“先人たちの生涯学習”を学ぶ
〜吉田松陰、近藤富蔵を例に〜
大串 兎紀夫
1、 生涯学習と人生
生涯学習は、突き詰めて言えば、それぞれの人の“生き方”(ライフスタイル、人生観)である。 全ての人は、先人の作ってくれたさまざまな技術や知識、物を受け継ぎ、活用・利用して、生きている。そして、その中から自分自身の生き方を少しずつ作っていく。そういう点からも、身近な人を含め同時代の先輩たちや歴史上の人々、先人たちの生き方を、生涯学習の主要な対象として含めていかなければならない。
その場合、両親や祖父母をはじめ先生や先輩などの、同時代の身近に接することのできる人々については、直接その生き方を、見たり聞いたりでき、そこからさまざまなことを直接学んでいくことが可能である。しかし、同時代でも大多数の人とは直接接することはできないし、まして時代を異にする歴史上の人々については、間接的にその生き方を知り、学ぶほかはない。
同時代(近い過去も含めて)の人々の生き方は、最近ではさまざまなマスメディアを通じて、多種多様な情報として、生き方の一断面が伝わってくるし、人物紹介などそれらをまとめた形でも伝えられている。しかし、それらの多くは断片的であったり、その時々・時代の風潮から見た一面的な見方や評価のものである場合が多い。このため、先人たちの
生き方が生涯学習の対象になるには、研究などによって客観的な人物像が明らかになる、ある程度の時間が必要であろう。これは、伝記などのドキュメントはもちろん、小説などの文学作品としては、いっそう人物像として熟成する時間が必要である。
このような理由から、われわれが人生を学ぶ人物は、どうしても歴史上の人物になる。一方、歴史上の人物の生き方は、細かい事実がわかりにくい、その人の生きた時代背景や社会状況が今とはまったく異なるなどのことから、現在のわれわれの生き方の参考にはならない、という考えもありうる。
しかし、私は、時代や状況が異なるからこそ、参考になると考えている。同時代では、とかくその時代の流行・風潮、大勢の意見、雰囲気・イメージなどに流されて、冷静で客観的に理解し判断することが難しくなりがちである。歴史上の人の人生なら、時代や状況が違うことをしっかりと踏まえたうえで、その状況の中でどう考え、生きたのか、客観的に判断できる。そして、人の一生、人生という面では時代の違いを超えて共通するもの、生きていくうえでいつの時代でも大切なものが、かえって素直に学び取れるのではないかと考えている。
しかも歴史上の人物に学ぶことの最大の利点は、その人物の生涯、特にその終わり方が、ほとんどの場合、わかっていることである。「終わりよければすべてよし」と言われているように、人生が幸せだったかどうかは、その終わり方にあると言っても過言ではないし、その人物が一時的なものでなく、長い目で見て社会にとってどのような役割を果たしたのかも冷静な判断が可能である。このように、その人物の一生涯を客観的に知った上で、その人の生き方やそれがどのような育ち方、経験で形成されたかを学ぶことができるのである。
もともと、わが国でも歴史上の人物に学ぶということは、ごく普通に行われてきた。明治以降の学校教育でも、偉人・英雄などさまざまな形で先人の事績が教えられ、それが人生のモデル・手本とされてきた。しかし、第二次大戦の敗戦後、新日本建設=過去の日本の否定という政治・社会状況の中で、学校教育はもちろん社会教育でも、先人の事績は芸術家・文学者など以外は排除された。そして、一般の人が、先人を知るのは、小説やドラマというフィクションの世界に限られてしまったといえよう。
若者のアンケートで、尊敬する人として親が一番にあげられるという例に見られるように社会に共通する価値観が見失われている。このような非確実な社会状況で、若者だけでなく社会として見習うべき大人、人物が見当たらないという時代には、生涯学習の立場からも、あらためて「先人の人生に学ぶ」ということの重要性が再認識されるべきではないだろうか。
この小論は、このような考えを具体的に示すために、以下、幕末の二人の人物の生涯、一人は“理想の教育者は”というと必ず多くの人が名を挙げる「吉田松陰」、もう一人はよほどの専門家以外ほとんどの人がその名を知らない「近藤富蔵」を、簡略ではあるが取りあげて、生涯学習論の立場からその生涯を紹介してみようというものである。
