大 学 に お け る 知 識 の 編 成


岡田 龍樹


0.はじめに

 大学人にとって、「大学、冬の時代」「大学の危機」ということばを、他人事のように聞き、あるいは語っていれた時期ははや過ぎ去って、いまや切実に実感させられるときになった。今時、各大学はそれぞれ改革を試みている。入試制度改革、学部学科の改組・リストラ、カリキュラム改定等々である。それらの改革においては、まさに「生き残り」をかけて、大学人が、自分自身の足下の問題として、考え、対処せざるを得ない状況になっているのである。
 大学の改革を余儀なくさせている決定的な要因は、18歳人口の減少と社会・産業構造の変化である。18歳人口の減少は、とりわけ私立大学においては、受験料収入の減少という形で、直接的に大学の財政的基盤に関わっている。一方で、社会人入学や留学生の受け入れなどパイの拡大を促進する要因ともなっているが、いずれにせよ、入学(希望)者を確保するために改革が必要なのである。一方、社会・産業構造の変化は、大学卒業生の進路(就職)と密接に関連している。学生の就職状況と入学(希望)者数が無関係でないとするならば、社会や産業の要請は、大学改革において無視できない。
 すなわち、こんにち大学は、ふたつの顧客(入学希望者と社会・産業)の変化と、彼らからの要求に対応しながら、大学教育の独自性を確保し、改革を進めなければならないのである。
 その改革は、結局のところ大学が4年間で提供できる教育内容(知識)の編成に関わっている。


1.大学「知識」の有効性

 これからの大学教育の内容を考えていく上で、興味深い論攷がある。矢野眞和(1998)論「学歴社会と教育市場」である。
 矢野は、大学の未来像として「現在の偏差値体制は崩壊し、学歴社会はますます社会の中心的柱になる」というシナリオを提示し、大学で学ぶ知識(学校知識)はますます大きな期待が寄せられるようになるとする。その根拠は何か。
 矢野は、まず今日の教育改革を教育市場の視点から考える必要を訴える。

 教育システムを揺るがしている環境の変化は、消費者である生徒/学生の動向にある。このあたりまえの事実をふまえておかないといけない。そこで、教育の需要者と供給者の関係という図式から考えておきたい。この図式から見ると、教育システムは二つの需給関係の狭間にある。いうまでもなく、入口と出口である。入口は、進学者のそれを受け入れる定員枠(供給量)の関係である。出口は卒業者の数だが、彼らは労働の供給側になる。この卒業者をどのようにどれだけ受け入れるかは労働需要との関係によって決まる。つまり、この二つの市場から教育システムが形成されている。(p.108)

 入口(入学)と出口(卒業)という二つの教育市場からみると、いま大学教育は、これまでになかった変化に遭遇していることになるという。すなわち、18歳人口の急速な減少による入口での「超過供給」と、労働力の失業と流動化による出口での「超過供給」である。この超過供給が、大学で学ぶ知識に変化をもたらす。
 そこで、大学で学んだ知識と出口の職業との関係が問われる。大学と社会とを結びつける鍵が「知識」にあると考えるからである。
 これまで学校知識の有効性については、機能の次元で有効(+)と無効(−)、認識の次元で有効だと思っている(+)、いない(−)に分け、このふたつの軸をクロスしたところに、4つの見方があるとする(図)。

(1)知識が有効に機能し、かつ有効だと思っている「実質説」:専門学校は、この実質説を学校の長所として掲げている。
(2)知識が機能・認識ともに無効だとする「空洞説」:普通の学校の知識は空洞化しており役立たないものだという考え方。
(3)知識が役立っていないのに、役立っていると誤認して(させて)いる「陰謀説」:面白くない勉強を我慢させる方便に使われる。
(4)知識が実際には有効であるにもかかわらず、役立っていないと思い込んでいるとする「隠蔽説」:陰謀説の対極にあって、何らかの理由で、知識の有効性が問われないでい る。
 矢野は、この中で、最後の隠蔽説を支持する。

 知識の有効性が隠蔽されているとするこの説をとる人はあまり見られないようだ。しかし、私はこの隠蔽説が、日本の教育の現状を最も適切に説明しているように思う。そのように考えるのは、入口と出口の日本の特質が、この説の根拠を説明する理由として適合的だからである。(p.119)

