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生涯学習と識字(リテラシー)
大串兎紀夫

1、識字(リテラシー)ヘの社会的関心
わが国では、「識字」が、社会的にあまり大きな問題として認識されていないし、また、教育の世界でも通常は大きく取り上げられることがない。例えば、時事用語を扱う「現代用語の基礎知識」「イミダス」「知恵蔵」にはいずれも識字の項目がなく、その中の外来語の解説で「リテラシー=読み書き能力」と解説しているのみである。また「広辞苑」でも『識字=文字の読み書きができること。「運動」』とあるだけである。さらに、「生涯学習事典」(東京書籍)では、識字、識字運動、識字教育の言葉は出てくるが、それは諸外国、とくに開発途上国の教育課題の一つとして取り上げられているだけで、わが国の問題としては扱っていない。
わが国で「識字」といえば、「広辞苑」にもあるように、識字運動にかぎってみるイメージがある。しがもそれは、同和教育や在日韓国・朝鮮人への教育の一部としての識字学級にかぎって、という限定的にしかとらえていないのが現状といえる。
しかし、世界的に見れば識字は、教育の問題としてばかりでなく、社会のあらゆる面での極めて重要な課題として、先進国、開発途上国を問わず真剣に取り組んでいる問題である。国連は1990年を「国際識字年(International Literacy Year−以下ILY)」として世界的な取組みを呼びかけたが、その中で、この間題は『20世紀最後の課題だ』とまでいっている。
この識字に関する、世界と日本の社会的な関心・取組みの違いはどこからくるのであろうか。もちろん、世界的な課題だからといって、わが国として取り組む必要がなければ、それ程真剣にならなくてもよいと言えるし、むしろ問題が少ないことを喜んでいいのかもしれない。しかし、果たして間題がないから無関心で済ましているのだろうか。私にはそうは思えない。これまでも、もっと真剣に取り組むべきだったし、生涯学習社会、情報化社会の時代を迎えて、ますます、より真剣に取り組んでいく必要があると考えている。以下、生涯学習の中での識字の重要性について、コミュニケーションとの関係も含めて考えていきたい。

2、国際的な識字(リテラシー)の動き
前述のように、国連のUNESCOは、1990年を「国際識字年(ILY)」として世界に問題提起したが、これは、何もその時に突然提起されたのではない。有名なP.ラングランの「生涯教育」の提唱は、1965年にUNESCOの世界成人教育会議で行われたが、その中でも具体的な活動内容として「識字」があげられている。国連・UNESCOの生涯教育にかんする理論化と実践活動は、その後、1972年の「フォール報告(Learning to Be)」や、1975年の「識字教育に関する教育相会議」などを経て、1985年の第4回世界成人教育会議の「学習権宣言」で集約されるが、それらを受けて、1990年のILYが提唱されたのである。
UNESCOの「学習権宣言」によると、
『学習権とは、読み書きの権利であり、
問い続け、深く考える権利であり、
想像し、創造する権利であり、
自分自身の世界を読みとり、歴史をつづる権利であり、
あらゆる教育の手だてを得る権利であり、
個人的・集団的力量を発達させる権利である。』とし、
『学習権は、人間の生存にとって不可欠の手段』であり『学習権なくして、人間的発達はなく、農業や工業の躍進も地域の健康の増進もなく』また『生活水準の向上もない』ゆえに『基本的人権の一つ』であるとしている(国民教育研究所訳)。
学習権の第一に「読み書き」=「識字」をあげているが、それは、単に文字が読め書ければよいのではなく、人間が人間として人間らしく生きるための、「生涯学習」を進めるための、基礎的能力としてとらえられている。このため、単なる識字(リテラシー)にたいし「機能的識字」(functional literacy)という概念を用いている。
UNESCOの「成人教育用語集」によれば、『機能的識字とは、個人が属している集団や共同社会を効果的に機能させるための活動に積極的にかかわることができるような、読み・書き・計算能力であり、自分自身の発達と共同社会の発展のために使い続けられるような能力』としている。つまり、単に読み書きができるだけでなく、その能力を用いて社会とのかかわりを持つことで、個人として自立的に生きていくとともに、社会的にも一人前に、市民・国民として社会に働きかけながら生きていくための能力として、位置づけているのである。
このため、ILYにあたっては、
・世界中の非識字者(開発途上国を中心に10億人いるといわれる母国語の読み書きができない人)を無くすための出発とする、という目標
とともに
・開発途上国だけでなく先進国にもかかわる問題である、として、
・21世紀に向かって、あらゆる国が非識字者に対してだけでなく、社会全体の課題として取り組むよう、呼びかけている。
つまり、学習権宣言の考え方からすれば、全ての成人が初歩の母国語の読み書きや計算能力を持つようになるのはもちろん、さらに市民としての活動ができる能力(機能的識字=コミュニケーション能力ともいえる)を身につけることが重要であり、それは、先進国といえどもまだまだであるということであろう。
例えば、アメリカ合衆国では、通常、識字率は99%といわれているが、それは調査上の見せかけの数字であり、単に「自分の名前が書ける」だけの人も識字者としているからで、実際には機能的非識字者は数十%に達するといわれる。それは、移民や不法入国者の多くが英語を十分には話せず、まして読み書きはできないし、さらに調査の時に対象から漏れてしまうためであるといわれる。このような事は、多少事情は違っても、英、仏、独などの国々に共通ずる(“Lifelong Education for Adults An lnternational Handbook’による)。
こうみてくると、前にいったように、日本も「識字」の問題に無関係でないことが分かるであろう。近年わが国も、日本語のできない外国人が急激に増えている。労働許可のある日系のプラジル人やペルー人は十数万人いるが、その多くは日本語の読み書きはもちろん話すことも不十分である。また、いわゆる不法入国、不法労働の外国人もかなりの数に上っているが,そのほとんどは日本語の読み書きはできないと思われる。
これらは、「日本語教育」や「国際理解教育」として、一部の特別な人々対象の教育活動として扱われている。しかし、これらは「基礎的」識字教育ではあるが、「機能的」識字教育としては不十分である。