なお、筆者は歴史の専門家ではないし、上記二人の事績を独自に調べてもいないので、事績については、手元にある専門書(参考文献として示した)により、それを生涯学習論の立場から分析、考察する。
2、 事例(1)吉田松陰
1)吉田松陰とは
吉田松陰は、幕末、維新期の人物の中でも著名な一人であり、維新で活躍した多くの志士を育てたことで知られている。最近でも、教育が社会問題となって教育者のあり方が話題になったときに、アンケートなどで「優れた教育者は?」と問われて、多くの人が、吉田松陰を挙げることでもわかる。
それでは、このきわめて評判の高い吉田松陰とは、どのような人物であったのか。まず、現代、一般的に受け止められている姿を知るため、国語辞書の記述を紹介しよう(「広辞苑(第5版)」)。
よしだ−しょういん[吉田松陰]
幕末の志士。長州藩士。杉百合之助の次男。名は矩方(のりかた)、字は義卿、通称、寅次郎。別号、二十一回猛士。兵学に通じ、江戸に出て佐久間象山に洋学を学んだ。常に海外事情に意を用い、1854年(安政1)米艦渡来の際に下田で密航を企てて投獄。のち萩の松下村塾(しょうかそんじゅく)で子弟を薫陶。安政の大獄に座し、江戸で刑死。著「西遊日記」「講孟余話」「留魂録」など。(1830~1859)
この解説でもわかるように、松陰はその29年余りの生涯のうち、最後の5年間の事跡だけが有名である。すなわち、当時禁止されていた海外渡航を企て、伊豆・下田でペリー率いる米国軍艦に密かに乗り込もうとして失敗し、投獄されたことと、その後、萩で松下村塾を開いて幕末・明治維新の志士(久坂玄瑞、高杉晋作、伊藤博文、山県有朋など)を数多く育てたこと、その教育方法は学ぶ者の能力・個性を重視し、その人に合った教え方をした、などなど。
幕末の動乱期に、有能な若者が世界を知ろうと海外渡航を企てるのはわかるが、法律を破ってでもいきなり実行してしまうという激しさと、その直後に、謹慎の身とはいえ冷静に多くの弟子を心を込めて育てていたであろう姿が、どう繋がるのか、そこにどのような心の動きがあったのか、現代のわれわれには、なかなか理解しにくいのではないだろうか。
当時、建物(校舎・教室)や教材・教具など物理的な教育条件は、きわめて貧しかったはずだし、近代的な教育課程(カリキュラム)などもなかったなかで、わずか数年で、多くの若者の「人生の師」と仰がれるようになるのは、どのような教育だったのだろうか。また、それを可能にした、松陰とは、どのような人物だったのか。特に教育的に興味を引くのは、松陰が、どのように育ち、自分を育てていったのかということである。
そこで、次に、吉田松陰の生涯を、本人の成長という面を中心に見てみよう。
2)吉田松陰の生涯
まず、文末の 資料(1)吉田松陰 (11ページ)を見ていただきたい。これを見て、まず気づくのが、幼くして(6歳−年齢は全て数え)養子先の兵学師範の家を継いだということである。生家は下級武士ではあるが学問を重視する家柄で、父や叔父に兄とともに厳しくしつけられたが、兵学師範の当主として一人前になるために、よりいっそう厳しく教育を受けたようである。松陰自身も、現代の同年代(小学生)では想像もできないような、厳しい専門的な学問修行に精進し、その期待に応え、15歳で藩主に講義ができるようになり、19歳でそれまでつけられていた後見人から自立し、独立した兵学師範として認められた。
長州藩は、関が原の戦いで破れて領地を大幅に減らされたため、「必ずいつかは…」と軍備充実を怠らない藩であり、その兵学師範となれば、生半可の実力では認められないところである。まして当時は、諸外国からの開国要求などから、沿岸防備の増強が、全国的課題になっていた時期であるから、兵学といっても、単なる理論、本のうえでの議論だけでは通用せず、実際に役立つものでなければならなかったはずである。
松陰も、自立するとまもなく、藩命で藩内の沿岸防備を視察し、21歳には九州遊学で各地の学者に学び、翌年江戸に出て、佐久間象山ら新しい知識人との交流を重ねるなどして、洋学を学ぶとともに世界情勢にも目を向けるようになった。