 知識の有効性を吟味せずにすまされてきた理由のひとつが、入口における超過需要であった。つまり、「大学に来ない人を進学させるように説得する必要はなかった。知識の有効性や進学のメリットを説明する必要もなかった」ということである。第二の理由として、出口における超過需要である。「出口の超過需要は知識の成果にかかわらず就職を可能にさせてきた。失業も深刻ではないから、なぜ失業するかを研究する必要もなかった」からである。そして、もうひとつ、第三の理由として、日本型の雇用システムをあげる。わが国の年齢別所得の大きな特徴は、生涯にわたる所得には学歴の差があるにもかかわらず、20歳代の所得において、ほとんど学歴差がないことである。企業内教育の成果であると説明されるが、しかし、若年層の力が、所得が示すように平等とは考えられない。それこそが長期雇用を原則するこれまでの日本型の雇用システムであり、それが、学校知識の有効性を隠蔽してきたのだと。

 企業内教育の実態は、外にいる私たちにはよくわからないところが多い。しかし、その教育が学校の知識と無関係だとは決して考えられない。学校の知識が企業内教育で有効に活かされている傍証は少なくない。しかし、その種の研究が皆無だから、確たる証拠にはなっていない。多分に神秘化された企業内教育は、学校知識の有効性を十分に隠蔽している。(p.121)

 これらの理由により、ほんとうは、学校知識は出口の就職に大いに役立っているのに、その有効性が問われることなく「ブラックボックス」として放置されてきた。
 しかし、大学の入口と出口における「超過需要」から「超過供給」への変化は、知識の有効性を具体的に示さなけれればならなくする。すなわち、「入学がやさしい」大学では、まず偏差値の序列化は無意味になる。そして基礎学力の低下が問題となり、入試政策においては多様化ではなく、「画一的」な「基礎」学力(=学校知識)の必要性が顕在化する。また、「入学がやさしい」うえに「卒業もやさしい」大学が存続できるとは考えられず、大学で学んだ力がためされる時代となり、大学教育の中身が具体的に問われることになる、という。
 さらに、従来の経済および雇用システムが大きく変わり、学校の知識を隠蔽してきた理由を失わせる。まず、これからの産業構造はますます知識集約的になる。「知識の生産・消費・流通が主役になる時代になれば、知識と失業(あるいは雇用機会)の関係はますます重要になる」。次に、労働力の流動化がすすみ、中高年だけをリストラの対象にしたり実力主義にするのは、筋が通らなくなり、若年層へ実力主義が浸透することによって、学校の知識と職場の知識の関係が顕在化する。

 学校に期待される知識の形成がますます大きくなるだろう。知識社会を支える中心は、学校であり、大学である。それに競合する新しい市場も生成するだろう。学校には大きなチャンスが開かれている。知識社会は、学歴社会のさらなる展開なのである そして、教育の内部システムをあらわにする圧力が多くなるだろう。(p.126)

 われわれ大学人は、それぞれの大学が準備し提供する知識の有効性を積極的にアピールしなければならない。あるいはアピールできる知識をカリキュラムとして編成していく必要があるというわけである。そうした改革が、いま、求められているのである。


2.教養教育の重要性

 それでは、大学が提供する知識の具体的中身はどのようなものになるのだろうか。このことにかかわって、学士課程教育(4年制大学の教育)における教養教育の重要性は、教育学界での共通認識になっているといってよいだろう。この問題に実践的に取り組んできた中心的な論者のひとりが寺ア昌男である。本節では「大学改革と教養教育−再創造と保障への視点−」(1999b)をから、大学教育における新しい教養教育のあり方の一案を見てみることにする。
 寺アによると、戦後の大学基準協会による大学基準(1947年7月)で、新制大学はすべて一般教育の課程を必置すべきものという原則が定められ、その課程は専門教育課程の前提に位置づけられ、「積み上げ方式」と呼ばれるカリキュラム構造ができあがった。また、一方では、昇格新設された大学も旧制大学の「学部」モデルを追い、この過程のもとで、大学人も社会も、新制大学を、基本的には「専門人」養成の場と考えてきた。これらのことから、戦後改革によって生まれた新制大学においては、その教育目標は「教養ある専門人の育成」として共有されてきたという。
 しかし、いまこの教育目標は「専門性に立つ新しい教養人の育成」に転換すべきだという。その理由は、第1に、専門学の内容が高度化し、教授すべき知識量も増え、大学教育の年限内では教えきることができなくなったこと。第2に、急激に進んだ大学の大衆化による学力低下が問題化したこと。第3に、「四文字学部」といわれる境界領域・複数領域を標榜する学部が急増し、「専門人」の存立基盤自体が「液状化」し始めていること。第4に、大学教育に対する社会的要求に変化が生じていることである。その象徴的な意味を持つものとして、寺崎は1995年の日経連の意見書『新時代に挑戦する大学教育あり方と企業の対応』をあげる。
 (意見書は大学への)要求の冒頭に大学卒業生の「人材像」を押し出している点が特徴的である。
 「人間性豊かな構想力のある人材」「独創性、創造性のある人材」「問題発見・解決能力を有する人材」「グローバリゼーションに対応できる人材」「リーダーシップを有する人材」という5項目の「人材像」の説明とそのために必要な大学のあり方についての提言がまず出てくる。その中には、もはや1950年代の「専門学力」要求を見いだすことはできない。(p.10)

