天理大学 生涯教育専攻 課題図書
橋爪 大三郎 『「心」はあるのか ― シリーズ・人間学〈1〉』
ちくま新書() / 2003年 / 190頁 / \680 / ISBN:4480059911
●はしづめ・だいさぶろう●
1948年神奈川県生まれ。東京大学大学院社会学研究科博士課程修了。執筆活動を経て1989年より東京工業大学に勤務。現在東京工業大学大学院社会理工学研究科価値システム専攻教授。専攻は社会学。
著書:『言語ゲームと社会理論』(勁草書房)『はじめての構造主義』(講談社現代新書)、『選択・責任・連帯の教育改革(完全版)』(共編著、勁草書房)『幸福のつくりかた』(ポット出版)『ヴォーゲル、日本とアジアを語る』(共著、平凡社新書)『世界がわかる宗教社会学入門』(筑摩書房)『政治の教室』(PHP新書)ほか。
1 人は「心」をどう論じてきたか(「心」はどう論じられてきたか;なぜ「心」があると思うのか;言葉はなぜ通じるのか ほか)
2 「心」を解く鍵―言語ゲーム(言語ゲームとは何か;言語ゲームは価値相対主義か;言語ゲームと「心」の働き ほか)
3 「心」の問題を解き明かす(愛と性を考える;言葉と倫理;美の感動と言葉 ほか)
学生の感想文(22)
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私も、自分の心をわかりますかと聞かれて、すぐにこれですとは答えられません。さらに、自分のこころをどのくらいのものか、何を考えているかまったく理解できないときがあります。人間関係や、恋愛などで悩んだときでもまったく自分の心を読み取ることはできないです。心とは本当に難しいものだと思います。
他人の心をわかってあげる。とよく言いますがこれは一番難しいことだと思います。こころは、そのときの気分、環境によって左右されてしまうもので、すぐころころ変わってしまうとおもいます。だから、この著者が言うように心はものとして考えないほうがいいと思います。こんなに自由気ままなものはないでしょう。
私はすぐ悩みこんでしまうタイプなんですが、これからはなんでこんなに悩んでしまうのか、まず理由から追求していかないといけないと思いました。この本は、誰もが思いもしないこころを取り上げていて、すごく興味をひかれるおもしろい本でした。
(1回 M.O.)
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「心」はあるのか?という問いに対し、人に
よっていろいろな解釈の仕方をすると思う。
ちなみに心の定義とは何だろうか?私はそれ
は五官を通じて得る感覚ではないかと思う。
それは、人はたえず何かしらの刺激を得て、
何かしらの意識を抱き、蓄積され、その人オ
リジナルの心という物が形成されるのである。
しかしそれは内面的な物で目に見えないから
こそ、人はその存在に疑問を抱くのだろう。
「心」の表出される場所は言葉や行為です。
と本文にあったが、それだけでは相手の全て
の心を知ることは不可能かもしれない。それ
でも人は心という物を表現し続け、人間関係
を形成し続ける。しかし、ここで重要なのは
、心は確かに存在するが、全ての心を理解で
きるのは他ならぬ自分自身であり、相手の心
を理解することも重要だが、自分自身の心を
大事に育み貫き、しかし時には大胆にそれを
”曲げる”ようなことも長い人生において必
要なことがあることを忘れてはならない。
(2回 T.N.)
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最初この本を見た瞬間に、ものすごくとっつきにくい印象があった。「心」はあるのか。普通に考えれば、そんな事当たり前やんかとなるし、なんともおかしな題名だと思ったからだ。実際読んでみても、ややごちゃごちゃした内容で分かりにくい感じだった。しかし、よく読み返してみると、なんと単純な事かと思った。
一般的に考えて「心」は何処にあるのか、この疑問に関して筆者はなんと的を得ているのか、そう思った。実際一人一人がよく考えれば十分に分かる事ではないかと思った。
この本は、そういう部分を表現しきれているところですごいなと思いました。
(1回 T.K.)