そうした中で、日本の現状、幕府や諸藩の政治・現状認識に危機感を持つのは若者として当然であろう。松陰は、相模、安房の海防の状況を見た後、東北地方も見ようと計画する。当時は、長く藩邸を空けるには、藩の許可が必要であったが、松陰は、願いを出した後、許可が出るのを待たずに出発してしまう。これは、「脱藩」行為であり秩序を重んじる当時では、重大犯罪であった。友人たちは自重するように説得したが、松陰は、自分は正しいことをするのであり、なんらやましいことはないと、実行してしまう。
彼は、藩という世界をすでに超えて、日本という視野で考え、行動していたといわれている。現代のわれわれから見れば、当然の態度であり、松陰自身もせいぜい謹慎―それも短期間の処分程度と考えていたらしい。しかし、当時の政治の責任者にとっては、許されないことであり、萩での謹慎を命じられ、士籍を剥奪されてしまう。それでも松陰の才能は、藩内でもだれもが認めるところであり、当時の海防の必要性という時代背景もあって、まもなく、「諸国遊学」は認められる。
そして、松陰が江戸に出て佐久間象山らに学んでいたとき、「外国船は長崎へ」という幕府の通告を無視して、黒船が強引に浦賀に来航したのを目撃し、悲憤慷慨するとともに、西洋諸国との軍事力の圧倒的な差を、いやでも知らされる。その後、佐久間象山の勧めで海外遊学を計画する。初めは、長崎に来ていたロシア艦隊に乗船を頼むため長崎に行くが、すでに出港した後で、やむなく江戸に帰る。
翌年、ペリーの再来のおり、ついに密航を決行したのである。今から見れば、それは計画も、準備もかなり杜撰で、とても成功するとは思えないものである。熱い思いは確かにすばらしいが、普通は、世間知らずの無鉄砲といわれる行動である。
そして、投獄され、謹慎中に「松下村塾」(正式には叔父が創設したのを引き継いだ)で
多くの志士を育てるのだが、安政の大獄に連座し刑死する。
3)生涯学習から見た吉田松陰
ア、松下村塾
教育者として名高い吉田松陰であるが、なぜ、罪人が教える、しかも私塾に多くの若者が集まったのだろうか。松下村塾も、はじめから大勢の弟子を抱えていたわけではなかった。松陰自身も書いているが、罪人として江戸から送り返された当初は、周囲、特に大人たちの目は冷たいものだったようである。獄から出てからも、始めは、家人や松陰の学識・人柄を知る、親戚などわずかな者に教えていただけだったが、やがて友が友を呼ぶように、人づてで評判が広がり次々と若者たちが入門したようである。
その門人も、城下の下級武士が中心ではあったが、上士や農民、商人の子弟など幅広い。松陰は、入門希望者はだれでも差別なく、その者の事情に合わせて受講させた。住み込む者、通う者、それも頻繁に来る者もあれば、たまに顔を出すだけの者もいたようである。松陰は、江戸にいた頃も、獄中でもそうだが、相手を身分などでは見ず、学問を志す者には純粋に、熱意を込めて、真剣に講義した。多くの弟子を集めた第一の要因は、このような松陰の人柄であろう。当時は、今では想像もできないほど、人づての評判が重視されたと思われる。
しかし、社会的に見れば、当時の長州藩、あえて言えば日本の時代状況が、松陰を必要としていた。国を想う、政治を想う、民を想う若者たちならだれでも、政治が対応能力を失っているように思ったはずである。頻発する飢饉・一揆、攘夷か開国かなど、内政・外交ともに大きな変革のときを迎えていると感じている者にとって、深い学識だけでなく、諸国で多くの人物に会い、新しい海外事情の知識も持った、しかも、禁を破ってでも、外国事情を知るために海外渡航を企て実行しようとした松陰は、魅力あふれる人物だったに違いない。そして、自らは実行できない国事を、若者たちに託そうという情熱あふれる講義に接すれば、次々と意欲あふれる若者が集まるのは当然だったかもしれない。
イ) 松陰の人間形成
松陰という人間が育つ最も基本的な土台は、何より、父・叔父の訓育であったと思う。下級武士で豊かでない、というより貧しい経済状況で、一家は自給自足に近い生活だったようで、城勤めのないときは日中はほとんど一家そろって農作業をしなければならなかったが、その最中も四書五経などを父が声を出して誦読し、松陰兄弟がこれを復唱して学んだという。もちろん、家に帰ってもさまざまな家事を手伝いながら、学問を怠らなかった。
