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生涯学習時代の「家庭」と「地域」

大串兎紀夫

1、はじめに

 近年、学校教育に様々な問題が起こり、また青少年にかかわる問題が社会問題としてマスコミをにぎわすようになって、学校教育にとって、家庭教育や地域(社会)教育の見直し、家庭や地域の「教育力」の再興が急務といわれている。また、生涯学習・生涯教育の世界でも家庭・社会(地域)・学校の関係をどう考え、位置付けたらよいのか盛んに議論されている。
 そもそも、教育と家庭、地域(社会)、学校との関係はどうなっているのか、これまでの歴史的経緯を踏まえて、現在の状況を見直し、生涯学習時代といわれる現在どのように考え、今後どのような方向に進んでいけばよいのか、今後の、教育問題を考えるにあたって、是非、考えておかなければならないことであると思う。この小論は、このような問題意識にたった筆者なりの試論、提案である。

2、教育・学習の場

 教育は、学習という視点で見ると、個人が行うものであり、個人に対して行われるのが基本であるが、教育を行い、行われる場としては、通常「家庭」「社会(地域)」「学校」の3つがあげられ、とくにその中心は学校であるというのが常識のようになっている。
 しかし、学校が教育の主要な場として位置付けられたのは、近代になって(日本では明治時代以降の)学校教育が制度として整えられてからのことである。それ以前は、教育は通常、家庭(家族)とそれが直接属する社会(地域)で行われていた。もちろん、家庭、属する社会といっても、その職業、身分によって異なっており、例えば江戸時代、人口の大部分だった農漁民(百姓)は生活の大部分を共同体としての地域(集落)と一体となって送っており、教育・学習も家庭およびそれと直結した地域で、生産・生活と直結した内容のものが行われていた。一方、武士は、幕藩体制に組み込まれており、家と藩(地域というより組織といえる)で支配階級に相応しい内容の教育・学習が行なわれていた。
 もちろん、江戸時代でも庶民(農工商)の教育機関としていわゆる寺子屋が、都市だけでなく全国に現在の小学校の数に匹敵するほど多数あった。また、武士では藩校、僧侶では寺院、また武道の道場や儒学などの私塾など、現在の学校といってもよい機関・施設は多数存在し、多くの人々が学んでいた。しかし、これらはいずれも職業、身分、地域などが個別に自分たちのために作ったもので、私的、自主的であり、全国民対象として制度化されたものではなかった。
 いずれにしても、学校が国全体の制度として整えられる以前は、教育・学習はそれぞれの人やその親の生活の場=日常生活の場と社会生活の場で行なわれていた。
 わが国の場合、明治維新後、近代国家の創成を目指す中で、「国民」をつくる=人々に社会(国)に対して共通の意識を持たせる必要があった。つまり、日本が外部に対して閉じられた体制の時代、いわゆる鎖国体制では、「士農工商」のように人々を分けておいたほうが支配に都合がよかったが、国を開いて諸外国とわたりあうためには、国民として共通の意識を持たせる必要があった。そのために、国民全員に共通する教育をする専門的な仕組みとして「学校」が必要になったのである。
 国家の近代化のため学校中心の教育制度を取り入れたのは、開発途上のわが国として当然だったといえるが、100年以上が経ち、曲がりなりにも先進国になった現在、教育の在り様も変わらなければならないし、教育の場も変わっていかなければならなくなったのである。

3、近代における家庭と地域

 もともと、人の生きる空間は、長い間「個人」と「家庭」はほとんど一体であり、その周りに「地域」が、さらにその周りにより広い「社会」があるという同心円状に広がっていた。そして、社会の基本はあくまでも生活共同体としての地域であり、個人はもちろん、家庭さえも共同体の構成要素にすぎなかった。(図1−1)

 近代社会は、「国家」の位置が社会にとっても個人にとっても極めて大きくなった時代である。一方、近代は個人(自我)が尊重され、確立された時代でもある。また、産業化の中で生活の場としての地域の意味が薄くなり、代わって職場(会社)が重要な位置を占めるようになった。そして、教育・学習の場としても、専門的な「学校」が制度として確立されたことにより、地域に依存する割合が低下した。(図1−2)
 さらに、わが国では昭和30年代以降、経済成長により高度産業・消費社会化が進むなかで、社会全体の変貌が起こり、地域の消滅、家庭の変質が進み、また国家も個人にとってかつてのような意味を持たなくなっている。そして、個人でも大人は会社(職業でなく)にのみ所属する、いわゆるサラリーマン(会社人間)になってゆき、子供の生きる場は教育の場の学校のしめる割合が極めて大きくなったといえるのではないだろうか。(図1−3)
 この経緯を、個人に視点をおいた人間関係として要約すると、かつて個人・家庭・地域・社会(国)の直列的な縦の社会関係の中で家や地域の構成要素として位置づけられていたのが、近代化によって個人と国家が重視されるようになったが、遅れて近代化したわが国では、まず国家が重視されその構成要素としては個人よりも家が重視されていた。それが、第二次大戦後になって個人が重視されるようになり、また、国家の代わりのように会社が重視されるようになった。その結果、それまでの反動の意味もあって家庭と地域がおろそかになったということであろう。
 こうした状況にあって、近年、わが国の教育に関してさまざまな問題点が社会全体の問題として指摘され、緊急に取り組まなければならなくなっている。特に、自立できない、人間関係がうまく作れずに悩む人々の姿である。これらの問題は、教育の問題ではあっても、単に学校の改革・改善だけでは解決できず、社会全体で取り組まなければならない問題である。こうして、教育の中での家庭と地域の役割の再認識の必要性が各方面から叫ばれているのである。
 それでは、(図1−3)の形をどのようにしていけばよいのだろうか。ただ単に(図1−1)や(図1−2)のような昔に返せばよいというものではないし、また、返せるものでもない。自立した「個人」を基本にしながら、共に生きる人間関係が作れる、新しい社会の在り様を作り上げていくことが必要であろう。