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今まで「心」というものを深く考えたことは無かった。「心」は当然あるべきものとして、疑わなかった。しかし本書を読み、改めて考えさせられることが多かった。「心」と密接に関わっていると思っていた心理学は「心」の研究ではなかったこと。また、哲学者や宗教が「心」をどのように位置づけているかなど。
私は天理教を信仰している。おさしづ(天理教三原点の一つ)の中に、
「人間というは、身の内神のかしもの、かりもの、心一つ我が理」
というのがある。体は神様からのかしてもらっているものであり、「心」だけが自分のものという教えである。このことからも私は当然「心」はあるものとおもっている。本書を読み終えた後も変わりはない。しかし、「心」について、改めて考えさせてくれた本書に感謝である。
(3回 T.M.)
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心があるのか、心とは何かそんな風に聞かれても何とは答えられないものだと思う。それに心があるのかないのかと考えたこともなかったし疑問に思ったこともないから、不思議な感じがする。本文に心とは何かというと、他者が存在して、わたしと同じように精神活動を行っているという確信なのです。他者がいるから自分にも気持ちができ、心がある。確かに他者がいなかったら心はもたないのかもしれなし、また、言葉があって、あるいは行動があって、その結果「心」というものがあるのではないか。とあり、そんな風に考えたら確かにそうも感じる。心とは何かとはとか心があるのか、は特に問題にして考える必要があるのかと感じた。
(2回 S.O.)
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本書を読んで感じたことは、「心」があるとは、「心」がそれとして理解でき、共感できる場合だと思うということだ。そして理解いたり共感したりする権利があるのは、もう一つの「心」である。結局、このプロ説には出発点がない。互いが互いを「心」として認め合うネットワークのなかで、「心」が実在しているようにみえるというだけではないのだろうか。むしろ、そうした言葉や行為のやりとりがまず実在している、と考えたほうがすっきりすると思う。「心」と「心」は互いに通じ合わないし、つながることはないと思う。目に見えて自分と他者をつなぐのは、行為であり言葉だと思う。つまりことばのキャッチボール、行為と行為のやりとりになかで「心」があると見えると思う。
「心」そのものとしては存在せず、そういう問いを生み出した社会的背景を理解していく時に、別の問いのなかに回収して答えられるしかないのではないかと思う。
(3回 K.U.)
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心は誰しもに必ずあると思っていたので、「心」はあるのかを読んで衝撃を受けた。何もしない状態では自分の中の心の存在はわかるけど、他人の心の存在はわからない。自分と他人との言葉と言葉、行為と行為のやり取りのなかで生まれる「心」の相互理解が「心」であるという作者の考えには納得がいった。しかし、これがわかっても私はこの先人間関係の心の問題で悩むことがたくさんあると思う。心は言葉では説明しきれないもっと奥深いものだと思うからだ。心の問題で悩んでいる人が多いというがそれはそれでいいことだと思う。「自分のことをわかってもらえない」「他人が何を考えているのかわらない」などの悩みがあるからこそそこから人間は考え、成長できるのではないか。心が簡単にわかってしまうような仕組みだったらとてもつまらない世界で、成長も全くないと思う。心は人間にとってとても大事なことなので言葉で無理矢理説明しようとせず、個人個人の問題でおいておくのが一番いいと思う。
(1回 M.M.)
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人々が「心」関心を持つのは日常の表面的な友達付き合いや職場の人間関係を離れて、もっと本当の意味で他者との関係をを持ちたいと望み、自分の内面をつかみたいと考えているからである。日常が生きづらかったり、自分が本当の自分でないように感じられたりとしてそれは、「心」の問題なのなのか。それは「心」の問題でなく、政治や経済、社会、哲学、宗教など幅広い関心の中で考えたほうがよい問題だ。無理に「心」の問題という枠に押し込めてしまうと解決から遠くなる。日本人は「心」を手がかりにものを考えている。「心」が問題なら「心」だけで狭い解決にしかならない。世界の人々には認めらない。若い人々は社会に出るまでの長い間を学校で過ごすので学校外のことをあまり知らない。この、学校が日本特有の文化のかたまりだ。生徒、学生は運営を任されてないため責任も分担されていない。そのような状態で社会にでるので「心」が育たない。ますます「心」の問題が流行することになる。
「心」の問題は自分の心だけだと思っていた。しかし、実際は社会や宗教的にも大いに関係があるのものだとわかった。社会や宗教が「心」に大きく関わりを持つことで解決に早く繋がることになることがわかった。これからは社会的な考え、宗教的な考えなどを多く取り入れて行き「心」だけで解決をしないようにしたいと思う。
(1回 K.I.)