物心ついて以来の、父や、叔父特に玉木文之進の指導、そして、貧しいながら働き者でしかも優しい父母、言い争いや揉め事はまったくなかったという、幼児期の家庭環境が、松陰の人となりをつくる第一の要件だったのは間違いあるまい。この家庭環境が、素直で純粋で、常に前向きでしかも努力家の人柄を作ったと思われる。
純粋であると、とかく、視野の狭い独断専行の性格になりがちである。松陰も、幕府や藩の重役から見ればそのとおりで、罪を犯し、獄につながれた。一方、時代を変えようという側から見れば、松陰こそ、視野が広く、時代に先駆けた思想と行動の人になる。どちらにしても、この純粋さ、直情径行ともいえるのが松陰の本質であり、魅力であろう。
ウ)教育者としての松陰
純粋さだけでは、教育者にはなれない。松陰は、幼くして兵学師範の家の当主となり、十代で藩主に講義するなどし、また藩校「明倫館」で教えたのだが、この頃までは、秀才の誉れは高かったものの、教育者としての特別の評判はなかったようである。
それが、ペリーの軍艦に乗り込みを図った時、松陰に従った足軽の金子重之助は、ほんの2ヶ月前に知り合ったばかりなのに、松陰の考えに全面的に賛同して、強く同行を願ったというように、強く人をひきつける魅力を備えるようになっている。この間に、松陰は大きく成長したと思われる。
その5年間に、彼は九州はじめ諸国を遊学して、多くの人々に学び、世の中の実情や世界情勢を学んで、今、自分がやるべきことはなにかという、使命感を強く自覚したのではないだろうか。
はじめは単純な攘夷論者だった松陰が、師の佐久間象山に、相手と対等な国力をつける必要があり相手から学ぶ必要があると海外遊学を勧められ、より広い視野で、より高い使命感に目覚めた。それがおのずから言動に表れ、金子をひきつけたのであろう。そのうえ、密航が失敗して、獄に繋がれるという経験がさらに人柄を大きくしたと思われる。世のため、人のためと信じている自分の想いが、自分自身ではどうすることもできない、という境遇におかれたとき、何をなすべきか、どう身を処すべきか、それに真剣に立ち向かったとき、もうひとつ成長したのではないだろうか。
それを証明するのが、松陰の獄中のエピソードである。松陰が投獄されていたのは1年余りであるが、初め自分だけで勉強していたが、半年を過ぎた頃、囚人の中の一部の者と、お互いの得意分野(松陰の孟子などのほか俳諧、書道などを教える者がいた)を互いに教え合うという獄中勉強会を始め、やがて10人余の囚人ほとんどだけでなく獄吏までも加わるようになったという。松陰は、この経験を踏まえ、長い獄中暮らしで生きることに意欲をなくしていた者も、教育しだいで立派な人間に成長する、と兄に手紙を書いている。
そして、獄制改革―当時の押し込めておくだけの罰ではますます悪人になってしまう、長く獄につなぐのなら正しい教育をすれば社会に有用な者になる、と、近代的な矯正教育の考えを論文として提案している。
これは、およそ政治の目的は、全ての人々の心を奮いたたせ、やる気を起こさせることであり、法を無視した自暴自棄の状態に追い込むのは政治の失敗である、これは刑罰を与える場合も例外ではないとの、松陰の信念からきている。これをもう一歩進めれば、あらゆる人間は正しく導かれれば必ずそれなりに立派に社会に有用な人になる、ということであろう。そして、世の指導的立場の者の使命は、心を奮いたたせるように、正しく導くことであるということである。
身分や地位、経歴や現在の状況、それらを超えて全ての人に可能性を見る、この、基本的な人間観が、時代の要請ともあわせて、吉田松陰の生き方を後の世の人々にも感動を与えるものにしている根本的なものではないだろうか。
3、 事例(2)近藤富蔵
1) 近藤富蔵とは
先にも書いたが、「近藤富蔵」といってもほとんどの人はその名を聞いたこともないであろう。もちろん、高校の歴史の教科書でも普通は取り上げていない。私がこの名に出会ったのは、昭和30年代に出版された『風土記日本』の第4巻関東・中部篇で、伊豆諸島の流人を取り上げたなかである。そこで、幕末の島のあらゆることを驚異的な詳細さで記した『八丈実記』69巻という膨大な記録があり、その著者が罪人であり、しかも、近藤重蔵の長男だと知って興味を持った。『八丈実記』は後に学問的に貴重ということで復刻されている。
