すなわち、前近代の身分制度が支配している社会にかわって、個人の学習の結果(獲得した学歴)によってその社会的地位が決まるわけだから、近代的、合理的ということができる。

2、わが国の「学歴」「学歴社会」の変遷

わが国では、江戸時代の「士農工商」に象徴される「身分制社会」から、明治維新以降、「文明開化」「富国強兵」「四民平等」のスローガンのもと広く人材を登用するために、近代学校制度が整備され、誰でもがその能力と努力に因って上級学校への進学の道が開かれ、社会のリーダーとして「出世」する機会が保障された。こうして、全国民の中から有能な人材が登用されたが、それを社会的に認知するのが「学歴」であったから「学歴社会」は、日本の近代化の目標であったともいえる。
しかし、実際には、義務教育だった小学校(初等教育)でさえ、家庭の経済的理由などから卒業はおろか満足に通学できないものも多かったし、まして、「最高学府」である「帝国大学」に進めるものは「名士」「名家」の子弟に限られ、庶民の子弟はよほどの幸運がなければ中学さえ進学できないのが、昭和初期までの現実であった。
この時代には高学歴のものは極めて少数であり、学歴を基準に社会的地位が規定されることが、社会的差別が残る中で有効に機能していたし、「中卒」「大卒」などの学歴が人々の憧れともなっていたといえよう。やがて、昭和10年代、産業化の進展と、戦争遂行の「国家総動員」のための人材育成の目的で中等、高等教育の普及がはかられ平均学歴も高くなった。
戦後、民主化が進められるなかで、義務教育が9年になり、高校、大学の数が大量に増え、高い学歴への機会が大幅に高くなって、学歴の持つ意味が変質した。高学歴の人々の増加は、社会の産業化、経済の成長には欠かせない要件であったが、一方、高度経済成長(所得倍増)のおかげで、多くの人の家計にゆとりができ、子弟の上級学校への進学が可能になった。人々の高学歴化と産業の近代化・高度化(経済成長)とは表裏の関係であり“持ちつ持たれつ”の関係といえる。
こうして、多くの人が一定の学歴をもてるようになると、単に高校、大学で学ぶ(卒業する)だけでは差異化がはかれなくなり、“どの高校(大学)を卒業したか”が問題にな成る。制度的な、建て前としては“学校による差”はないことになっているが、現実には、大学では旧帝国大学や有名私立大学の「一流・有名大学」と、新設の「二流大学」と差を付け、高校では大学進学生の多い「進学校」とそれ以外に分けることに始り、高校進学率が高くなるに従い、進学校の中でも一流(有名)校ができてきた。こうなると、大学・学部の専門性(何の学問の教育・研究をするか)や個々の高校の特性(普通高校、職業高校、教育目標の違いなど)は余り重視されなくなり、つまるところ、受験産業が作成する“偏差値”によって高校、大学を一律にランク付けするまでになっていった。そして“どの学校に入るか”が親にとっても子供にとっても最大の関心事になり“受験勉強だけが勉強”となって、近代学校教育制度の目標と大きくずれた状況をもたらした。
こうした状況は、高度経済成長が成し遂げられ、1970年代の安定成長(成熟社会)時代に社会問題化するまでになるが、当初は学校教育の改革で対応できるとされていた。しかし、前述のドーアの社会学的な綿密な実証的な分析などをきっかけに、近代社会の持つ病理現象として批判が強まり、成熟社会を迎えて社会全体の問題として克服されなければならないとされるようになった。
例えば、アメリカの社会学者R,コリンズは学歴社会のメカニズムのもとでの教育拡大、その結果としての教育インフレーションは、近代世界の特徴であり、先進国、途上国を問わず、大なり小なり共通した現象であるとし、学歴インフレの結果、雇用主は本来不必要な職務にも高学歴者を求めるような傾向が生じているといっている。(注 4)
学歴社会への批判をまとめると、例えば、『社会学事典(弘文堂)』の「学歴社会」のなかで新堀通也は“…個人を評価し処遇する基準として学歴を重視する社会。学歴獲得の機会には階層別、地域別などの不平等があること、学歴は必ずしも学力や人物を示さないこと、20歳前後に決定される学歴はその後の能力の変動を無視していることなどの不合理に加えて、学歴獲得競争がもたらす各種の弊害…”があることをを挙げている(注 5)。 このような論議のなかで、わが国の教育を根本的に改革しようという「臨時教育審議会(以下)」が昭和59(1984)年に発足し、次々と答申をだしたが、その柱の一つとして提案されたのが“生涯学習体系への移行”であった。そこでは“学校中心の考え方からの脱却”とならんで“学歴社会の弊害”の解決を実現へのポイントとして挙げている。 そこでは“これ(学歴社会の弊害)は、今日の教育・学習システムのみならず、社会慣行や人々の行動様式に深く根ざ差していることから、長期的視点に立って解決されなければならない”として“学校教育への過度の依存を生み”“人々の生涯にわたる流動的で発展的な成長をはばみ”“生きがいの芽をつむことになる”としたうえ、”企業等の雇用慣行や人事管理の問題および社会全体の風潮等種々の要因があり、社会全体の問題として対応することが必要である”としている(注 6)。
こうした社会の対応もあって「学歴」「学歴社会」は大きく変質していく。