4、日本人の人間関係

 新しい家庭、地域のための社会の在り様を考えるために、日本人の人間関係の特徴を見てみよう。
 河合隼雄によれば、日本社会の心理的特徴は『母性原理が優位』とし、現代の人間関係の混乱について次のように分析している。

『……現在の日本において、他人とのつき合いが難しく感じられるのは、その基礎となる倫理観に混乱があるためであると思われる。既に論じたように、日本人の人間関係は母性原理優位型である。このため、他人との関係においても、家族モデルが心に描かれ、母親のもとに一体となっている関係が理想とされてきた。これに対して、西洋文化との接触によって、日本人が少しずつ、個の確立−−父性原理に基づく生き方−−に価値をおこうとすると、日本的人間関係は非常にうとましいものと感じられる。そうなると、人々はむしろ、できるだけ他人と関係を持ちたくないと考える。(中略)
 しかし、本当のところわれわれが個の確立を願うなら、それぞれに個として確立した人がどのように付き合うか、という課題に取り組まなければならない。ところが、それまでには至らないので、極端に自己中心的で孤立した生き方をすることになる。』(「家族関係を考える」講談社現代新書 590、P.160)

 引用が長くなったが、要するに、現代の日本人は、心の基礎の部分で分裂し、アイデンティティを確立できないということであろう。
 個人個人が真に自立できるようにするためには、様々な方策が考えられるであろうが、やはり最も基本になるのは、生活の場の基礎であり、人間関係の基礎である「家庭」とそれを取り巻く「地域」について考える必要があろう。

5、新しい「家庭」「地域」の創造を

 図1−1のように、人の生活の大部分、すなわち生涯が生活共同体である「地域」の中に限定されていた時代と異なり、現代では、個人の人間関係は、家庭や地域だけでなく、社会の様々な場で結ばれる。その多様な人間関係は、緊密になったり、疎遠になったり、時と場合で様々に変化していく。特に、変化の激しい現代は、人間関係も常に変化する場合が多く、安定した関係を結ぶことは難しくなっている。しかも、関係を結ぶきっかけが何等かの利害・損得の場合がしばしばあり、信頼感に基づいた人間関係を結ぶことはたやすい事ではない。
 こうしたことからも、利害得失からの関係でなく、簡単には変わらない安定した人間関係としての家族関係、それが存在する家庭が、安定した自我の確立のために必要である。成人(大人)でさえもそうなのだから、まして、こどもの場合、人間関係の基本・基礎を形成する場として家庭の重要性は、ますます増しているのではないだろうか。
 ここで新しい家庭・地域のイメージを描いてみよう。
 その「家庭」は、家族の一人一人がだれかのための道具としてではなく、全人的に互いを認めあい、接する。各人が長所も短所も含めて接するわけだから、時には衝突や争いもあるだろうが、それも含めて認めあえる関係が、全人的な人間関係であろう。それは、夫妻(または父母)などの大人だけでなく、乳幼児から青年までのこどもも含めての家族全員についての人間関係である。
 その家庭のメンバーは、それぞれ独自(または共通)の人間関係を外部の個人や組織・集団と持っている。その中の一つとして、特にこれから重視されなければならないのが、多くの家庭が同じくする生活環境としての「地域」である。この地域は、かつての生活共同体としての地域とは異なるが、しかし、生活のための環境としては、そこに居住している人々にとって、極めて重要な場である。直接生活が関連しているばかりでなく、教育・学習の場として、また子供や大人、高齢者の憩いの場として、さらには景観も含めての環境なども、現代人の生活には欠かすことのできない条件である。地域のメンバーには、居住者だけでなく、働く、学ぶ、憩うなどのために地域とかかわる人々も含まれる。
 これを、河合隼雄の言葉を借りていえば、日本人の本来持っている母性原理を基礎として認めながらも、それと整合性を持たせる形で、個人の自立のための父性原理もバランスよく取り入れる。そうした人間関係にそって、家庭や地域をつくっていくということであろう。

 以上の、個人、家庭、地域の関係を模式的に表わしてみる。

 自立した個人は、家庭で家族と全人的に付き合うとともに、それぞれ家庭外の個人やグループ・組織との人間関係を持つ。職場をはじめ学校、団体などにも家族としてでなく、個人として参加する。
 これに対して、地域との関係は個人としてもあるが、多くは家族ぐるみ、家庭として関係を持つべきであろう。地域の問題の多くはそこで生活する家族全員が関係するからである。例えば、ゴミ問題でも主婦だけがかかわれば良い問題ではなく、子供を含めて家族全員の問題である。遊び場などのこどもの生活空間なども同様である。
 この様な、家庭、地域では、あえて教育といわなくても、人間的接触の中から、自然に「しつけ」がなされるであろうし、様々な行事や活動の中から、基礎的な教育が行われるのではないだろうか。
 家庭や地域が、こども達の成長・発達をきちんと受け止めることができれば、学校はその基礎の上にたって自らの役割を果たせるようになるし、果たさなければならなくなる。
 最後に、ノーベル賞学者 ティンバーゲンの言葉を引いて、小論の結びとしたい。

 『……子どもの精神の全体的な成長に対しては不十分な注意しか払われず、一方、産業の中での将来の適所に子どもをはめるという意味での「社会へ向けての準備」に対してはあまりにも注意が向けられすぎてきたと思う』(N&E.ティンバーゲン著、田口恒夫訳「自閉症・治癒への道−文明社会への動物行動学的アプローチ」1987,新書館 p,156)