近藤重蔵といえば、日本史の教科書にも必ず出てくる有名人である。ここでも、「広辞苑(第5版)」から引用する。
こんどう−じゅうぞう(近藤重蔵)江戸後期の探検家・書誌学者。幕府先手組与力。
名は守重、号は正斎。幕命を受けて、五度、北蝦夷、千島列島を探査。のち書物奉行。著「右文故事」「外蕃通書」「蝦夷地全図」など。(1771-1829)
父の近藤重蔵は、当時幕府の重要な課題となった北辺防備のため、困難な探検を繰り返して大きな成果を挙げて、奉行にまで出世した。とくに、寛政10年(1798)択捉(えとろふ)島に「大日本恵土呂布」の標柱を立てたので有名である。富蔵はその長男であるが、その恵まれた家に育った富蔵がなぜ罪を犯し、重罪人として八丈島に流されたのであろうか。また、流人である富蔵が、後の世に学問的にきわめて重要とされる、記録を残すことができたのであろうか。
2) 近藤富蔵の生涯
富蔵が生まれた文化2年(1805)は、一方で「化政文化」といわれるように江戸文化が爛熟した頃であり、一方、30年ほど前からロシア船が盛んに北方の蝦夷、千島などに来航するのに対し、幕府も最上徳内、近藤重蔵、伊能忠敬、間宮林蔵などを派遣して、北の経営と、守りに力を入れていた頃で、まもなく幕末の動乱を迎える時代である。
しかし、一部の者を除いて大部分の人々は、太平の世を享受していた。しばしば飢饉に襲われた農村はともかく、都市、特に江戸は当時、世界でももっとも豊かといわれるほどに繁昌していた。大いに武名を上げた、近藤重蔵も極めて贅沢な生活ぶりだったようである。江戸の郊外―現在の渋谷だが当時は郊外だった―に、大規模な別荘を立て、庭には高さ15メートルもの富士山や滝を築いて江戸中の評判になったという。さらに、女性関係が極めて乱れており、最初の妻、梅子(旗本の娘)も、富蔵が生まれるとすぐに離縁し、以後次々と妻を代え愛人を作っている。
近藤重蔵の豪放で誇り高い性格は、北方探検という想像を超える困難な事業を成功させるのもとになったが、一方、それが傲慢不遜で人を人とも思わぬ暮らしをさせたともいえよう。それは、本人の幕府での地位を危うくさせたばかりか、家族にも大きな災難をもたらした。特に、長男の富蔵は、生まれてすぐに母と別れさせられ、だからこそ、祖父には過保護といってもいいほどにかわいがられた。
資料2、(13ページ)を見てもわかるように、富蔵は15歳(数え年)の将軍お目見えまでに、大身旗本の跡継ぎとしての文武両道の修行を続けているが、本人は、学問も武道もあまり好まなかったようである。
そうした中、父重蔵が大坂弓奉行に代えられる。いくら功績のあるものでも、贅沢禁止の政策を強く進めている幕府としては、重蔵の派手すぎる暮らしぶりは許して置けなかったわけで、江戸から遠ざける、明らかな左遷であった。大坂へは、富蔵も同行したが、父の行状は、改まるどころかかえってひどくなり、ご法度とされていた公家の娘との結婚をごまかしてあげてしまう。そして、4年後,免職されて江戸に呼び戻され、謹慎同然になってしまう。
一方、富蔵は大坂で町人の娘を見そめ、その母に将来の結婚を願う。父とは違って、純情一途であった。しかし、父は息子には厳しく、町人との結婚を許してくれない。富蔵は、散々迷ったあげく大坂の家を飛び出し、越後高田の浄土真宗の寺に、修行に入る。しかしそれも長続きせず、何度も挫折し、諸国を巡ったり江戸や大坂に帰ったりを繰り返したが、結局約4年間、事件を起こすまでこの寺での修行を続けながら迷い続ける。
文政9年(1826) 富蔵22歳の時、町人一家7人を斬殺するという事件を起こしてしまう。父が作った、渋谷の別荘を、大坂にいる間管理を任せていた、隣の塚越半之助という町人が勝手に使っていたが、重蔵が住むために返還を要求すると、落ち目の重蔵の足元を見たのか、塚越は、返還を拒否したばかりか、役人に賄賂を使い自分のものだと訴訟まで起こすが、結局、塚越の敗訴となり、そこに富蔵が住むことになる。しかし、塚越のさまざまな嫌がらせ、富蔵からみれば無礼な行いにも、傷心の重蔵はじっと耐えるばかり、その父の姿に、富蔵は苛立ちを募らせていたが、ついに忍耐が切れ、塚越一家の7人を従僕と二人で切り殺してしまう。
