天理大学 生涯教育専攻 課題図書
橋本 治 『「わからない」という方法』
集英社新書(0085) / 2001年 / 252頁 / \700 / ISBN:408720085X
●はしもと・おさむ●
1948年東京生まれ。作家。東京大学文学部国文科卒。在学中の68年に描いた駒場祭ポスターでイラストレーターとして注目される。77年『桃尻娘』で講談社小説現代新人賞佳作受賞。以降、小説・評論・戯曲・古典の現代語訳・エッセイ・芝居の演出等で活躍。
著作:『桃尻語訳枕草子』『江戸にフランス革命を!』『'89』『窯変源氏物語』『ひらがな日本美術史』『二十世紀』など。『宗教なんかこわくない!』で第9回新潮学芸賞受賞。
まえがき
第1章 「わからない」は根性である
1 「わからない」という恥
2 「わからない」を「方法」にする方法
3 企画書社会のウソと本当
4 「へん」の使い方
第2章 「わからない」という方法
1 私はなぜ「セーターの本」を書いたのか
2 「わかる」とはいかなることか
3 ハイテクとは錯覚である
4 「わかる」と「生きる」
第3章 なんにも知らないばかはこんなことをする
1 基本を知らない困った作家
2 天を行く方法 ―「エコール・ド・パリ」をドラマにする
3 地を這う方法 ― 桃尻語訳枕草子
第4章 知性する身体
1 この役に立たない本のあとがき
2 知性する身体
学生の感想文(10)
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この論文はとても考えさせられるものだった。何故かというと私自身大学に答えを求めて入った部分があるからだ。でもそれは、仕方ないことだと思っている。なぜなら何も分からないこともなく漠然と大学に入ったからだ。「分からない」ことがあればそれを求めてそれなりに答えの見つかりそうな大学に進んでいたと思うのだが、逆に私は、何をしたいのか「わからない」という状況で大学に入った。これは、高校時代にバイト先のマスターに『何もしたいことがないのなら大学に行けば見つかるのじゃないかな』と言われたからである。私も「わからない」を方法として使っているというふうな感じだが、それが違っていたのが分かった。私は方法として大学に入ることを進められそれをそのまま使ってしまった。現在社会ではこれがもう正解のない道なのかもしれない。新たに自分で方法を見つけていかなければならないと思った。
(2回 T.K.)
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題名を見て「は?」と思ったけど、読んでみると文章の言い表し方がおもしろくて、最初の方は理解できました。でも、だんだん同じことが繰り返し書かれていて「もういいって・・・」と思うこともありました。この人はへんなことを考える人だなあとおもっていたら、本文の中で自分でもへんだと言い切っていて、ちょっとおもしろかったです。
結局は「わからない」ことは「わからない」として、無理に理解した気になるなということだったのでしょうか。
この本の著者は「わからない」ことを否定せずに、むしろ、だからこそ興味をもてるのだと言っていた気がします。それは、「わからない」とイライラしてしまう私にとって、眼からうろこのようでした。
(2回 Y.A.)
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まず感じたことは、やはり日本語とは難しいものだということです。「わからないけどやる」と「やりたくないけどやる」が同義だったり、一文字で逆になったり古文から見ても人によって感じ方が違ったり、とても置くが深く簡単には語りつくせないと思いました。また一般的に「へん」とされることも「へんじゃない」との区別はただ「多数決」で人それぞれの感覚であり、また物事を考えるとき自分が「へんじゃないもの」と設定するわけで自分ひとりの感覚で決められるものでもないと思いました。私は、この本を読んでいく中で、筆者も言うように「そうか、こうすればいいのか。」などといった感動や発見は特にありませんでした。しかし、今まで当たり前のように感じていて気づかなかったことに気づいたりと納得する部分はたくさんありました。普段よく使う身近な言葉を深く考えさせられるきっかけになりました。
(1回 K.S.)
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「わからない」は、思考のスタート地点と書いてあるが、今までその「わからない」を意識して考えたことはなかったので。「わからない」ということを、私は自分の中から消すように努力していたことに気づかされた。「わからない」を「わからなくてよい」に直結させていたため、「わかる」道筋だということを知り、思考をスタートさせていないことは、「挫折のゴールへ向かう人」というように、なんの情報も出来事もうすっぺらなものになってしまうことに気づいた。また「わからない」は、「さなぎが羽化する瞬間に方法に成り代わる。」とあるように、考える上で、消し去ってはいけないものであると感じた。
(3回 K.H.)
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わからないから恥ずかしいのではなくて、わかろうとする時が恥ずかしいという人もいると思う。何かに質問されて「わからない」と答えればそれ以上のことは言わなくてもいい。そこで話は終わりますが、うまい人間関係を築くためには話を続かせることも必要でしょう。だから「わからない」で済ますのはよくない。そして分かるためには順を追って理解していくことが大事とありますが、正にその通りです。基本がないと応用的なこともできない。重要なことだけ言われても、それをどうしていいのか分からないのと同じで、順順に納得していく道のりが必要だと思う。常に基礎から納得していくことが「わからない」を遠ざける一歩だと思った。そうすれば、何も恥ずかしことはないのですが、頭に記憶することが難しいと思う。どうしても「わからない」事が出てくるものです。その為に持久力が必要だと思った。
(1回 K.M.)