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最近、本当に心について多く取り上げられている。本屋では心についての本がたくさんあるし、心を癒す音楽やアロマなども出ている。私も興味を持ち、本を読んだこともあるし、心を元気にするにはどうすればよいか、また心が癒されたいと感じるときもある。しかし、心とは何か、本当にあるのか、ということは考えたこともなかった。確かに心という言葉がなければ心はないのである。心と言葉や行為が深い関係にあることを知り、人との信頼関係を築くには、良い人間関係を築くには、言葉や行為のやりとりが大切だということに気づいた。心があるのかという疑問には筆者のいうとおり出発点がなく、一般に心の問題といわれるものを解決していくことの難しさを実感した。
(1回 A.N.)
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とにかく私には難しすぎる本でした。(じゃあ課題にするなよ!とおもうのですが…)私は、人間には、「心」がある。と思っているクチなので、この著者の書き方がとても遠まわしでいじらしく感じました。ですが、やはり心理というのは結構ひかれるものがあり、最も興味を持ったものは、「美の感動と言葉」という章で、本文には「繰り返したい」ということが感動の基本であると書いてあり、かなり納得しました。私も音楽をしているので、「また見たい」「もう一度聞きたい!!」と思うことが感動につながるのだなぁ。と思わせてもらいました。少し驚いた文もあり、「演劇をはじめて観た警察官が、悪役のあまりの悪さぶりに腹を立て、自分の持っていた銃で役者を殺してしまった」というところです。どちらにしても気の毒な話ですが、それだけ役者は役に入り込み、警察官が撃ってしまうほどのものだったのだろうな。とおもいました。それ以外はやっぱり難しかったです。
(1回 M.M.)
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『「心」はあるのか』、いきなり何を言い出すねんあるわ!と言い返したくなるが、著者いわく「心」はないらしい。普段から「心」の存在を信じている(普通に思っている)私には少し強烈であった。「心」は言葉のなかで作られているものと言う考え方はなかなか受け入れがたい。感情は言わなければそれは存在しなかったことになる。言わなければ、感情は自分でもあやふやになっていく。だから、口に出して言うことが大事である。すると口に出す以上、そんなはずはない、それは嘘だ、なんていうことは誰にも言えなくなる。本当か嘘かという区別はありえない。口に出してそう言う行為が、感情、「心」をうみ出していることになるらしい。しかし、自分だけが認識している「心」があってもいいとも思う。口に出さなければ忘れてしまうような感情であるならば、忘れてしまってもいいと思うし、別に感情をビシッと区別をしなくてもいいと思う。あやふやな感情が人生に面白みを出しているのではないだろうかと私は思う。
(2回 H.U.)
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「心」はあるのか。このように問われると漠然としすぎていてわからなくなる。この『「心」はあるのか』の著者は心とは「他者が存在して、自分と同じように精神活動を行なっているという確信」であると言っている。ということは他者が存在しなければ心も存在しないということになる。では一人で本を読んでいる時などはどうなのか?その人は本を読んで何かを感じ取っているはずだ。それでも心がないとでも言うのだろうか?理解し難いものである。
人の心は相手の言動や表情などによってある程度読み取ることができる。しかし人は自分の心を隠すことがある。嫌なことでも笑って引き受けるなど、そのパターンは様々であるが、そういうのもアリなんじゃないかと思う。そういうことが人間関係をうまくやっていくコツなのではないか。いやらしいと思われるかもしれないが心の内を全て表面化させていたのでは収拾がつかなくなる。
心について深く考えすぎないほうがいいのかもしれないと思う。そんなに簡単に理解できるものではないのだから。
(1回 T.A.)