始め、興奮していたためか、富蔵は、相手が悪く理は自分にあると思っており、罰を受けてもせいぜい謹慎ぐらいと考えていたようであるが、しばらくして、冷静になると自分のした事の重大さ、一時の感情に任せて取り返しのつかないことをしてしまったと、気づいたようである。父とともに揚げ屋敷(武士用の牢屋)に入れられ、お家断絶、富蔵は八丈島へ流罪、父は近江大溝藩(今の滋賀県高島町)へお預けという厳しい判決を下される。
又、富蔵に従った従者2人も入牢させられ、2人は厳しい牢屋の環境に耐えられず獄死してしまう。
翌年、富蔵は八丈島に送られるが、父に似て体が大きく丈夫だった彼は、牢屋暮らしにも何とか耐えて島に着く。流人は島内では勝手しだいとなっているが、これは島に何の縁もない流人には、かえって厳しいといえる。自分で生きていかなければならないからである。富蔵も、島の村々を回って農作業などの手伝いなどで何とか暮らしていくほかなかったが、夢から覚めたように本来のやさしい穏やかな性格に戻った富蔵は、島の暮らしに適応し、翌年、島の有力町人の娘に見初められ結婚する。こうして、妻の実家の援助も得て、安定した生活が訪れる。何人もの子供もでき、富蔵にとって生まれて以来初めての、家族の団欒を経験する。
この落ち着いた暮らしを送りながら、富蔵は、幼い頃からあまり熱心でなかった勉学に励むようになる。江戸や大坂では恵まれた環境にもかかわらずやる気の起こらなかった勉学が、ようやく、厳しい条件の八丈島で取り組む気になったのである。父の影響からか、初めは、八丈島をはじめ伊豆諸島の地図作りから始め、彼が、仕事で訪れる村々の暮らしや自然、言い伝えなどありとあらゆることを、まじめな性格そのままに詳細に記録していく。
42歳の時、代官の江川太郎左衛門が八丈島を巡察に訪れた際には、「伊豆国附八丈島地図」を差し出して、大いに面目を施したという。又この頃、富蔵は彼が集めた島の記録を編集した『八丈実記』の執筆に取り掛かり、7,8年で一応書き上げたらしい。しかし、その後も世に知られることなく置かれている間に、何度も加筆、訂正をしている。やがて、彼の人柄からか、村人から「近藤じい(爺)」と呼ばれて親しまれるようになり、さらに、討幕運動にかかわった学者、鹿島則文が流人として流されてきてからは鹿島に師事して勉学に励むなどし、60代を迎えるころには、富蔵が詩会(和歌、漢詩、俳句などの勉強会)を主宰して、「近藤先生」と呼ばれるようになっていた。
やがて、明治となり、法律体系も全て変わったが、富蔵の赦免の沙汰はなかなか降りなかった。その間、明治11年(1878)、うわさを聞いた役人から『八丈実記』の浄書、上納を命じられ、大喜びした富蔵は69巻に清書して差し出した。
そして、明治13年(1880) ようやく赦免の沙汰が届き、実に54年ぶりに生まれ故郷の
江戸(すでに東京と改称されていた)に帰ることができた。そして、はるか昔の、父の死(50年前に大溝で病死)を知り、まず墓参りをした後、島から出られなかった時間を取り戻すように、1年余り西国各地を巡歴、というよりむしろ社寺巡礼をする。生まれ故郷であり、息子や娘もいる東京であったが、文明開化の都にはなじめなかったのか、八丈島に帰り、5年後の明治20年(1887) 6月1日、83年の生涯を、静かに閉じた。
なお、『八丈実記』は、富蔵が死んだ年の秋に東京府に買い上げられ、都政資料館に保存されていたが、広く世に知られるのは、はるか後の昭和30年代に復刻されてからである。
3) 近藤富蔵とは何者か
富蔵の生涯は大きく二つに分けられる。すなわち、大きすぎる父のもとで厳しく育てられた青少年時代の20年余りと、罪を犯し、流人となってからの八丈島での60年である。青少年時代は、有名な武士である父のもとで経済的には恵まれた生活であったが、精神的にはかなり悪い状況にあったといえよう。大坂から越後の寺へとさまようように迷う姿は、少年期までの父の檻から出られなかった富蔵が、なんとか抜け出そうとしていたのであり、さらに、父の行状から自分の母は実は下女だったのではと疑ったり、自分も父のように立派になりたいと思ったり、いやああはなりたくないなどと、心が乱れに乱れていたのではないだろうか。何より、母の暖かさをほとんど知らなかった幼年期が、純粋だが、自信のないいかにも弱い性格をつくるのに、もっとも大きく影響していたと思われる。