 こうした理由から、「教養ある専門人の育成」から「専門性に立つ新しい教養人の育成」へと転換する必要を寺アは説く。前段の「専門性に立つ」の解釈は後におくとして、大学教育で提供されるべき知識に「教養」的領域が重要視されるのである。
 具体的には、「環境」「人権」「生命」「宇宙」に加えて「情報」を含めると、「新しい教養人」が持つべき知的領域をほぼ覆うことができるとする。

 学生たちはこれらの学習を通じて、世界観を形成し、自らの「生き方」への哲学的・倫理的な問いに認識的な手続きを通して迫ることができる。「環境」「生命」の領域などはその典型と言うことができる。(p.11)

 また、寺アは、教養の新しい次元として、「知識の獲得過程の様式」への留意を促している。それを「身体で学ぶ」「活動を通じて知の活性化をはかる」と表現している。

 「身体」は、もとより抽象的な意味のそれも含む。例えば「技能の習熟主体」としての「身体」も含み、また「言語の発生主体」も含む。さらに「活動」も、「人間関係構築の活動」から「事物への接触活動」なども含んでよい。要するに、人文学的な知識の観照的受容、あるいはテキストの意味的読解、といった伝統的手法による知の獲得だけを「教養」と考えることをやめよう、ということである。(p.11)

 これらは、寺アもいうように、一例に過ぎない。それぞれの大学がその設立の理念や学部構成や学生の特徴、さらには立地条件などにもとづいて、独自に構成しカリキュラムとして編成していく必要がある。


3.専門教育の改革 − 内容証明の必要性

 1991年の大学設置基準の「大綱化」によって、教養教育(教養部)の解体がすすんだが、その過程で必然的に大学教育における教養教育の位置づけが議論され、その結果、教養教育の重要性についての再認識が進められている。これが教育学界における言説に反映していると考えられる。
 それでは「積み上げ方式」のもう一方、専門教育は大学教育においてどのように考えられるのか。上で「専門性に立つ新しい教養人の養成」という寺アの主張を引用したが、ここで「専門性に立つ」という表現の意図を解釈しておく必要があろう。
 学部段階の専門教育の問題は、わが国の大学の歴史的な性格に由来している。すなわち、

 明治期の大学建設時代に、日本では、学部をリベラル・アーツの教育段階とし専門教育は大学院にゆだねる、というアメリカ大学の制度を取り入れなかった。他方、中等教育段階で高度の普通教育を行い大学では自律した自由な専門学習を許すというイギリス・ドイツ型の大学教育制度をも取り入れなかった。その結果、一般教育・専門教育の双方を学部段階がひとしなみに抱え込み、しかも専門教育の水準を保つために詰め込み型のカリキュラムを設けなければならないという問題が生まれている。その上、学部・学科の制度的割拠性ははきわめて強い。(寺ア、1999a、 p.66)