3、現代のリテラシー
リテラシーは語源からいっても、元来は文字の読み書き能力を意味するが、「学習権宣言」の例でも分かるように、国際的にはより広い意味でとらえるようになっており、それに対応するのが「機能的識字」である。これにたいし、わが国では「識字」という訳語のせいか、いまだに文字の基礎的読み・書き能力だけに限定してしまう傾向が強い。
文字は、これまで文化の創造・伝承の中心的な役割を果たしてきたため、読み書き能力が極めて重視されてきた。近代以前は、ごく一部の工リートのものだった文字を、国民全体のものにしようというのが、近代化の一つの姿ともいえる。このため、読み書き能力を育てる「教育」が、近代化の大きな柱といわれるのである。世界の諸国がリテラシーを、生涯教育・成人教育の重要なテーマにしているのも、社会の近代化の基礎としての認識があるためであろう。
近代化の初期には、なるべく多くの人々の読み書きの初歩=基礎的リテラシーを育てるのが目標であったが、より民主的な社会の形成者としての自立した市民となるためには、機能的リテラシーの育成が必須の課題となってきたのである。欧米の国々は、近代化を時間をかけて進めてきたためもあってか、リテラシーも成人教育の中心テーマとして常に重視されてきた。これに対して、わが国は、江戸時代にすでに寺子屋などにより庶民の識字率がかなり高かったこともあって、学校教育の普及もスムーズに進み、半世紀も経たないうちに欧米諸国以上の90%を超す識字率を達成した。このため、成人教育・社会教育での基礎的リテラシ一教育は余り重視されなかった、というより軽視されてきたのである。これが、初めに述べた識字に対する社会的無関心の原因といえる。
しかし、UNESCOの提唱をまつまでもなく、自立した個人の育成という生涯学習の時代にあっては、基礎的リテラシーを身に付けるだけでは不十分であり、「機能的リテラシー」をしっかりと育てなけれぱならない。学校教育も社会教育も、生涯学習の視点から、基本的人権としての学習権という観点も含めて、見直しが必要である。
ところで、もともと文字は、言語の一つである文字言語に用いられるメディア(媒体)である。そういう意味では、文字を読み書きする能力(リテラシー)は、ことばを話し聞く能力や動作や表情を理解し表現する能力(ノンバーバルコミュニケーション能力)、絵を描き鑑賞する能力、音楽を演奏し鑑賞する能力など多くのコミュニケーション能力の一つである。
現代のコミュニケーションは、文字などの従来のメディアだけでなく、マス・メディアや電子メディア(コンピュータ、ビデオ、ファクスなど)の発達により、極めて多様なメディアによって行われるようになった。現代の社会生活は、これらの多様なメディア無くしては、一日として送れない。日常生活、職業生活はもちろん教育・学習、娯楽などあらゆる場で多様なメディアが介在している。現代のコミュニケーションはこれらのメディアを使い、活用しなければ十分には行えない。
このような状況に対応して、最近「メディア・リテラシー」の重要性が強く言われるようになった。欧米諸国では、l0年以上前から学校教育や生涯教育で、メディア・リテラシー教育が行われている。その多くは、独立した教科を設けるだけでなく、国語、社会、理科、美術、音楽、家庭などの教科でもメディア教育の観点を取り入れたカリキュラムや学習内容に改訂されているという。
現代はまた、国際化、グローバル化の時代でもある。「ひと、もの、こと」のあらゆる面で、世界中の人々、文化とつながりを持たなければならないようになっている。現代はまた、自立した市民として社会生活を送るには、異文化どうしのコミュニケーションが欠かせない。当然、「異文化リテラシー」が求められ、その育成も重要となる。
現代のリテラシーとしては、基本的な文字の読み書き能力、文字どおり「識字」だけでなく、自立した市民として社会生活を送るための「機能的リテラシー」、言葉の面でいえばがなり高度な文章を理解し表現でき、議論や交渉ができる能力、そして、メディア・リテラシーや異文化リテラシーなど多様な能力が必要であろう。
これらの多様なリテラシーを、家庭教育、学校教育、社会教育のあらゆる場で総合的にとらえ、生涯を通じて育てていく、これが「生涯学習体系」といえるのではないだろうか。

<参考文献>
・日本生涯教育学会編「生涯学習事典」1990、東京書籍。
・社会教育推進全国協議会編「社会教育・生涯学習ハンドプック」1989
エイデル研究所。
・文部省内生涯学習・社会教育行政研究会編「生涯学習・社会教育行政必携(平成2年版)」1990,第一法規出版。
・C.J.Titmus編“Lifelong Education for Adults An lnternational Handbook’1985,PERGAM0N PRESS.
・カナダ・オンタリオ州教育省編、FTC(市民のテレビの会)訳「メディア・リテラシー〜マスメディアを読み解く」1992,リベルタ出版。