そして、父に気に入られようという無意識の気持から、父だけでなく町人にさえ馬鹿にされたと感じた時、自己を否定されたことに対して、爆発的に暴力に走ってしまったのではないか。しかし、結果は惨めな逆のものであり、自分自身も、悔いばかりが残ったであろう。この、悔悟の情は、生涯消えることはなかったようで、後半生の生き方を基本的に規定したように思われる。
その富像の乱れた心を癒したのは、八丈島の人々の素朴で暖かい人情だった。富蔵自身、純粋で、細やかな情の持ち主であり、だからこそ悩みも深かったのであろう。近藤重蔵という時代の最先端の父から受け入れられず、取り残されていた、息子、富蔵が、流人の島という社会から取り残された八丈島で、互いに、共鳴し合い、幸せな後半生を送ることができ、その上『八丈実記』という歴史に残る貴重な文化遺産を生み出したといえるのではないだろうか。
近藤富蔵の青年時代を見ると、私はなぜか、現代の若者たちを思い出してしまう。物質的には、極めて恵まれてはいるが、それだけいっそう、精神的には悩み、迷い、自分を見つけられないでいる。そして、何をしたらよいのかわからないままに、突発的に、激情にかられて、自分でも驚くような、取り返しのつかないことをしてしまう。それが、直感的にわかったものは、むしろ、なるべく何もしないように、外から見れば、怠惰な日々を送る。こんな姿が、二重写しになるのは、思い過ごしであろうか。
4、 おわりに
吉田松陰と近藤富蔵、まったく異なる人生を送った二人だが、共通するのは、二人ともその性格が、純粋で素直であり、また、どんなことにも真剣に真面目に、真正面から取り組み全力でぶつかったこと、さらに、さまざまな事、特に、人間に対して強い興味を持ち、好奇心あふれる人だったことであろう。その妥協をしない真剣な生き方と熱情,そして芯にある温かな人柄が、周りの多くの人々にも伝わり、お互いに豊かな人間関係が結ばれる基となったのではないだろうか。そして、そのような二人の性格形成は、乳幼児期の体験が基礎であり、それが、後の人生に大きな影響を及ぼしている、ということであろう。
幕末動乱という変革の時代が、松陰の生き方を光り輝くものにし、一方、八丈島という豊かな自然と素朴な人情が、富蔵を立ち直らせたのは間違いない。しかし、それに応えた二人の人格を作ったのは、周囲の厳しいが、しかし決して突き放さない接し方だったのではないだろうか。その意味でも二人の人生は、教育や育児、自己確立などで、混乱を極めている、現代にも大いに参考になると思われる。
資料 1、
吉田松陰 年譜(海原徹著「吉田松陰」ミネルヴァ日本評伝選2003,の年表より作成)
和暦 西暦 齢 関係事項 一般事項
天保元 1830 1 8月4日長門国萩松本村に誕生。
杉百合之助の次男、幼名虎之助。母は児玉
氏、滝。兄のほか2人の叔父同居。 藩内各地に一揆
5 1834 5 叔父吉田大助(山鹿流兵学師範)の仮養子 この頃全国で飢饉
となる。 水野忠邦老中に
6 1835 6 叔父大助没、享年29歳。家督相続、大次郎と
改称。 大塩平八郎の乱
9 1838 9 家学教授見習いとして明倫館に出仕。 (1837)
10 1839 10 藩主に「武教全書」講義。叔父玉木文之進、自 蛮社の獄(1839)
宅謹慎。
12 1841 12 馬術、剣術、槍術を学ぶ。 アヘン戦争(1840-
13 1842 13 叔父文之進、家学後見人となり、自宅に松下 42)
村塾創める。兄梅太郎とこの塾に学ぶ。
弘化元 1844 15 藩主親試で特命で「孫子」を講義。 萩藩沿岸に砲台築
く
この間、長沼流兵学、西洋陣法、荻野流砲術な
どを学ぶ
嘉永元 1848 19 家学後見人を全て解かれ、独立の師範となる。
2 1849 20 藩命で沿岸防備の視察 幕府「打払令」復活の可否を問い、海防論沸騰
3 1850 21 8−12月九州遊歴。
