天理大学 生涯教育専攻 課題図書
苅谷 剛彦 『教育改革の幻想』
ちくま新書(329) / 2002年 / 222頁 /
\700 / ISBN:4480059296
●かりや・たけひこ●
1955年東京生まれ。東京大学大学院教育学研究科修士課程修了。ノースウエスタン大学大学院博士課程修了。Ph.D.(社会学)。現在、東京大学大学院教育学研究科教授。専攻は教育社会学、比較社会学。
著書:『学校・職業・選抜の社会学』(東京大学出版会)、『知的複眼思考法』(講談社)、『大衆教育社会のゆくえ』(中公新書)、『階層化日本と教育危機』(有信堂高文社)ほか。
第1章 教育の制度疲労
第2章 「ゆとり」と「新しい学力観」「生きる力」の教育
第3章 「ゆとり」のゆくえ − 学習時間の戦後少史
第4章 「子ども中心主義」教育の幻惑
第5章 教育改革の幻想を超えて
学生の感想文(19)
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「教育改革の幻想」とあるが、これはもはや失敗ではないだろうか。教育改革の中で最も注目を浴びることとなったのは、やはり「ゆとり教育」であろう。学校を完全週5日制にしたり、台形の面積の公式の取り払いなど、いろいろ試みたが、一方でこの4月から、先生の主観で、意欲、関心、態度等を点数化して、それを各教科の評点に組み入れる観点別評価が公式にすべての公立小、中学校で採用されているそうだ。このような改革は、学力低下を促し、なおかつ生徒の心のゆとりを奪っているとしか思えないのである。「ゆとり教育」とは「ゆとりのある教育」ではなく、「ゆとりを奪う教育」と言っても過言ではないだろう。
ゆとり教育政策によって機能不全に陥ってしまった日本の教育システム全体を本来のものに再改革すること、つまり教育改革と学力回復の両立を考えてもらいたい。
(1回 Y.M.)
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まず初めに教育改革と言っても今も昔もやはりあまり変わっていないと思います。「知識の詰め込み」ということでは何も変わっていないと思います。この本にも書いてあるように理想にすぎないと思います。実際今の大学のテストでもやっぱりノートに書いたことを覚えてテストするこれが大半を占めてると思います。生涯にわたって勉強するこれはかなり難しいことだと思います。でもそれを今私自身大学で学んでいることでこれをどう世間に広めていくためにはどうすべきかを学んでいきたいと思います。「自ら学び、自ら考える力」これについては確かに今の時代にかなりかけている点だと思います。この「自ら学び、自ら考える力」これが常に普通の考えになることが出来たなら今の時代の生涯にわたって学習するという教育改革が完成するのではないかと私は思います。今は知識の詰め込みだけでどうのこうのという時代ではないと私は思います。
(1回 S.T.)
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「子ども中心主義」の中の「学校は子どもたちにとって伸び伸びと過ごせる楽しい場でなければならない。子どもたちが自分の興味、関心のあることにじっくり取り組めるゆとりがなくてはならない。」という表現が全くの理想でしかないと思った。こんな学校になるはずがない。こんな大きな理想をたてる前に、まず小さなことから改善していかなければならないことがいくつもあると思った。それに、「のびのび過ごせる楽しい場」にできるはずがない。学校を楽しい場だと思っている人はかなり少ないと思う。学校にいかない子が増えてもいるし、いじめもある。勉強も楽しくないと思っている人も多い。確かに学校が伸び伸び過ごせる楽しい場であればすばらしいとおもう。そのためには、まず子どもどうしの関係から考え直す必要があると思った。子どもどうしの人間関係をよくすることが必要だと思った。子どもどうしの関係が良くなれば学校が伸び伸び過ごせる楽しい場に近づけると思った。
(1回 T.K.)
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私はほんの数ヶ月前まで受験競争の毎日に追われる身であった。しかし、睡眠時間を削ってまでやっていた勉強を大学に入って講義ばかりの授業でほとんどやらなくなった。最近では勉強をほとんどやっていない毎日に不安を抱き始めた。そして今になって、あんなに大嫌いだった英語をなにかの役に立つと思い始めて、本屋でラジオの英会話教科書を思わず買って勉強をし出したのだ。
文部省がどんなに教育問題解決法について議論を交わしても勉強する本人たちが自分から学ぶ意欲と自主性を見せないと意味がない。私が勉強に対しての思いが変わった。自分の変化は周りの環境の変化に影響すると感じた。勉強を義務とする生徒を指導する身近な教師たちが、今日の教育問題について把握し、改革を実行すべきである。
実際の教育が行われていない会議室で教育を変えようとしても、よい解決策なんて見出せるわけがないのだ。
(1回 Y.I.)