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この本の題名を見たとき、いったい何が言いたいのか全くわからなかった。読者を馬鹿にしているのかとさえ思った。わからないから方法を探すのであって、わかっていたら方法など必要ない。正解がわかっているからだ。つまり、正解を見つけるために、多くの人は様々な挫折を繰り返し必死になる。他人から笑われないよう、恥をかかないように。これは、「わからない=恥」という日本人的な美意識がいつのまにか、私たちの心に根づいているからであろう。誰もがこれに従っているわけではないと思うが、やはりどこかで人に「良い格好」をしている自分がいるのではないか。私も例外ではない。「知らない、わからない」ということが、なんだか恥ずかしいことだと思ってしまう。著者のいう20世紀病にかかっている証拠だ。
「知ったかぶり」という言葉があるが、これは「わからない=恥」という意識が典型的に表れた言葉だと思う。素朴な疑問だが、この意識が日本人的な考えだということは、外国語に「知ったかぶり」という言葉はないのだろうか。
このような意識が世間に多く残っている以上、日本はまだまだだ。「わからないことはわからない」と堂々と言えるようになれば、きっと世の中も明るくなるはずだ。私も早くそんな人間になれるよう日々努力しようと思う。
(2回 H.K.)
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わからないは恥ずかしいというけど人の心次第だと思います。わからないと恥ずかしい状態であるにもかかわらずやるという日本人の美意識が恥ずかしいと思います。わからないからやるのが馬鹿のやることかもしれないのはそのためだからだと思います。人は誰よりも早く「先端の理論」を知りたがって大学へ極だと思います。このころはつまり分かることが正解だったと思います。行くことを間の当たりにしてきたが日本の大学はたいしたことはない、また自分たちの思い込みをなんとかしてくれるだけの万能性がなかったからだと思います。二十世紀病と言われるものがある。それは「どこかに正解はある」と思い「これが正解だ」と確信したらその学習と実践に一路邁進するものである。それに対していろいろな理論が登場して新理論へと走った。これが一般的なあり方だったらしいが今自分が思えば国語とかで習ったように正解などないという答えと全くの対極だと思います。このころはつまり分かることが正解だったと思います。
(1回 T.N.)
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「わからない」という方法という本を読んでいくのにつれて、私達が日常的に使う「わからない」という言葉がどんなに奥深い言葉かわかりました。
私は、「わからない」と言うのは、会話の際に使う「逃げ」と考えていたが、本の中では、「わからない」は、「方法がわからない」という意味の「わからない」だという事がわかった。それは、人生が迷路と考えれば、その「わからない」という迷路を切り抜けていけば、必ず、「わかる、わかった」という、ゴールを踏む事ができると私は考えていた。そうではなかった。単純に考えてみれば、「わからない」という「方法」なる言葉自体、存在しなかった。著者は、身体は思考の基盤、経験は、貯えられた思考のデータ、友人は、思考の結果を検証するものであり、三者の使い様が「わからない」を「方法」にすると述べている。
「わからない」は身体に宿る。これを宿らせたままだと、無能とか不器用としか言われない。「わからない」を、「わかる、わかった」にするには、自分自身の知識、経験をもとにした、思考の努力が必要不可欠である。
(3回 Y.U.)
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始め、私がこの本を読み出した時、全く著者の言いたいことがつかめず苦しみました。
ただ1つ分かったのが、人は「わからない」というところで終わってしまうのではなく、「わからない」という疑問が生まれた所から本当は学習心が生まれるのだということです。「分からない」ということを感じてこそ、人間は、自分に足りない所を知ることができるのではないだろうか…と感じました。
私も今までは、考えても考えても分からない…そこが自分の限界ラインであるのだと思っていました。しかし、この本を読んで思いました。人間が学習する上で一番大切なことは、考えて壁にぶつかった所からが本当に自分の頭と身体を鍛えることにつながるのだということです。著者もあとがきに「わからない」は、サナギが羽化する瞬間に「方法」へと成り変わるのであると書いています。人間がもっと成長していく点はここに隠されているのだと思います。
(3回 A.F.)
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『「わからない」という方法』というタイトルを見て、興味をもった。なぜなら私自身、普段から「わからない」という言葉をよく口にしていたからだ。
印象に残ったのは“「わからない」は、思索のスタート地点”という言葉だ。そして考えるうえで大事なのは「わからない」→「わかる」への道筋だということを知った。私はいままで答えを求めることにばかり気をとられて、少しでもわからないと思うことが出てきたら「もうやめた」と諦めていた。まさにこの本に書いてある「挫折のゴール」へ向う人そのものだった。筆者は“この本を読んだからと言って、「そうか、こうすればいいのか」という理解は起こらない”と言っていたが、私は考え方を学べた。
(3回 E.Y.)
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