4 1851 22 3月参勤交代に従い江戸へ、6月宮部鼎蔵と
相模・安房の沿岸防備を踏査、12月藩邸を
5 1852 23 出奔、翌年にかけ水戸、会津、秋田、青森など
巡り、5月藩邸に自首、帰国・謹慎。松陰と号
す。士籍削除。12月父諸国遊学願い出。
6 1853 24 正月諸国遊学へ、近畿から5月江戸へ、 6月ペリー浦賀
黒船来航を聞き浦賀へ。9−11月露艦乗り 来航
込みのため長崎へ、乗れずに江戸に帰る。
安政元 1854 25 3月米艦乗込みを策し金子重之助と下田へ、失敗、 正月米艦再来
自首。国元蟄居で帰国、野山獄へ。父、兄謹慎。 日米和親条約
2 1855 26 正月金子獄中で病没。4月ごろ獄中の人と勉学開始。
12月出獄、生家で蟄居。
3 1856 27 近親者などの授業開始
4 1857 28 自宅内に塾舎を建て熟成と共同生活。
5 1858 29 家学教授の公許。 4月井伊直弼大老
11月塾生と血盟、老中襲撃を策す。 9月安政の大獄始
12月野山再獄。 まる
6 1859 30 5月江戸へ護送、10月罪状申渡し。
10月27日斬刑。
資料2、
近藤富蔵 年譜(小川武著「近藤富蔵―八丈島流人物語」(1973,成美堂)の年表より作成)
和暦 西暦 齢 関係事項 一般事項
文化2 1805 1 5月3日江戸に誕生。父は蝦夷地探検で有
名な旗本近藤重蔵。母は楳子。
7 1810 7 絵を習い、俳句を読む。
10 1813 9 手習いを始める。
13 1816 12 四書の素読を習う。
14 1817 13 五経を学ぶ。
文政 2 1819 15 将軍にお目見え。
3 1820 16 父重蔵、大坂弓奉行に、富蔵も大阪へ。
5 1822 18 越後高田,仏光寺で浄土真宗を学ぶ。
(約4年滞在)
7 1824 20 父,大坂の任解け江戸に帰る。
8 1825 21 塚越半之助、徒党を組み父に無礼を働く。 異国船打払い令
9 1826 22 5月17日、塚越一家7人を切捨てる。
6月3日、富蔵、重蔵ともに揚げ座敷へ。
10月、重蔵は大溝藩へお預け、家名断絶、
富蔵は八丈島へ流罪の判決。
10 1827 23 4月、八丈島へ。
11 1828 24 沖山栄右衛門の娘(逸いつ)と結婚。 シーボルト事件
12 1829 25 父重蔵,大溝で病没。長女操(みさお)誕生。
天保元―5 諸国飢饉、御蔭参り流行
天保 6 1835 31 長男守一誕生。『官問破邪』書き上げる。
11
1840 36 次女千代野誕生。
弘化 3 1846 42 『伊豆国附八丈島地図』作成、上納。長男病死。
嘉永 3 1850 46 『伊豆国海島之図』書き上げる。
6 1853 49 ペリー来航
7 1854 50 『青ヶ島大略記』完成。
安政 6 1859 55 安政の大獄
慶応 3 1867 63 詩会の主宰者になり、八丈八景を撰す。 大政奉還
明治元 1868 64
2 1869 65 鹿島則文『八丈実記序』を撰する。 版籍奉還
3 1870 66 長女操東京へ。
5 1872 68 三根村川の平夕学館の副師範に。
9 1876 72 『八丈実記』を岡和田寛利に貸す。
11 1878 74 『八丈実記』の浄書、上納を命じられる。
13 1880 76 2月27日赦免。10月八丈島出港、東京へ。
10月29日正式に赦免申し渡される。
12月から西国巡歴へ。17日滋賀県大溝勝野村
の父の墓参り。
14 1881 77 近江巡歴。7月以降紀州、大和、近江の社寺参
詣の旅。東海道を経て11月帰京。病気に。
15 1882 78 夏、八丈島へ帰る。観音堂の堂守に。
18 1885 81 『白玉文集』編集。
20 1887 83 6月1日死去。
参考文献
・ 海原徹著『吉田松陰』ミネルヴァ日本評伝選、ミネルヴァ書房, 2003。
・ 野口武彦著『江戸の兵学思想』 中央公論社, 1991。
・ 水谷三公著『江戸は夢か』ちくまライブラリー79, 筑摩書房、1992。
・
小川武著『近藤富蔵―八丈島流人物語』成美堂出版、1973。
・ 宮本常一ほか編『風土記日本 第4巻 関東・中部篇』平凡社、1960。
・ 近藤富蔵ほか著『八丈実記第1巻〜8巻』緑地社、1964〜1976。