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この本を読んで「ゆとり」の大切さを知った。しかし「週5日制の導入」や「学習内容の削除」などは実施されている事は知ってはいたが、果たしてそれだけで子どもたちに「ゆとり」が持て、「生きる力」が養われるのか疑問である。私は「ゆとり」があるだけでは自ら学ぼうとする姿勢は身に付かないと思う。
週5日制で学校が休みになる分、遊びほうけてしまい、余計に勉強に手をつけようとしない子や、せっかくの休みの日まで塾や家庭教師で、結局昔ながらの詰め込み学習で、休みの日も休めない子も出てくると思う。
子どもに自ら学ぼうとする意欲を出させるのは難しい課題だとは思うが、もっと直に子どもと関わり、研究すれば、少しは理想の教育改革に近づくのではないかと思う。
(1回 H.K.)
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2002年から実施される完全な学校週5日制のもとで、「自由で柔軟で居心地のよい学校生活」というものがめざされているが、そのことで本当に「生きる力」を養うことができるのか、という点について私はこう思う。ゆとりが与えられることで自ら学ぶ姿勢というものがみにつくかというとそうではないと思う。
確かに「ゆとり」は必要ではあると思うが、学校を週5にすると、逆に「ゆとりができる」というよりも、だらけてしまいそうな気がしました。今日では学力低下という文字をよく目にするし、その上授業時間が減るとどうなるのだろうかと思う。その分塾に通わせるのかもしれないが、それなあ「ゆとり」はさらになくなってしまうし、教育改革というもとのは本当に難しいと思いました。
(1回 A.Y.)
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私は、現在「ゆとり」教育がおこなわれており、その政策の中で、「教育内容の削減」、「週休五日制」などが実施されていることは知っていた。
しかし、それ以上の具体的な内容や、改革の「真意」などは、まったく理解はしていなかった。ましてそれに関する知識などないに等しかった。
しかしこの本を読み、「ゆとり」とは遊ぶためのゆとりということではなく、教える内容を減らすことで、子供にゆとりをあたえ、授業理解度を高め、「わからないで授業にでる子が一人もいない」ということが理解できた。
また私が一番興味をもったのは、学習指導要領の目玉である「総合的な学習の時間」である。今は、公民館などでも子どもたちを集めて、様々なことを実施している。
子どもたちの「生きる力」を学習させるという点で、自分もすこしでもいいのでかかわっていきたいと思った。そのためには、もっとたくさんの知識や経験を身につけなければいけないと考えさせられた。
(1回 K.O.)
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「ゆとり」を目指す教育は、私にとっても理想的で、問題があるなんて疑う余地もないほどまぶしかった。だけど、「ゆとり」は学習意欲をもたせるどころか、勉強ばなれを増やす結果になってしまっていたことに気づかされた。
教育とは本当に奥深いものだと思い知った。十人十色で、ゆとりが合っている子どももいれば、違う子どももいて、全員に対応できる方法をなかなか探し出すことができない。そうなると理想にばかり先走ってしまって、本当の問題解決にたどりつけない。
これからも、もっといろんなことを実証していって、どうやったら一番よい結果が得られそうかを考えていってほしい。(もちろん考えられていっているとは思うが)
いつか全国で、この理想とする教育がいち早くできるようになることを願ってやまない。
(1回 K.W.)
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現在行われている教育改革は、学習する側、つまり「子ども」を思いやる教育を目指しているが、私は以前までこの改革に対して一方的に肯定的であった。しかし本書の教育改革に対し客観的に考え直している意見を読み、もっと広い視野でこれからの教育改革を見ていかなければならないと感じた。ゆとりの教育により、子ども達に余暇は増加したと思われるが、それは時間的、物質的なものであり、まだまだ精神的にはゆとりをもっていないと思う。教育の中にも社会教育、学校教育、家庭教育などがあるが、最も子どもと密接な関係を持ち、大切である教育は家庭教育だと私は思う。その家庭教育の教育者である親が、まだ教育改革について理解していないのではないか。議会の場では改革がどんどん進んでいるが、教育の現場ではまだまだ改革は浸透していないのだろう。だからといって改革をストップさせる必要はないが、もっと足元を見ていかなければならないと私は思う。
「問題は会議室で起きているんじゃない!現場で起きているんだ!」
(1回 K.U.)