 こうした歴史的背景をもつわが国の大学においては、「学部段階の教育は、専門性と内容の全体にわたるのではなく、その最も基礎的・基本的な部分」に限定する覚悟が必要であり、さらに、専門教育課程は「学際化」と「総合化」が重要な課題になる(同、pp.67-68)とする。
 「専門性に立つ」とは、「学際応用型の専門教育を学ぶことによって旧来の専門科目についても基礎的な洞察が得られる」(同、p.68)ようにするということであり、専門教育が教養教育の上位にあるというのではなく、ある意味で、専門教育の教養教育化といった志向性を内包しているといえる。また、教養教育の方からいうならば、「「専門に対抗して一般教育が大事だ」という位置づけを廃して教養教育のアイディアはアンダーグラデュエート教育の全部に拡がるべきものだ」(同、p.122)ということになる。
 結局、4年というスパンで有効な学校知識を学生に提供するためには、教養教育と専門教育が有機的に連携する形で、カリキュラムが編成される必要があるということになろうか。
 その際、寺崎は、教養教育と専門教育をそれぞれ主として担当する教員双方の意識改革の重要性を指摘している。

 立教大学で言いますと、全学共通カリキュラム運営センターは、それに属する先生こそ少数に限られているものの、機能としてはカリキュラムの責任を待つ組織です。アメリカ風に言うとデパートメント(department)と言ってもいいかもしれない。そうなると、共通カリキュラムや総合教育に協力するということは、ファカルティとしては法学部に属しているが、デパートメントの面では全カリにも属し、全学共通のカリキュラムに責任を持つ役割を引き受けるということになります。教員はこの二重性を覚悟しなければならない。つまり帰属意識の構造を二重にするという難しい課題に一人一人の大学教員が挑むということが、今後カリキュラム改革が成功していく不可欠の前提となるものです。(中略)同じようなことを、やはり全カリとの間でしなくてはいけないのです、と学部の先生方に言っているところです。(同、pp.123-124)


 さて、最後に、現実的な問題に触れておこう。教育市場という視点からすると、今日の大学が学部・学科単位で学生を募集している以上、ファカルティの専門教育プログラムが魅力あるものとして編成され、提示されなければならない。18歳人口の減少という大きな波をかぶっている「入口」の問題である。
 近年、はっきりとした職業目的を持って大学にやってくる学生「プロフェッショナル・スチューデント」(専門学生)が減少し、「自分さがし」のために大学にやってくる学生「ゼネラル・スチューデント」(一般学生)が増加し、専門性のあまりはっきりしない社会科学系や人文科学系の領域が一般学生の受け皿となっているという指摘(天野、pp.98-99)もある。しかし、コースが提供する知識とその獲得方法についての説明責任(アカウンタビリティー)は、入口に看板を掲げているそれぞれの学部・学科に求められるであろうし、学習効果という点から考えても、教育プロセスを事前に提示することは、一般学生に対しても専門学性に対しても必要なことだ。重要なのは、曖昧なままにして、何にでも対応できそうに見せかけるのではなく、明確な教育課程を提示して、入学後のコース選択にある程度自由度を設けることであろう。
 天野がいうように、こうした問題には一般論はほとんど成り立たない(p.103)。それぞれの大学、学部、学科、あるいは専攻、コースが自分の置かれた状況に応じてつくらなければならないものであろう。そのことをふまえた上で、カリキュラム編成の視点を簡単に提示しておきたい。
 まず、どのような知識(あるいは能力)が当該コースで獲得できるのかを明確にすることである。その知識・能力が必要とされる理由と社会的背景はカリキュラムを構成する授業として位置づけられるだろう。次に、その知識・能力がどのような方法で教授されるかを明確にすることである。それぞれの授業科目が、どの知識・能力を形成するために設置されて、学年段階に応じて配列されているのか、明示する必要があろう。そして、その知識・能力の社会的有効性と汎用性が説明されるべきであろう。
 大学の知識は、決して虚学ではなく、社会的有効性を持つ。カリキュラムの編成の際には、そのことを大学利用者(入学希望者、学生)に明確に説明する努力が求められている。



参考文献

天野郁夫、1997、『大学に教育革命を』東信堂。
寺ア昌男、1999a、『大学教育の創造−歴史・システム・カリキュラム−』東信堂。
寺ア昌男、1999b、「大学改革と教養教育−再創造と保障への視点−」、日本教育学会編『教育学研究』vol.66、no.4。
矢野眞和、1998、「学歴社会と教育市場」、佐伯胖ほか編集『いま教育を問う』(岩波講座1 現代の教育:危機と改革)岩波書店。