3、「学歴社会」の変質

@バブル時代の学歴
臨教審の答申が出された1980年代は、高度成長の時代を経て、成熟社会として、新しい社会のあり様、人々の生き方を求めて、様々な社会問題の解決が目指されたが、しかし、2度の石油危機を克服して日本的企業経営が成功したように見られた、いわゆるバブル経済の時代である。こうしたことを背景に、人々の「学歴」に対する見方が大きく“変質した”といわれる。
潮木守一は、1990年出版の『新教育学大事典』で「学歴社会の変質」と題して、この時代の学歴観を次のようにまとめている。
“「学歴競争」が貧しさの産物だったとすれば、その歴史的使命は貧しさの消滅とともに消滅する。「豊かな社会」の出現は学歴競争を支えてきた心理的基盤を突き崩しはじめた。今や完全雇用は常態となり、人々は失業の恐怖から解放された”“この超完全雇用の時代には、職業にしろ、所得を得る道にしろいくらでもある。高校を中退しても、大学へ進学しなくとも、所得を得る道はいくらでも残されている。学歴競争に乗らなくても、たとえそこからあぶれても、何ら痛痒を感じる必要がなくなった”として“その上学歴エリートが必ずしも社会的地位の保証にならなくなった”ことから“今日の「生き甲斐追求時代」「レジャー時代」「自己実現の時代」にあっては、「古典的エリート・コース」は、もはやすべての者の目標とはならなくなった”が“これらの新たな傾向が、いかなる社会を生み出すことになるかは、もう数年の観察を必要とする”と結んでいる。(注 7)
確かに、豊かな社会になり、高校への進学率が95%を超え、大学進学率(短大含む)も40%を超えている現在、「高卒」「大卒」だけでは、あまり意味を持たなくなっているともいえる。しかし、潮木のいうように“完全雇用”が主たる要因であろうか。
また、前述のように、企業も「学歴不問」の採用を取り入れたり、実力主義、能力主義の人事評価に切り替えるなど学歴だけで社会的地位が保障される時代ではなくなりつつある。こうした中で、女性や、一部のサラリーマンの間で“会社人間”への反省から、資格取得などの自己研鑽、自己能力開発の動きもでてきた。
しかし、「どんな大学を卒業したか」は相変わらず就職などで有利に働くし、若者たちもできる事なら「有名大学」に入りたいしそのため「有名高校」に進みたいと思っている者が大部分であろう。
若者たちの間に、学歴に対して距離を置いた、覚めた見方・態度が広がったのは、社会の豊かさ、とりわけ親世代の経済的ゆとりが基本ではあると認めた上でなおかつ、むしろ「学校歴(どんな学校を卒業したか)」による選別が強いと感じた結果の、あきらめではないかと考えられないだろうか。それは幼児段階からの学歴競争に、生き残れるものはごく少数というふうに現実社会を、見透かしてしまった、ということかもしれない。バブル崩壊後の学歴に対する見方で検証していきたい。

Aバブル崩壊後の学歴
いわゆるバブルの崩壊後、1990年代の日本経済はゼロ、またはマイナス成長を続け、戦後最悪の状況だといわれている。大学、高校の新卒者の就職状況は“氷河期”“超氷河期”などといわれるほど厳しい。そればかりでなく、企業は組織自身を守るため「リストラ」と称して雇用調整、人員整理を断行しているため中高年層の失業者の増加がいちじるしい。
まさに、潮木のいった“完全雇用”の状況は崩れたわけである。それでは「学歴」に対する意識はどう変化しただろうか。若者を中心にみてみたい。
求人の少なさや就職協定の廃止などの就職状況の厳しさが増すなか、学生の就職活動は加熱の一途をたどっているといえる。インターネットなど就職情報へのアクセスが用意になったこともあり、企業への資料請求を百数十件、数百件する者も珍しくないといわれる。大量のアクセスにとても対応できない企業(いわゆる一流企業)は、まずは、大学名で選別した後に選考をはじめる。結局「どこの大学を出たかの学歴」がものをいうことになる。 こうしたなか、学生たちのなかに資格の取得や実際の職業に役に立つ能力を身に付けるため、高校、大学に通いながら専門学校など別の学校に通う、いわゆるダブルスクールなどの、新しい学歴を付けるものが増えている。これまでの“小中高大”の直線的な「タテの学歴」でも“どの学校”という「ヨコの学歴」でもない新しい学歴が求められているといえる。「タテの学歴」は高校、大学の進学率が高くなって、あまり意味をもたなくなった。また「ヨコの学歴」は学歴競争が精密に確定的に作り上げられてしまった中で、一部の受験勝者のためだけに有効なものになった。
現代は、臨教審などが目指した“学歴社会の是正”が十分には達成されなかったのは確かである。むしろ、学歴は、相変わらずと言うかますます社会のすみずみにまで入り込んできているともいえる。