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教育改革に当たってその成否を担っているのが教師であると思います。教師も改革を進める行政担当者にとっても教育現場の理解と実践如何によって、改革の成否が分かれることが認識されている。条件整備が不十分なままあるいは教育現場の「理解」が不完全なまま、教育改革が断行されれば、現場は過大な期待を引き受けることになったり混乱したりすると思います。学校にゆとりが必要であるとみなす問題意識は学校に今ゆとりがないと言っているものだと思います。教師がゆとりを大切にすると教師の意味がなくなると思います。教師の役割は指導であるのに指導をしてはいけないように思えてきました。個人的な意見で一人一人に違った学習方法を取るべきだと自分は思います。不平等とかではなく、個人能力に合わせた指導をしていき、皆を横一線に持っていき平等にする学習のあり方が必要だと思いました。教師も考えながら子供たちに接する時代だなと思いました。
(1回 T.N.)
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教育を変えなければならない。このような認識の元に、教育改革が進行しているのだが、はたして、目指すべき改革は、正しい現状分析によっているのか。教育改革は、不十分な現状認識を元に、実現のあやふやな「まぼろし」を追いかけているにすぎないのか。そういわれてみれば、そういった部分もあるような気がする。今、社会問題になっている不登校、いじめ、学級崩壊等あるが、そういったものは最近の教育改革によって生まれてきた問題ではないだろうか。そうであれば、目指すべき改革は、正しい現状分析によって行われていないではないだろうか。この本によれば、文部科学省の教育改革に代表される教育のとらえ方・問題把握の仕方、さらには改革をリードする理想の描き方をできる限り実証し、そこで見落とされた問題はないかなどを問い直す試みであるらしいが、はたしてそれで教育改革に結びつくのか、そこからまた、よくなるのか、私は全然そうは思わない。
(1回 K.M.)
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教育の議論をしていると、どうしても子供に目が行きがちになる。子供に目を向けずに教育を語ることは、正しい教育の論じ方ではない、といった主張がなされることも少なくなくない。子供の主体性を大切にしようという善意が、教育議論にはあふれている。その議論の過程で、きずかされた事のひとつが、ここに述べたミクロとマクロの違いある。それが議論のすれ違いを生んでいたのだと思います。そしてもうひとつ気になったのが「べき論」と「である論」のすれ違いである。その真意は、現実論から理想を否定することでも、その価値を貶めることもできない。理想が現実を引っ張っていけるようにするには、理想と現実との相互の関係を教育議論に取り戻すことが重要だと考えてのことである。学習指導要領がミニマムだというのならば、本当にそれを大前提とした教育革命のやり方自体を練り直したらよい。教育制度に多様性を持たせるのなら、教育革命のやり方自体を多様化していく事が必要である。
(1回 K.S.)
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この本から生涯学習の大切さをとても感じることができた。それは「学習」というもの学校で行われる授業だけで出なく、普段仲間といっしょに遊んでいる時や趣味、知的好奇心、人との会話、様々な年齢の人との交流など、能動的で有能あれば、ほとんど全ての行為、事象が「学習」に繋がっている。しかしそれらを受動的、無能であれば話は別である。
ある時、自分の周りにあることが起こり、それをただ聞き、感じるだけでは受動的であり「学習」ではない、その起こった事に関し興味、関心を持ち、考え、自分の意見を持ち、発言できることが能動的であり「学習」であるのだと思う。自分の意見とは違う他人の意見を否定的に捉えるのではなく、肯定的に受け止め、その人それぞれの考えを知り、学んでいき、それを自分の知識として持つことが、人と付き合う事で得られる一つの「学習」である。他にも様々の場面、場合があるがその事に関し能動的、有能であれば人はより成長し、良い社会が創られていくのではないのだろうか。
(1回 I.T.)
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教育改革は個人的な印象や体験に基づく主張では教育や社会の基本的な構造を思わぬ方向に変えてしまう危険性を持つ。ただす方法は改革議論に埋め込まれた現状認識や問題把握の甘さを指摘していくこと。
子供一人ひとりの学びたい欲求を無視した点数を競い合う教育では「子供のため」の教育にはならない。「自分で学びたい」というモチベーションを子供に持たせることが新指導要領の狙いである。そのためには子供たちの「興味・関心」を喚起する授業が必要になる。
ゆとりという改革も結果的に誰でも均等に「ゆとり」を配分したわけでなくもともとあまり勉強していなかった生徒たちにゆとりを与えてしまった。
教育の現実を「詰め込み教育」とみなし、それへの反動から「生きる力」の教育を目指すのである。子供が活動を通して何かを学んでいるのと同時導法を学んでいる。そうみなさない限り「生きる力」の教育は実現しない。
(1回 Y.N.)