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授業で習ったことと共通していることが多いなと思いながら、いっきに読んでしまった。特に「逆スペクトル」や「チューリング・テスト」の話は、大変興味深かった。私たちは、自分が人間であるということを知っていても、その理由を「だって…だから」というかたちで、明確に根拠づけることはできない。しかし、「人間」は確かに存在している。それは、この世界で起こっていることは、人間であることの認め合いが成立しているからだ。「心」とはもやもやしていて、つかみどころがない。英語では、「マインドmind」と言って頭を指すらしい。また「ハートheart」や「スピリットspirit」という語も「心」やその他の訳語がついているが、「心」とは日本ローカルな問題らしい。私が心の問題について考えるのは、日常の人間関係においてが多い。しかしそれら全てを「心」の問題として考えるのではなく、目に見えて自己と他者をつなぐのは、行為であり言葉であると思った。
(2回 M.H.)
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「心」はあるのかなんて、今まで真剣に考えたこともなかった。しかし「心」はどんな人にでもあるものだと思う。形として表されるものではないが、言葉や行為として故意にではなく自然に出てくるものが本当の「心」なのではないだろうか。その「心」とは人それぞれ皆違うもので、誰にもそれを否定する権利などない。しかし、お互いに傷つけたり傷つけられたり「自分の気持ちが理解してもらえない」「相手が何を考えているのかわからない」と悩みを抱えている人がたくさんいる。結果、自殺や殺人事件に至るケースも少なくない。「心」の問題とは一番身近にありながら、とても難しい問題であると思う。「心」とは目に見えない分、実在する言葉や行為という「形」にしたときのコミニュケーションの中に初めて「本当の心」が見えてくるのではないだろうか。
(1回 A.N.)
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この本を読んで、私も「心」の存在について考えてみた。本文に「意識」や「認識」のなかに「心」はあるのではないかと述べられていたが、自分自身の経験から考えると、「心」は「態度」にあると考える。たとえば、武道や茶道、華道などにあるように自ら鍛えるヒトは、どことなく近寄りづらい感じとともに、何かを周りに主張しているように感じられる。言葉の中にもそれは表れていると思う。たとえば「あの人は肝がすわっている」とか「拳に魂を込める」というように、言葉で伝えるよりはより曖昧かもしれないが、伝わることは多々あると思う。また、言葉では表現できないことで「態度」なら表現できることも前と同じである。
そうすると、「心」まで到達するには、なんらかの行程を踏まなければならないのである。僕は「言葉」→「意識」→「態度」=「心」だと考える。
(2回 Y.T.)
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心とは自分の頭で考えるいるものとは違い、実際に発言や行動、つまりは日常の行いが心のあらわれであるとおもう。分かりやすくようと、学校のいじめである。みんないじめている子に対しては逆らえず、いじめられている子を可哀想と思うが、そのいじめに対して正義感を持っていじめに立ち向かう気がない。頭では助けなくてはならないと分かっていても、自分が次のいじめの対象になってしまうからたすけようとしない。本当にいじめられている子に対して心から助けてあげたいという気持ちを持てば、頭で考えず助けようとするであろう。この様なことが心というものであると考える。
心とは自分の考えを言動、行動を形に表しすことであり、頭と同じようにどの様なジャンルのものが入っているかわからない。もろい箇所もあれば、堅い場所もある。また、目に見える箇所もあり、見えない箇所もある。それらが合わさり心というものが出来ていくのであると思う。
(3回 I.T.)
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この本を読んで私も初めは心の問題とはなにかなと考えた時、たとえば相手が何を考えているのかわからないだとか、自分の気持ちが理解してもらえないとか、自分自身の整理がつかないだとかそういう悩みのことを「心」の問題というのだと思っていました。精神的な事を分析してこういう問題はたいがい解決するしこれは心理学であって「心」の問題ではないのだなと思いました。この本では心理学では心を扱っていない、と書かれていることからよけいにそう感じるのかもしれませんが内観法はやめて行動主義の心理学になったことからもわかるように私自身も心理学っていうのは「心」は扱っていないというのも言い過ぎかもしれませんが、あんまりあつかいきれていないのかなと思いました。「心」というのは内側にあるものだからかなりの底知れぬものをもっていてなおかつ切り離しては考えられないと思います。切り離してしまうと心が心ではなくなると思いました。
(3回 S.T.)