4、生涯学習と学歴

前述のように「学歴社会」は、近代社会が前近代の「身分制社会」からの脱皮のために、上級学校への進学の機会を保障して、人材を広く登用し、社会を活性化するための仕組みであった。だから、高学歴者が増えることが社会の目標であり、また社会を構成する一人一人も高学歴を目標にしたことが、社会の発展の基礎になった。
しかし、近代化、産業化が進展するにつれ、ドーア等が言うように「学歴病」という形で社会病理現象として、社会そのものを蝕むようになった。「生涯学習」は、その病理の解消のための方策として提案された。だから、生涯学習を掛け声(スローガン)だけでなく、実質的なものとしていくためには「学歴」に付いての、明確な認識が欠かすかことのできない、必要なことなのだと思う。
では、生涯学習時代の学歴はどの様に考えればよいのだろうか。私は、これまでにも多くの人がいってきたように、「学校歴」(どの学校を卒業したか)ではなく、「学習歴」(何を学んだか)に変えていくことが重要だが、さらに、“何の目的で学んだか”そして“その結果はどうだったのか”も含めて「学修歴」とでもいうことが重要であると思っている。
すなわち、学習は“何のために(動機、目的)、何を(内容)学んだか、その結果はどうだったか(成果)”の一連のプロセス全体を評価しなければならない。学歴は、学習歴であるから、目的、内容、成果を含めたものになる必要がある(これを仮に「学修歴」とよぶ)。
学習は、本来、個人的な側面と社会的な側面がある。学修歴も個人が自分の必要のためにのみ用いる場合には、自己評価だけでもよいし、資格のように他者評価をうけても公開する必要はない。しかし、就職などのように社会的に用いる場合には、自己評価だけでは不十分で、他者評価が重視されるのは当然であろう。その場合、学習した内容と結果(何を学んだか、その結果、何をどのくらい身に付けたか)は欠かすことのできないものである。これに対して、動機や目的は、他者には関係のないプライバシーという側面が強いし、他者評価する学修歴に含める必要がないように思える。しかし、学習内容や成果は動機・目的と密接に関連している。
例えば、“海外にショピング旅行したいので英語を習う”と“英文学を原語で読みたいので英語を習う”と“英語の教師になるため英語を習う”では同じ英語の学習といっても、学習の内容はもとより、方法、レベル、期間が異なるのは勿論、まして、学習成果をどのレベルでよしとするかが異なるから、それぞれに適した評価が可能な「学修歴」にする必要がある。この場合、初めの2つは特別な他者評価は必要ないが、最後の“教師になる”には、社会的影響が強いため、現在と同様、免許が必要であろう。
先に見た、学生の資格学習が盛んになっているだけでなく、会社員、勤労者や主婦などにも様々な資格を身に付けようという動きが盛んである。これは、学校歴だけでは社会的にあまり意味をなさない場合が多いことが背景にあるであろう。この学校歴よりも学修歴を重視するという傾向はは、人が生涯にわたって学習することが社会的にも評価されるという“生涯学習”の理念にも合致する事である。
ただし、学校歴も不必要という訳ではない。小学校、中学校は生涯学習の基礎を形成するという意味でも重要であるし、高校、大学では教養や専門分野、職業分野などの総合的能力を示すのに有用であろう。ただしそのためには、現在のように入り口(入学試験)を厳しくするのではなく、むしろ、一般にいわれているように、出口(卒業試験)を厳格にしていく必要があろう。さらに、その学歴を社会的に意味のあるものにするためには、現在の相対評価から絶対評価(全国テストなど)にしていくことも重要であると思われる。 とにかく、生涯学習社会でも「学歴」は重要な人物評価の目安の一つであることに変りはないであろうし、ある意味ではますます重用視されるであろう。肝心なのは、その人、個人を評価することであり、学校の名前など個人とは直接関係のない事での評価を優先しないようにしていくことであろう。


1)文部省編『平成11年度 我が国の文教施策〜進む「教育改革」〜』p,20
2)R,ドーア著、松居弘道訳『学歴社会−新しい文明病』(1978, 岩波書店)
Dore,R.P.,The Diploma Disease,1976
3)『新教育学大事典』(1990, 第一法規出版)
4)R.コリンズ著、大野雅敏ほか訳『資格社会』(1984)
Collins,R.,The Credential Society,1979,
5)『社会学事典』(1988, 弘文堂)
6)文部省編『昭和63年度 我が国の文教施策〜生涯学習の新しい展開〜』
7)前掲3)