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「自由で、柔軟で、居心地のよい学校生活」がめざされる中で「子どもたちが自ら学び考えることを含む、生きることへの熱望」を育てあげることはできるのか、「居心地のよい学校」(=「ゆとり」)と「子どもたちが自ら学び考えること」(=「生きる力」)とを結びつけるにはどんな論理があるのかと思う。確かに、子ども達が何に興味・関心があり、自ら学んでいこうとする力を身につけるには、ただ教師が生徒に知識を詰め込むのではなくある程度ゆとりを与えることは必要かもしれない。かといって、「子どもにゆとりを与えるべきだ」という世間の人の声に押されて、ゆとりを与えすぎるのはどうかと思う。はるかに受験戦争が激しかった時代でさえ、当時の実証研究によれば予想を裏切るほど穏当な受験生活があったと示されている。戦後五〇年たった今、昔より学習時間が少ないという調査が出てることから、ゆとりをとるにしてもとり方が問題になってくると思う。
(1回 Y.M.)
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現在、子供を主体とした教育改革として週完全5日制になどが実施されているが、果たしてそれによって子供に「ゆとり」が与えられ、子供たちが救われたのだろうか?救われたとしていてもきっと何らかの問題があるはずである。それは本書に書かれてある通り、一番は「学力の低下」である。週完全5日制により授業日数が減少されるため、どうしても教科書の内容を容易化しなくてはならないのは当然である。だからといって生徒の理解力がよくなることもなく、むしろ本書で示されている表にもあるように低下している。また、「体験的な学習・問題解決的な学習」といった「総合的な学習の時間」を重要視したからといって生徒の学習への関心が増していないのが現実であり、指導主事をはじめ教師を指導する立場にある人々にとってもどうすればうまくいくのか、具体的で明確な答えをもちあわせていないのも現実である。だから、現在の現状をしっかりと見つめ直し、幻想から逃れた教育改革の発想をする必要がある。
(1回 M.S.)
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教育改革のねらいは、「ゆとり」と「生きる力」の教育だそうだ。私はこれに真っ向から反対する。ゆとり教育は、学力の低下をもたらす恐れがあるからだ。日本には、昔から天然資源が無いといわれている。だが、資源というのは、石油とか鉄鉱石ばかりではない。教育水準の高い多くの人材も立派な資源である。ゆとり教育は国力を下げ、激しい国際競争についていけない恐れがある。資本主義社会というものは、ものすごい勢いで競争を激化させている。私はこのことについても疑問を感じている。私はこれからは資本(お金)主義ではなく、知本(知力)主義に転換しなければならないと思う。知力こそ人間にとってもっとも大切なものである。今後の日本を救うのは、創造性豊かな才能ある人、つまり天才の出現ではなかろうか。これからは、天才に民族全体がぶらさがっていかなければならない時代がくるだろう。そのためにも教育水準の高さを維持し、学問の大切さを再度認識すべきである。
(1回 S.N.)
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この本を読んでゆとり教育は、やはり必要だと感じました。昔からのつめこみ式の教育ではいけない。その結果として今の大人は、多様な考え方を持っている人が少ない。一方通行的な考え方になってしまうのである。ゆとり教育とは、学校などが子供のために多くの職業を体験させたり、いろいろな人(外国人・老人など)と話したりすることが必要であると考える。そのために授業時間を減らすことは、良いと思う。その中で子供も自分のやりたい事を見つけやすいし、大人の大変さもわかるし、そして、いい経験にもなる。だが、ゆとり教育の実現のためには、教師(学校)や地域、親などの信頼関係などの多くの問題がある。しかし、その問題を1つ1つ三者会合みたいな感じで話し合い、解決していくことで、子供のためだけではなく、教師(学校)地域、親ともコミュニケーションにもなって良いと思う。
(1回 M.A.)
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教育改革に基づく今回の新学習指導要領は、家庭を含む一般社会にどれほど浸透しているのだろうか。本書では教育界に限った世界のことを述べているが、例えば「総合的な学習の時間」の教育課程では具体的な学習活動としていろいろな課題や活動に取り組む際、「自然体験やボランティアなどの社会体験、観察、実験、見学や調査、ものづくりや生産活動などの体験的な学習、問題解決的な学習が積極的に展開されることが望まれる」、とされている。これを実践する場合学校のみならず、家庭、一般社会、特に地域協力、でのかかわりも出てくるに違いないと思うからである。
本書では具体的な調査データに基づき分析、また過去と最近のデータとを比較することから生ずる問題点を提起している。例えば今まで認識されてきた「試験地獄」が一般に認識されてきた常識とかけはなれているといった点等、その他でも、統計や事例を多用してそこから導かれる考えや方向性を見出そうとしている点、説得力があり、わかりやすい。
特に後半、「情報化社会と子ども中心主義」のあたりで「生涯学習の時代」という言葉が多く出現する。この類の言葉がでてくる個所はなぜか注目して読むようになった。
この本を二ヶ月ぐらい前に読んでいれば途中で投げ出して、やめていたかもしれない。したがってまた、数ヶ月後この本を読み返せば、自分の変化のありように気づく点があると思う。
(1回 T.I.)
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