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心理学は、「心を扱っていないと」いうところに疑問を感じた。行動主義は「心」を研究しないで行動を研究するものです。といわれても、行動の背後には「心」があると思うので「心」を扱っていると思う。行動と「心」は、切り離せないものだと私は思う。「心」が何かをしたいと思うことで、それが行動につながるはずだ。むしろ、「心」の背後に行動があるかもしれないとも思う。
しかし、逆にそれは、私が何の根拠もなく、勝手に「心」は存在するものだと思っていたからかもしれない。今まで、「心」がないなどと思ったことはないから仕方ないかもしれないが、「心」は存在するのかと問われたときにとても衝撃を受けた。もし、「心」がないとすれば著者のいう行動主義のこともわかる。そもそも、「心」がないとすれば心理学というものも存在しないと思った。
(3回 T.K.)
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何の疑いもなく『ある』と信じていた「心」の存在を改めて考えさせられた。
「心」はどこにあるのか、「心」ここにあらずってどういう状態なのか、「心」が元気・病むとは・・・などと考えることはよくあった。でも、「心」って何かと聞かれて答えられる自信はない。だから、本文の「心」というのは・・・という定義を読む度に、成る程と思うばかりだった。
『「心」の表出される場所は言葉や行為です。』(本文)
「心」で思っていることを表現する手段はこの2つしかないと思う。自然と表れてくるもの、伝えようとして表すものはあると思うが、自分の「心」は自分の言葉・行為でしか他人に伝えられない。
「心」の問題を抱えた人は、どこかでその「心」を表している。その問題を解決できるのは、理解しようという「心」をもつ人の存在。
そう考えると、人は「心」で生きているのかなとふと思った。
(3回 A.O.)
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「心」はあるのか。わたしは何の疑問もなく、「心」というものは人間一人一人に存在するものだと思っていた。だからこの本の問いに驚いた。
私の中で「心」とは、自分という物を構成している中心にあるものだと、ただ漠然と思っていた。自分にあるものだから、当然他の人にもあると考えてきた。
この本を読み、「心」とは何なのか考え直してみると、「心」という存在はとても不思議なものだと感じた。
自分自身の中に存在していることはわかる。しかし、他の人のなかに存在しているかどうかということは、言葉や行為に表れないとわからない。あると断言できないものである。
でも私は、あるかどうかわからない他の人の「心」が気になる。自分はどう思われているのか、他の人はどう考えているのか。無意識のうちに他の人の「心」もあるのだと考えるのだ。
「心」が気になるのは、私だけでは決してないと思う。みんな、「心」が気になるから、自分の言葉や行為に気を遣うのだとおもう。
「心」について、今までこんな風に考えることなんてなかったので、いい経験になった。
(3回 K.O.)
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わたしがこの本を読んで驚いたのは、「心」は日本ローカルな問題である、ということです。愛情について書かれているところでは、日本人の「心」の考え方はアメリカ人のように割り切った、行動主義的なものではない。お互いになんとなく分かり合う、ふだんは空気のようだが、やはりお互いに理解しあっているとか、そうしたものが理想とされている、とあります。わたしはこのことに同感で、そういう日本人らしさや、日本で生まれた文化、芸術が好きです。はじめは日本以外でも同じように、他国でも心が問題になっていると思っていたけれど、「心」は日本人独特のものの考え方だと気づきました。中国人が「気」を手がかりに、インド人が「輪廻」を手がかりにものを考えるように、わたしたちも「心」を手がかりに、人間関係や自分の内面を見ているんだなと思いました。
(2回 J.H.)
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心はあるのか。今までこのように考えたことは一度もなかった。心は当然あるものと認識して、生きてきたからである。
正直、心はあるのかなんて考えて、本まで書いたこの作者は変わり者だ。しかし心について考えるのは、この人だけではない。それは心というものが魅力的であり、社会において大きなウェイトを占めるからではないかと思う。
確かに、作者の言う通り、言葉や行為と切り離すと心は心でなくなってしまうかもしれない。しかし、それだけではないだろう。それだけだと言い切ってしまえないだろう。言葉や行為と切り離しても、心でなくならない心もあると思う。
心がないなんて、考えただけで悲しくなる。心は幽霊や神様みたいなものだと、私は考える。抽象的で目に見えないから、作者のように疑問を抱く人が現れるのだ。心があってほしいと願うのは、私だけだろうか・・・。
(2回 Y.Y.)
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